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雪の果てに、催花雨は告ぐ。

作者: 北畠 逢希

 春は嫌いだ。始まりを告げるかのように咲き誇る桜も、心に押し入ってくるような柔い風も、鼻を擽る菜の花の香りも。

 あたたかいくせに、何もしてくれない春が嫌い。


「おはよう、ゆかり。今日から新学期ね。…お願いだから、今年は“普通の子”と同じように、ちゃんとして頂戴ね」


 毎朝リビングで顔を合わせるたびに、呪文のように同じことばかり言ってくる母も、“普通の子”になれなかった私に興味を示さない父のことも、私を蔑むような目で見てくる妹のことも。

 言ってしまえば、家族も嫌いだ。


「ちゃんと話を聞いているの?ゆかり」


 私を引き留めようとしてくる母の手を振り払い、朝食も食べずに玄関へと向かう。

 繰り返される母の小言が背中に突き刺さったが、逃げるように足をローファーに突っ込み、勢いよくドアを開けて外の世界へと身を投じた。

 閉まる寸前、私の耳へと母のお決まりの言葉が届く。


「どうして、普通の子になってくれないのっ…!?」


 鋭利な刃物と化した、言葉の暴力。

 数えることも億劫になるほど、その言葉を言われてきたわたしはもう傷つきはしない。


 ただ、心の内で問い返すのだ。

 “普通の子”って、何?



「“普通の子”ねぇ……」


 朝、八時四十五分。“普通の子”なら、教室でホームルームを受けている時間。

 いつも通りに登校した私は、先生への挨拶よりも先に質問を飛ばしていた。


「…分からん」


 そう言って、煙草を(くわ)えた男は養護教員の村井先生。彼は胸ポケットからライターを取り出すなり不敵に笑った。

 ちゃんと真面目に考えて答えているのか、と怒りたくなったが、村井先生が真面目に考えていたら、それはそれで何だか変な感じがする。


「先生、ここ、保健室ですよ」

「おー」

「体調が悪い生徒が来たら、どうするんですか。主任か教頭に知れ渡ったら、バットエンドですよ」

「そりゃいけねぇなあ」


 とか言いつつ、先生はちゃっかり火を点している。

 呆れ混じりにため息を吐き出せば、先生はまだ笑っていた。


「…気持ち悪いです」

「俺じゃなくて、親御さんに言ってやれ。“毎日気持ち悪いこと言うんじゃねえ”ってな」


 先生のその言葉に、私は押し黙った。

 村井先生はいつもやる気がなさそうな顔をしているくせに、人の痛い所を突いてくることばかり言うのだ。

 知っているのに知らなそうな素振りをしたり。知らなそうな顔をして、実は知っていたり。いい加減に見えて、本当はとても優しい先生が、この学校の教師の中で一番好きだ。

 いや、先生しか、好きじゃない。

 先生が居るこの保健室だけが私の居場所で、安心していられる唯一の場所なのだ。


「“うっせえババア”って、まだ言ってねえのか?」

「そんなこと、言えません」

「言っちまえよ。スカッとするんじゃねえの?」


 保健室登校の子供が親に反抗してどうすると言うのか。本気なのか本気でないのか分からないことを言っては、気を紛らわせてくれる。


「……これ以上、困らせたくないんです」


 私は不登校にも、登校拒否にもなりきれない、保健室登校をしている中途半端な人間だ。

 先生は責めることもせず、いつも通りに気のない返事をすると、煙草を銜えながらキーボードを叩き始めた。

 そんな先生から一番近い距離にあるベッドに腰掛け、本を読んだり勉強をするのが私の日課。


 ふとページを捲る手を止めた時、タイミング良くチャイムが鳴り始めた。昼休みを告げる鐘だ。

 読みかけのページに栞を挟み、鞄に投げ入れた私は、スクールバッグを肩に掛けた。


「先生」

「あー?」


 先生は大きく伸びをすると、此方へ椅子を回転させて立ち上がった。そして、帰り支度を終えている私を見て目を丸くさせる。


「なんだ、もう帰るのか」

「今日は、図書館に」

「そーかそーか、学んでこい」


 そう言って、さらに大きな欠伸をした先生は、何かを思い出したような声を上げた。デスクの横に掛けられたコンビニの袋をガサゴソと漁るなり、イチゴの絵が描かれたものを差し出してくる。


