第17話 再訪
朝のパン屋は、忙しい。
焼き上がったパンの匂いが、
通りまで流れている。
「これで、今日分は終わりですね」
ミラが、少し誇らしそうに言う。
「売り切れ、
って書くの、まだ慣れないです」
「慣れるわよ」
セレナが、笑いながら言った。
「そのうち、
書く暇なくなるから」
「それは……
ちょっと、こわいです」
「いい怖さ」
レオンは、袋を畳みながら言う。
「順調、ということです」
「……はい」
ミラは、胸の前で手を握る。
「ちゃんと、
パン屋をしてます」
「ええ」
「立派に」
三人の間に、
あたたかい沈黙が落ちる。
その午後だった。
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夕方の診療所。
外は、いつも通り静かだった。
「今日は、
もう来ないわね」
セレナが言う。
「ええ」
レオンが答えた、その直後。
ドン。
重たい音。
扉が、半分だけ開く。
そこから、
女が崩れ落ちるように入ってきた。
立てていない。
両腕で床を掴み、
身体を引きずっている。
床に、血が落ちる。
量が、多い。
「……来た」
声は、ほとんど息だった。
それでも、
目だけは、真っ直ぐにレオンを見ている。
「……死ぬ前に」
一度、息を吸う。
「お前を、
殺しに来た」
剣に手を伸ばす。
抜けない。
脚が、崩れる。
「……?」
一瞬、理解できない。
「……動かない」
セレナが、一歩前に出る。
「その身体じゃ、
もう戦えない」
「……治療するな」
女は、歯を食いしばる。
「触るな」
「私は、
お前に触れられるくらいなら
死ぬ」
セレナが、レオンを見る。
「……やる?」
「はい」
それだけで、通じる。
レオンは、女の前に立つ。
視線を落とす。
呼吸の間隔。
血の量。
力の抜け方。
「間に合います」
淡々と、言う。
「セレナ、支えてください」
「了解」
セレナが、女の背に手を当てる。
倒れない角度。
息が一番入りやすい位置。
レオンは、女の胸に手を置いた。
「まず、動かないでください」
「……何を」
「死なないようにします」
手を、離さない。
痛みは消えない。
傷も消えない。
血だけが、止まる。
女の呼吸が、詰まる。
「……っ」
「息を止めないで」
「今は、楽になります」
次。
レオンは、間を置かない。
「今から、戻します」
「治すわけじゃない」
「壊れていない状態に、戻すだけです」
セレナが、低く言う。
「脚、来るわよ」
女の脚が、震えた。
冷え切っていた感覚が、戻る。
重さが、戻る。
「……何をした」
「まだです」
レオンは、腕に触れる。
「力を入れないでください」
「抜きます」
抜く。
痺れを。
引っかかりを。
腕が、自分のものになる。
女の指が、動く。
自分の意思で。
「……」
言葉が出ない。
「次」
背中。
「深く、吸って」
女が、息を吸う。
途中で止まらない。
吐く。
それも、止まらない。
レオンは、手を離した。
「立てます」
セレナが言う。
「ゆっくり」
女は、床に足をつける。
力が入る。
立てる。
沈黙。
「……なぜ」
女が、低く言った。
「ここまで、やった」
レオンは、少し考えてから答える。
「生きていたからです」
「それ以上の理由は、ありません」
女は、視線を伏せた。
「……最低だ」
「私の部下は」
「全員、死んだ」
「助けなかった」
レオンは、否定しない。
「助けられないと、判断しました」
「数が多すぎた」
「間に合わなかった」
「……それで」
女の声が、震える。
「お前は、生き残った」
「戦線は、勝った」
「それで、いいのか」
レオンは、静かに答える。
「良くはありません」
「ただ」
「それしか、残らなかった」
女は、笑った。
短く。
荒い。
「……だから、憎い」
床に落ちていた刃物に、手を伸ばす。
掴む。
一瞬で、距離を詰める。
喉元へ。
迷いはない。
殺すつもりだった。
——動かない。
腕が、止まる。
セレナの手が、女の腕を押さえていた。
力ではない。
入れる方向を、最初から奪う。
「……っ」
女が、歯を食いしばる。
「……さすが」
低く、吐き捨てる。
「英雄の」
「第六の、元団長様だ」
セレナは、静かに言う。
「ここでは、殺させない」
女は、腕を引いた。
動かない。
「次は」
レオンを見る。
憎悪だけを、向ける。
「次は、本気で殺す」
刃を、床に落とす。
踵を返す。
扉が、閉まる。
静けさが、戻る。
セレナが、息を吐いた。
「……重いわね」
レオンは、片付けを始めながら言った。
「ええ」
「ですが」
「生きています」
それだけだった。




