婚約破棄され虐げられてきた悪役令嬢は、家を追い出されても決して泣かず、隣国皇太子の一途な溺愛と復讐によって、気づけば次期王妃の座を掴み取っていた件
侯爵家の次女、レティシア・アーベントロートは、幼いころから両親に愛されることはなかった。
父は「おまえは我が家に不要だ」と冷たく突き放し、母は「せめて姉のようであれば」と溜め息をつく。完璧な容姿と才能を持つ姉クラリッサと比べられ、殴られ、罵られた日々。生きる意味を問うことすら諦めるほど、彼女の幼少期は暗闇だった。
唯一の希望だったのは、公爵家嫡男・アルベルトとの婚約。幼少より定められた縁談だったが、レティシアはそれを「自分が存在していい証」として心の支えにしていた。だが――。
「レティシア。お前との婚約を破棄する」
舞踏会の夜、アルベルトは人々の前で高らかに宣言した。隣には姉クラリッサの姿があった。
「俺の心を奪ったのはクラリッサ様だ。お前のような出来損ないとは、もはや共に歩めぬ」
人々はどよめき、嘲笑が会場に広がった。クラリッサは勝ち誇ったように唇を吊り上げ、父母は遠くから冷笑を浮かべている。
レティシアは立っているのがやっとだった。胸の奥で何かがぽっきりと折れる音がした。
涙は出なかった。ただ、心が空洞になったようで。
――もう、この家にはいられない。
その夜遅く、レティシアは最低限の荷をまとめ、馬車も使わず館を出た。行き先などなかった。ただ、とにかく遠くへ。見知らぬ土地で名を隠し、息を潜めて生きるしかない。
◇
三日三晩、森を歩き続け、ボロ布のような姿で辿り着いたのは隣国ヴァルハイト王国の城下町だった。
雨が降っていた。空腹と疲労で膝をついた時――。
「……お嬢さん、大丈夫か?」
差し伸べられた手。見上げると、長身で凛々しい青年が立っていた。濡れた金髪は陽光を集めたように輝き、碧眼は真っ直ぐに彼女を見つめている。
彼が誰なのか、この時のレティシアは知らなかった。ただ、その眼差しに心を射抜かれたように、胸が高鳴った。
「わ、私は……」
声が掠れる。青年はためらわず彼女を抱き上げた。
「俺はユリウス。この国の皇太子だ」
――皇太子?
あまりの事実に思考が止まった。だが彼は真剣な顔で続けた。
「運命だ。初めて会ったのに、君を放っておけない」
レティシアの頬が熱くなる。しかし彼女は、すぐに首を振った。
「……私は、誰にも必要とされない女です。放っておいてください」
ユリウスは驚いた顔をした後、静かに微笑んだ。
「それは君を傷つけてきた者たちが愚かだっただけだ。君自身の価値は失われていない」
その言葉は胸に深く突き刺さった。けれど、信じるにはあまりに痛みが深すぎた。
「……信じられません」
か細い声で拒絶する。それでもユリウスは諦めなかった。
「ならば俺が証明しよう。君がどれほど大切で、愛されるべき存在かを」
◇
数日後。レティシアはヴァルハイトの王城で療養することになった。
だが彼女はユリウスの求愛を頑なに拒んだ。
「……私に関われば、殿下に迷惑がかかります」
「迷惑どころか、君なしでは息ができない」
真摯に言い切る皇太子に、レティシアの心は揺れる。けれど彼女は繰り返し「私は呪われた娘だから」と距離を置いた。
――だが、ユリウスは黙っていなかった。
彼は密かに、レティシアを虐げた者たちの調査を始めていたのだ。アーベントロート侯爵夫妻の横領、クラリッサの数々の悪行、アルベルト公爵家嫡男の裏切り。証拠を集め、国際問題に発展させ、彼らを断罪する準備を進めていた。