「なんですか、これ」

「いいから受け取れ。教師命令だ」


 職権乱用をするな、と言いかけたが、今日は素直に受け取ることにした。

 ほい、と手のひらに乗っけられたのは、どこにでも売っている菓子パンだ。甘酸っぱいイチゴジャムと、カスタードクリームがぎっしりと詰まっているもの。私が大好きなもの。


「どーせ今日も飯食ってないんだろ?ガリガリな小娘を放っておくわけにはいかねえからな」


 言われてみれば、今日はまだ何も食べていなかった。朝から母が作ったものを食べようとは思っていなかったし、虫の居所が悪くてコンビニにも寄っていなかった。


「…ありがとうございます」


 ぼそりと小さな声で呟けば、先生は満足そうに笑った。

 先生から食べ物をもらうのは別に初めてじゃないけれど、申し訳ないという想いが募るのは、私にも“普通”という部分があるからだろうか。

 じゃあ普通じゃないって、どんなものなのだろう。考え出すと止まらない問題を再び浮上させた私を止めるように、先生の強張った手が伸びる。


「あんまり、思いつめるなよ」


 優しい声とともに落とされたのは、温かい手のひらのぬくもり。

 頭をポンポンとされた私は、突然の不可解な行動に口をパクパクとさせた。そんな私を面白がるように、先生は声を出して笑う。


「じゃあな、加瀬。気を付けて帰れよ」

「さ、さよなら…!」


 逃げるように保健室を飛び出した私は、風のように学校を去った。

 向かう先は、駅前にある図書館だ。

 こうして保健室に登校しては、昼に帰る。半年前からずっと繰り返している、私の日常。私にとっての、普通。



 翌朝、いつも通りに起きた私は、いつも通りに支度をして家を出た。

 学校へ行く途中にあるコンビニに寄って、ホイップクリームが入っているパンを義務的に齧りながら、空を泳いでいる雲を眺めて。

 いつもと何一つ変わらない日常を繰り返すのだと思いながら、登校した矢先で。


「………え…」


 繰り返されるはずの“いつも”の日常が、そこにはなかった。


「先生?村井先生…?」


 いつもならとっくに出勤しているはずの先生の姿がない。

 寝坊なのかと思い、先生の私物である保健室の合鍵を置く定位置を見ても、そこに鍵はなかった。つまり、今日保健室を開けたのは村井先生ではないということ。


「…休みなの…?」


 そう呟いても、答えてくれる人は誰もいない。唯一私を温かく迎えてくれた、先生もいない。それじゃあ私は、何のためにここに来たというのか。

 出席日数のため? 先生のため?自分の、ため?

