母の名を呼んだ日
「シイナ、本日をもってルイスの専属メイドの役職を解任します」
「……そんな、奥様……」
突如として言い渡された母の命令に、僕もシイナも思わず言葉を失った。
あまりに唐突で、あまりに横暴――けれど、僕の中に眠るルイスの記憶は、そんな母の姿すら冷ややかに見下ろしていた。
この瞬間をもって、ルイスは彼女を母親とは認めなくなった。
(そういうことか…。だからゲーム本編でも、母親の話が一切出てこなかったんだな)
ファンブックにも、設定資料にも、両親の記述は皆無だった。
偶然ではない。ルイスは意図的に、語ることすら拒絶していたのだ。
その事実に、プレイヤーだった僕は妙な納得を覚えながらも――
「……わかりました、奥様」
「!?」
思わぬ返答に、母も、僕も、息を呑んだ。
シイナの声は驚くほど静かで、どこまでも冷ややかだった。
その瞳には、決意の光が宿っている。
次の瞬間、彼女のメイド服の中で何かがごそりと動いた。
それは小さな、小さな動き―――。
けれど、それを知る僕には何が起ころうとしているかが、痛いほどにわかった。
『もし主人が間違った道へ進むなら、それを正すのも従者の使命と心得ています』
今朝、シイナはそう言ったのだ。
僕が道を踏み外せば、彼女は僕を殺し、自分も死ぬ。
それはきっとお母様にも適応するシイナの信念だ。
(マズい――!)
やっと現実を認識した僕は、慌てて二人の間に割って入ろうとした。
「おっ、お母しゃま! そっ、それはダメで―――うわぁっ!!」
情けないほど裏返った声とともに、段差もない場所で豪快に転倒した。
かつては魔王として優雅に君臨していたルイスの身体も、元・運動音痴の僕が使えばただのポンコツ。
反射神経も筋力も、宝の持ち腐れとはまさにこのことだった。
頭から絨毯に突っ込んだ僕の姿に、二人は唖然としていた。
「……」
顔を上げると、何とも言えない生ぬるい視線が注がれていた。
顔が真っ赤になる。おそらくこの日の出来事は、僕の中で30年は黒歴史として刻まれるだろう。
「え、えっと……ルイス? 大丈夫?」
「奥様…ほら、ルイス様はこのようにご様子ですし…」
「えっ、えぇ……どうやら私は、焦りすぎていたみたいね」
(あれ? 空気……変わってない?)
さっきまでの一触即発な空気は、完全に霧散していた。
『完璧だったルイス=ストレイがこんな醜態を晒すなんて、よほど疲れているに違いない』
――そんな空気感さえ漂っている。
不本意極まりない展開だが、結果的にシイナの手が血で汚れることは避けられた。
その後、僕は医務室に運ばれ、別のメイドさんに手当てしてもらった。
鼻を強く打ってしまい、見事に鼻血が噴き出していた。
まさか一日で二度も鼻をぶつけることになるとは……。
不幸中の幸いは、ルイスの整った顔立ちに致命的な損傷がなかったことだ。
鼻に巻かれた包帯は、なぜか“強者”っぽく見えて個人的に気に入ってしまった。
あわよくば今後も腕とかに巻きたい。厨二心をくすぐる魅力がある。
手当てを終えた僕は、急ぎ足で食堂へと向かった。
シイナがまた暴走している可能性もあるからだ。
「シイナ、お母様! ご無事ですか――!」
扉を勢いよく開けると、そこに広がっていたのは……驚くほど和やかな光景だった。
「もう……そんなことを言って」
「いえいえ奥様。本心でございます」
「……」
僕の出番…まるでなかった。
しかも、お母様はまるで憑き物でも落ちたかのように微笑んでいた。
その姿は、ルイスの記憶を辿っても滅多に…いや長らく見られなかった光景だ。
「え、えっと……」
「ルイス、もう大丈夫なの?」
「あっ、はい。お見苦しいところを……。貴族として恥ずかしい限りです」
怒られるかと思い身構えた――だが返ってきたのは、意外すぎる言葉だった。
「貴族としてどうこうじゃなくて。私は、あなたが心配なの」
「えっ……?」
「ルイス、今までごめんなさい。
まさかあなたが、あそこまで思い詰めていたなんて……」
母は深々と頭を下げた。
あの“アリシアお母様”が、僕に謝っている。
(僕の転倒って……そんなに衝撃的だったの?)
少し複雑な気分になりながらも、母の真摯な表情に言葉を失う。
「お母さん、これからはもっと素直に、自由に生きようと思うの」
「えっと……いきなりどうしたんですか?」
お母様は少し恥ずかしそうに頬を染めて言った。
「実はお母さん、それほど完璧な人間じゃないの」
「……うん?」
そんなことは知っていた。それはもう当然とばかりに。
息子のルイスどころか、使用人に至るまで、彼女のことを完璧な人間だと思っていた人はいないだろう。
「本当はポンコツなの。お父様……貴方のお父様には散々躾けで叱られたし、魔法の才能はなかったし、お野菜はこの年になってもちっとも好きにはなれないし」
「そう…ですか?」
まさか未だ好き嫌いがあるとは想像もしていなかった。
確かに記憶を辿ればフォークで野菜を突き刺している時、普段よりも更に険しい顔をしていた気もするが…。
「それでも完璧を演じていたのはね、ルイス。貴方に対抗してのことだったの」
「対抗…ですか?」
「そう。貴方が何でも完璧に習い事をこなすから、お母さん凄く恥ずかしくなってね。
それで完璧にみられる為に頑張っていたんだけど…」
お母様はふふっと笑みを零した。
「貴方のあの醜態を見たらね」
「なんですかお母様!!」
酷い言われようだ。息子の…いや厳密には別の人格が入った結果なのだろうけども。
「何だかルイスがいとも簡単にこなしていたから、やっぱり凄い子なんだなって。それに比べて私はって思っていたのだけど…貴方も無理をしていたのよね。」
お母様は僕の頭を撫でた。
「ですからルイス。あなたも、どうか自由に生きなさい
ストレイ家の名なんて気にせずに。私も少しずつだけどそうしてみるから」
「お母さま…」
お母様は優しく僕の頭を撫でた。まるで本当の母親のように。
ルイスに向けられたその慈愛は……きっと、今の僕にも少しだけ重なっている気がした。
「とりあえず今夜、夜更かししてみるわ!!」
「突拍子もない。!!しかも……思ったよりしょうもない!!」
それでも、今までの母からは想像もつかないような変化だった。
自然体な、年頃な。極々当たり前の家族のようで。
「……ありがとうございます。アリシアお母様」
初めて口にした、母の名。
アリシア=ストレイ。
ゲームには登場しなかった“存在しないキャラ”。
それでも彼女は、この世界で確かに生きていた。
僕の二度目の人生において、最も身近で――そして、ようやく名前を持った、大切な登場人物だった。
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