レティシアの知らぬところで、復讐の歯車は回り始めていた。
ーーー
ユリウス皇太子が密かに進めていた調査は、ほどなくして驚くべき成果を挙げた。
アーベントロート侯爵家は長年にわたり隣国との交易で不正を働き、賄賂を受け取り、下民を酷使していた。さらにクラリッサは舞踏会での婚約破棄を裏で画策し、アルベルト公爵家嫡男と通じて王国の資産を流出させていた。
「……腐りきっているな」
報告書を投げ出したユリウスの声は冷え切っていた。
そして翌月、ヴァルハイト王国から正式な抗議文が隣国に送られた。
罪状は――横領、背信、そして外交上の不誠実行為。
父侯爵は王の御前会議で断罪された。
「アーベントロート侯爵。貴殿の所業は国の顔に泥を塗った。爵位は剥奪、領地は没収とする!」
廷臣たちの前で突きつけられた宣告に、侯爵は顔面蒼白となった。妻は泣き喚き、クラリッサは「私は被害者よ!」と声を張り上げたが、ユリウスが示した証拠の数々の前に、言い逃れは不可能だった。
「おまえたちが見下し、虐げた娘――レティシアこそが真に潔白である。貴様らは自らの愚かさで地位を失ったのだ」
冷徹な皇太子の言葉に、廷臣たちは頷いた。
こうしてアーベントロート侯爵家は一夜にして没落した。
◇
次はアルベルト公爵家である。
アルベルト本人は、「愛した女性と結ばれただけ」と開き直った。だがユリウスは容赦しない。
裏帳簿を突きつけ、国家資産横流しの罪で糾弾した。
「貴様は愛と称して不義を働き、国家に損害を与えた。公爵家の名を辱めた罪、重いぞ」
王は静かに頷き、判決を下した。
「アルベルト公爵家は断絶とする」
その瞬間、アルベルトは絶叫した。クラリッサと共に牢へと連行される姿は、かつての栄光を知る者たちに深い衝撃を与えた。
◇
一方そのころ、王城の一室でレティシアは報せを受けていた。
「……本当に、父も母も、姉も……そしてアルベルトも……?」
震える声で呟く。
ユリウスは彼女の前に跪き、手を取った。
「そうだ。君を苦しめた者たちは、もう権力を振るうことはない。君は自由だ」
レティシアの瞳から、堰を切ったように涙が零れ落ちた。
幼いころから求めても得られなかった言葉。愛されないと思い込んできた心に、じんわりと温もりが広がる。
「……なぜ、そこまで……私のために?」
ユリウスは強い眼差しで答えた。
「理由など一つだ。君を愛しているからだ。初めて会った日から、ずっと」
レティシアは言葉を失った。
だが胸の奥が熱くなり、縛られていた鎖が外れる音がした。
「……信じても、いいのですか? 私が……愛されていると」
彼女の問いに、ユリウスは微笑み、唇を重ねた。
「君は、必ず幸せになる。俺の隣で」
◇
数週間後。
ヴァルハイト王宮の大広間に、盛大な宴が開かれた。
ユリウス皇太子と、元侯爵令嬢レティシアの婚約が発表されたのだ。
人々は驚愕し、そして納得した。彼女の清楚な美しさと、毅然とした佇まいは、虐げられた日々を乗り越えた者の強さに満ちていたからだ。
「これより、我が婚約者レティシアを次期王妃とする」
ユリウスの宣言に、大広間は拍手と歓声で揺れた。
レティシアは涙を浮かべながら彼の手を握り返した。
――あの日、すべてを失ったと思った。
けれど今、私は誰よりも大切にされ、愛されている。
過去の痛みは消えない。けれど、それすらも糧にして歩ける。
隣には、誰よりも強く、優しい人がいるのだから。
こうして悪役令嬢と蔑まれた娘は、隣国の皇太子妃となり、やがては王妃へと至る未来を掴んだ。
復讐と愛がもたらした、誰も予想しなかった逆転の物語である。