 保健室の入り口に立ち尽くしたまま、思案の波に呑まれた私は、床に吸い込まれるように座り込んだ。

 そうしてゆっくりと深呼吸をしていれば、授業開始のチャイムが鳴り始める。

 今日はもう帰ろう、と立ち上がった時、真後ろに人が居る気配がした。

 弾かれたように振り向けば、そこには見知らぬ男子生徒が立っていて。


「──村井先生なら、急な出張で今週はいないよ」


 男の子にしては、少し高めの声。低いけれど、深いと言った方が近い声色。

 ワイシャツの袖から覗く手先は細くて白く、ピアノを嗜んでいそうだ。

 恐る恐る顔を上げ、声の主の姿を再確認しようと、瞬きを繰り返していれば。驚くほど冷たい双眸に、立ち竦んでいる私の姿が映っていた。


「今の、聞いてた?」

「え…は、はい…」

「そう。なら、早く入ってよ。時間の無駄」


 入るって、保健室に? 今の今まで、私は帰る気だったのだけれど。入ろうか入らないか迷っていれば、重苦しいため息がこぼされた。


「早くしてくれない?俺、アンタみたいに暇じゃないんだけど」


 少年のその一言に、私の中の何かが切れた。

 手に持っていた鞄を再び落とし、仁王立ちをして私を見下ろしている青年へと向き直る。


「暇って、なに?」

「は?」

「だから、暇って何?そう訊いているんだけど」


 さっきの一言に腹を立てた私は、声を荒げてそう尋ねた。

 彼は私の何を知って、そんなことを言っているのか。彼とは今この瞬間が初対面だから、私の顔も名前も、事情も知らないと思うのだ。そんな人に、暇人呼ばわりされる筋合いはない。


