01 出発前/1992/赤ビキニ
1992年、初夏。ロシア。
とある、海沿いの町にて。
ザッ、ザザッ、ザッ。
海岸を歩く、三人。
男性が一人。その後ろに、もう二人――少年と少女――がついてゆく。
酷寒のイメージが強いロシアも、夏が近づけば氷が溶けて、中には穏やかなビーチもある。
ここの一帯も、そうであった。ただし、遊泳は禁止。だからであろうか、ひっそりとしていた。
この三名以外に、人影は見当たらない。
「晴れてよかったね」
白いワンピース姿の少女が、宝石を思わせる青い瞳で、話しかけてくる。良く出来た人形のように、いや、もしかしたら、どんな人形よりも、整った顔立ち。
やわらかく、高い声。小さな唇は、かろうじて、笑みを形づくっている。
「ん。そうだね」
少年の声も高い。声変わり前だからだ。
左の少女へちらりと目をやるが、返事はぶっきらぼうであった。
肩を並べ――いや、肩は並ばぬ。少女の方が、だいぶ背が高いためだ。何せ、年の差が五歳もある。成長期の五年は大きい。まして、女子の方が発育は早いのだ。
少年は、ジーンズのポケットに手を入れて歩く。風に、黒いシャツがふくらんで、戻った。
少年の名前は、龍輝といった。九歳。
二人は、いつもは仲良し。時に友達、時には姉弟のように。しかし、今は会話が続かない。無理もないけれど。
今日は、お別れの日なのだ。しかも、別れの時は、わずか十五分後に迫っている。
少女の、風に舞う金髪から目をそらし、龍輝は、左から前へ、視線を戻す。
数メートル先に、もう一人の背中。歩く姿は猫背だ。中年の男性である。
やや振り返ったので、眼鏡と、口もとのヒゲが目に入った。が、歩みは止めない。男性が前へ向き直ると、後頭部の薄い毛髪が見える。
灰色の砂浜を、二人もついて行く。
前方を歩く男性は、龍輝の父親であった。太めの体格。ダブダブのジャージ姿。
のそり、のそりと、余裕のある歩き方。もう、目的地はすぐそこだからだ。
と、その時であった。
強めの潮風が、横薙ぎに吹き込んで来た。
ワンピースのスカートがめくれ上がって、
「キャあァッ」
少女が悲鳴をあげる。
「!」
ワンピースに負けないくらい白い、雪のような細い脚が露わになり、上方まで裾が跳ねた。
少女の履いている赤いビキニが、一瞬、のぞける。
「――」
あわてて、スカートを押さえる少女。両手の下で、ワンピースが、風船みたいにふくらんでいる。
十四歳。体つきも、幾分か女性らしく成長している。いや、白人であり、体格は立派だ。大人並みと言っても、さほど過言ではあるまい。ビキニに包まれたお尻も、しっかり丸みを帯び、はち切れそうだった。
幸い、父は振り向かなかった。
突風の音が意外に大きかったのと、青空をカモメが偶然横切って、かん高く鳴いたためだ。少女の悲鳴が、かき消えたのである。
したがって、今のを見た者は一人であり――。
「――」
龍輝の顔は、カアッと熱くなっていた。鼓動が早まる。ドキドキというより、ドクッ、ドクッという、ちょっと嫌な感じの、醜い響き方だ。
まぶたに、赤い三角形が点滅し、視界を左右に、行ったり来たり。カメラのフラッシュに似ていた。残像は、数秒間は消えなかった。
龍輝は小柄なので、ちょうど、少女の腰の辺りに頭の高さが来る。すなわち、赤いビキニを、まさに眼前で、もろに見たことになる。
ワンピースと、脚の素肌。
真っ白まみれの中に、そこだけ色づいた、赤い閃光……。
「……っ!」
龍輝は、口を結び、かたくなに真ん前を向き、うつむき加減に歩く。わざと、ズルズルッと音をたてて、鼻をすすり上げる。
別れる直前の寂しさと、少女のスカートの中を見た興奮、自己嫌悪。いろいろな感情が入り交じって、九歳の男の子には、割と、いっぱいいっぱいであった。
早く、今のはなかったことになって、話題が次へ、切り替わらないかと思っ――
「見たでしょ……」
「!」
ぎくり。心臓がひょこっと揺らぐ。
少女のささやきが、頭上から降ってきて、左耳に飛び込んでくる。潮風の音をくぐり、はっきり、まっすぐ、耳の穴の奥を、くすぐった。
(ううっ)
やはり、それでは済まなかった。そんなに甘くはなかった。やり過ごせなかった。
左を見上げると、青い瞳がにらんでいた。少女の真っ白い肌の、ほほと瞳の下だけ、ピンク色に染まっている。
(白人でも、こんな漫画みたいに、分かりやすく赤くなるんだなア)
妙なところに感動しつつ、龍輝は首を振って、
「いっ、い、いや、見てな――」
「顔、赤いけどっ!」
龍輝の優しいウソは、あっさり、さえぎられた。
確かに、今、龍輝「も」赤面しているはずだった。実際、顔がほてっているという自覚はあった。
「見た」からこそ、顔が赤いのだ。まして、五歳も年長の相手に、とてもごまかせまい。
目をそらして、二、三歩、次のセリフを考え考え、前進する。それから、ぼそっと、
「でも、ほら、みっ、水着だし……」
これは、事実ではあった。今見えたのは、厳密には下着ではないのである。少女は、ワンピースの下に、赤い水着をつけていた。
フッと、左で音がした。噴き出したのと、ため息と、その中間だろうか。
見上げた。少女は、大きな瞳を細めていた。目もとは、まだピンク色だったけれど、不機嫌そうではない。
「まあ、そうかもね。一応、セーフかな」
お姉さんみたいな口調で、ほほえんでいた。
ホッとした龍輝は、気が緩んで、
「うん。パンツじゃないしね」
「こら、パンツとか言わないの」
叱られた。
思わず、互いに笑い合う。
「なんだ、どうした? 急に、にぎやかになって」
前からも、低音の陽気な笑い声がして、龍輝の父が振り返った。
続けて、
「さあ、ここだ。着いたぞ」
と、砂浜の途中で立ち止まった。
父は、少女の方をまっすぐに見つめている。その目つきは真剣で、早くも、笑顔は消えていた。