「確かに私は普通じゃないよ。普通になれなくて、普通を求めている親を失望させてる」

「…………」

「でも、なりたくてこうなったわけじゃない…!普通になりたいのに。普通であろうとしているのに。何も知らないくせに知ったような口を利かないでっ…!」


 胸の内から溢れてきたのは、あの日からずっと誰にも言えなかった本音だ。村井先生にも言えなかった本心。

 早口で捲し立てるように、目の前にいる青年にぶつけた私はハッと我に返った。

 今、とんでもないことを言ってしまった気がする。

 何か言わなきゃ、と口を開いたけれど、何の言葉も出てこなくて。自分の世界に閉じこもるように、顔を俯かせた。

 外の世界では授業の時間である今、中でも外でもない保健室の入り口は、すべてから切り離されたような静けさに満ちている。

 私の心も同様に、水が逆流するような感情はもうどこかに消え去っていた。

 だからと言って、今この瞬間をどうやって過ごせばいいのか分からない。唇を噛んで、静寂に耐えていた。


「…ごめん」


 ふと、そんな声が落とされた。

 ほんの少し顔を上げてみれば、綺麗な瞳と視線がぶつかる。


「そんなつもりで言ったわけじゃなくて…、いや、アンタがそう捉えたなら、言う必要はないか」


 青年はどういうつもりで言ったのかを説明するどころか、自問自答をしている。

 まぁいいか、と完結させるなり、床に落ちた私の鞄を拾うと、私を押し退けて保健室へと入っていった。

 鞄を持っていかれた私はこのまま帰るわけにもいかず、青年の後を追って中へと入った。


「ドア、閉めて」

「は、はい」


 何だか村井先生の遥か上を行く偉そうな態度だ。流石の私も少しムッとしてしまった。そんな私を見て、青年は唇を緩々と綻ばせた。


「誰って訊かないの?」

「え、あ…」


 言われてみれば確かにそうだ。

 突然現れるなり、彼の言葉が癇に障った私は、勝手に怒ってしまっていたから。

 でも、だからと言って、私が全部悪いわけじゃない。

 彼はちゃんと謝ってくれたから、もう気にする必要はないのかもしれないけれど。

 名前は何ですか? と、言えばいいだけのことなのに、中々口を開かない私を不思議に思ったのか、青年の顔がグッと近づいた。

 吸い込まれるようなダークブラウンの瞳が、私の心を覗き込んでいるかのよう。

 窓から吹き抜ける風で、青年の色素の薄い髪がふわふわと揺れる。

 至近距離で見て初めて気がついたが、彼は人形のように綺麗な顔立ちをしていた。


「ごめん…なさい…」


 またしても、言い終えた後にハッとする。

 考えなしに発言をしてしまった私は、その場に居た堪れなくなって、青年から視線を外した。

 いきなり謝罪の言葉を口にした私を前に、青年がどんな顔をしているかなんて、顔を見なくても分かる。

 再び訪れた沈黙の時間を、ホワイトグレーの床を穴が空くほど見つめながらやり過ごす。やり過ごそうと、思ったのだけれど──…


「…そうじゃなくてさ、」


 自分の世界に閉じ籠ろうとする私を止めるように、紡がれた声。導かれるように視線を動かせば、青年は心底困ったような表情をしていて。


「…俺の方こそ、ごめん。何も知らないのに、言い過ぎた」


 その言葉とともに、どこか寂しさを宿した彼の瞳に見つめられ、私の心臓は不用意に高鳴って、思わず息の仕方すら忘れそうになった。

 何がしたいのかよく分からない人だと思っていたけれど、素直に“ごめんなさい”と言える人なのだ。普通の、人。


「ううん…。私も、ついカッとなっちゃって…ごめんなさい」


 二度目に口にした謝罪は、心からのもの。

 彼もそれを感じ取ったのか、目元を和らげていた。


 ふたりきりの、静かな保健室。

 彼は村井先生のデスクの斜め後ろにある椅子へと歩み寄ると、そこが定位置だと言わんばかりに長い足を組んで座るなり、椅子の肘掛で頬杖をついて窓の外を眺めていた。


「…座りなよ」


 窓の外を見つめたまま、放たれた声。

 私はその向かいに腰を下ろし、彼の顔をジッと見つめた。


「あの、どうしてここに?あなたが鍵を開けたの?」

「…そうだけど」

「どうして?鍵は?授業は?村井先生が出張だってこと、どうして知っているの?」


 続けて質問をぶつけた私に、彼は怪訝そうに眉根を寄せた。

 そのうえため息まで吐かれた私は、もう黙るしかない。

 でもそれでも、重苦しい空気の中で黙ったまま、過ごすことなんて出来なくて。

 何か言おうと口を開いたのだが、彼の手のひらに塞がれたことによって、それは叶わなくなった。


「…謝るの、やめてくれる?」

「っ…!」


 冷たい手。でも、手が冷たい人は優し心の持ち主だって、聞いたことがある。

 怒っているような声色だったけれど、綺麗な顔は何を考えているのか分からない、無表情のまま。


「“ごめんなさい”って、口癖?」


 変事の代わりに首を横に振れば、彼は「そう」と頷くなり、私を解放した。


「…安易に口にしないほうがいい。心の底から罪悪感が湧き上がって、悪いと思った時に言うべき」

「……はい」

「本当に分かってる?」

「分かってます…」


 何故か敬語になってしまったが、有無を言わせない眼差しに背筋を瞬時に凍てつかせた私は、そのまま押し黙った。


 …やりづらい。彼はその一言に尽きるような人だ。

 ミステリアスな人だが、口を開くとマイペースな人。まだ会って間もないが、これだけは言えよう。


「…鍵は、村井先生から預かった」

「え…?」


 突然何を言い出すのかと彼の顔を見れば、口元だけで微笑まれた。さっきの質問の答え、と消え入りそうな声が静寂に落ちる。


「授業は出ない。出張の話は昨日聞いた。ここに来た理由は………」


 途切れた声。ここに来た理由。

 彼はどんな言葉で伝えようか迷っているようだったが、酷くゆっくりとした瞬きをすると、私に真っすぐな瞳を向けてきた。


「ここに来たのは、村井先生に…頼まれたから」

「村井先生に?」


 どうして村井先生が?

 今まで会議や行事で留守をする時は、ここに誰かを寄越すようなことはしなかった。一度もなかった。

 それに、留守にする時はちゃんと事前に教えてくれていたのに、今回は無言で行ってしまったし。

 一体どういうことなのかしら、と考えを巡らせていれば、呆れたようなため息をされて。


「理由なんて、どうだっていいよ。…一週間、俺がここに居ることには変わりないんだから」


 一週間も授業を受けずに保健室に来るの?

 衝撃的な発言に目を見開けば、鋭い目つきで睨まれた。逃げるように目を逸らし、ローテーブルの脇にある鞄へと手を伸ばす。

 これは退散した者勝ちだ。そう思った私は、彼が自分の鞄を漁っているうちに帰ってしまおうと、鞄を抱えて出口へと足先を向けたのだが。


「逃がさない」


 しっかりとブレザーの裾を掴まれた私は、ガックリと肩を落とした。どうやら、諦めるしか道はないらしい。


「早く教科書出して。日本史。百二十六ページ」

「はい……」


 観念した私は、眼鏡を装着した彼に促されるがまま、教科書を開いた。


「──違う。鎌倉幕府が開かれたのは、一一九二じゃないよ」

「え…?」


 勉強を開始して三十分ほど経った頃。

 学校の先生と変わらない要領で私に授業をし始めた彼は、私がノートに書いた回答を見て、ふとそんなことを言った。


「どうして?私はイイクニ作ろう鎌倉幕府って、習ったよ?」

「それは、俺たちが中学生までの話。近年の教科書は違う」


 どうして?と訊き返した私に、彼は嫌な素振り一つせずに口を開いた。

 てっきりまた悪態を吐かれると思っていた私は、予想外の反応に目をぱちくりとさせる。


「……俺の顔に何かついてる?」

「な、ないよ」

「そう。なら見ないで、教科書見て」


 相変わらず刺々しい態度だが、分からないことがある度、その都度丁寧に教えてくれたから、そこまで酷い人じゃないと思う。

 保健室登校の女の勉強をみているということは、優しいのかな…?


「ねえ……やる気、ある?」


 前言撤回。優しくない、鬼だった。


「イイクニって覚えたこの年は、正確に言うと、頼朝が征夷大将軍に就任した年」

「そうなの?」

「そう。大体、幕府っていうのは、開こうと思って開くものじゃないんだよ」


 不思議だな。日本史ってあまり好きじゃないけれど、彼の説明を聞いていると、その先が気になってしまう。

 どんなことをしたのかな。どんな想いで生きてきたのかなって、普通の高校生が考えないようなことばかりを考えてしまうの。


「──ちなみに、あの有名な頼朝の肖像画も、今じゃ否定されているから。あれは足利尊氏の弟の直義の肖像画だっていう説が有力で──ほら、教科書には『※伝源頼朝像』って書いてる」


 彼はもっと、と食いついてくる私を馬鹿になんてせずに、答えられることはすべて答えてくれた。

 何百年も昔の、遠い、遠い日々を生きていた人たちのこと。過去のひとたちのことを知って、どうするんだろう。 そう思っていた私だけれど、何気ない一文や用語の意味を知るのはなんだか楽しかった。

 そんな私を見て、彼は満足そうな表情をしていた。


 それから、数学、古典、英語を教えてもらって。

 昼休みを告げる鐘──私にとっては下校時刻のチャイムが鳴り響いた時。

 いつも通りに帰り支度をし始めた私に、彼は不思議そうな目を向けてくる。それはそうだ。昼休みに帰ろうとしているんだから。


「…まだ、昼だけど。帰るの?」

「うん」

「いつも、この時間?」

「そうだよ」


 いつも、か。私にとってはこれが当たり前で、普通のことだけれど。普通の人である彼にとっては、変なことなんだよね。


「そう…」


 彼はこれ以上私に踏み込むつもりはないらしい。

 帰り支度をしている私をジッと見つめていた。

 ドアノブに手を掛けた時、無言で去るのもどうかと思った私は、おずおずと後ろを振り返った。大きく息を吸い込んで、声を絞り出す。


「……えっと、さよなら」


 彼は一瞬驚いたような顔をしていたが、すぐに笑みを浮かべた。


「うん。…また、明日」


 いつぶりか分からない、“また、明日”の言葉。そのうえ、不意打ちにも等しい微笑みまで贈られ。


(わ、笑う人だったんだ…それに、また、明日って…)


 煩いくらいに心臓が高鳴る。胸元を弄れば、早鐘を打っていることが手のひらでも分かる。

 逃げるように校舎を出た私は、校門の前で深呼吸を繰り返した。

 綺麗って、ずるい。

 優しい顔をされると、否応なしに鼓動が速くなる。

 私は目に焼き付いて離れない彼の笑みを思い出しながら、桜並木道を歩きだした。


 そういえば、結局名前を訊けなかった。

 明日、聞けたらいいな。そんな小さな願いを胸に、通い慣れた道を歩いていく。

 明日はどんな一日になるのだろう。今まで思いもしなかったことを、想いながら。



 自由に空を飛び回る鳥たちの囀り。カーテンの隙間から差し込む春の柔い日差し。風でパラパラと捲れるノートの音をBGMに、日本史を丁寧に教えてくれる彼の声を聞いていた。


「一三三五年、中先代の乱。挙兵した人は?」

「えっと…北条…北条…」

「北条時行」


 そうだったわね、と笑えば、テキストで頭を叩かれた。涙目になりながらも、精一杯睨んでみるが効果はなくて。


「足利尊氏と北条軍。勝ったのはどっち?」


 自信満々に「北条軍」と答えた私は、不正解の罰ゲームとして授業を十分延長されたのだった。


 心地のよい静かな空間に、昼休みを告げる鐘が鳴り響く。昨日と同様、帰り支度をし始めていた私は、目薬を差している彼の横顔を盗み見ていた。

 村井先生がいない保健室で過ごすこと三日目。この奇妙な授業が始まってから、まだそれしか経っていないというのに、彼とは随分親しくなれた気がする。


 彼の名前は、倖希(ゆき)

 本人は女っぽい名前で嫌だと言っていたが、私はとても素敵な名前だと思う。

 教えてもらった日、とても綺麗な響きだねと言ったら、倖希は悪態を吐きながらも照れくさそうに笑っていたから。


「……ねぇ、」

「うん?」


 宿題かな?と体ごと倖希の方へと向けば、真っすぐな眼差しを注がれた。


「今日は、帰らないで」

「え?」


 帰らないで、って。ならば何時まで学校に居るのかと考え出した私に、ほんの少し慌てた口調の声が降る。


「遅くまで残れって意味じゃないから。今日は昼で帰らないでってこと」

「そういうことか。って、え…?」


 意味を理解したつもりだったけれど、やっぱり分からない。どういうことなのかと倖希の顔を見たが、倖希はそれ以上説明をしないらしく、私の手首を掴むと歩き出した。


「ゆ、倖希…!?」


 一体どこに連れていかれるのだろうか。

 歩くこと数分。手を引かれるがままに連れていかれた場所は、校舎内の中央にある食堂だった。

 さすがお昼時だ。どこもかしこも人だらけ──って、そんなことを考えている場合ではない。

 涼しい顔で人混みを通り抜ける倖希に、私は何度も声を掛けたのだけれど。

 倖希は終始無言のまま、私を食堂に導き入れた。

 やがて食券の券売機の前まで来ると、私の手を離すなりポケットから財布を取り出す。


「和、洋、中。どれが好き?」

「え…?」


 この状況が全く読めない私は、突然投げられた質問に答えられず、うやむやな返事をする。

 倖希は後ろを一瞥すると、「問答無用で和食にするから」と言うなり、『日替わり 和』と書かれたボタンを二回押した。それだけでなく、カウンターの脇にあるお盆を一つ手に持たされた私は、さらに状況が分からなくなった。


「あの、倖希?」

「なに?」

「ここ、食堂よね?」

「見て分からない?」


 それくらい、見れば分かるのだけれど。


「ほら、お味噌汁」


 マイペースな人であることは知っているけれど、無理矢理連れ出しておいて、何一つ説明してくれないなんて酷い。


「……ありがとう」


 トン、と置かれた味噌汁を眺めながら、小さなため息を漏らした。

 ご飯、お味噌汁、焼き魚、漬物とデザートが乗ったお盆を抱え、テーブルと椅子が並ぶスペースへと向かう倖希の後を追う。

 窓際にある二人掛けの席にお盆を置くと、倖希は座った。それに倣い、私も腰を下ろす。

 いただきます、と箸を手に取り、温かいご飯を口に運んだ。


 食堂に来たのは、今日が初めてだ。

 倖希がここに連れてきてくれた理由は分からないが、私がいつも昼に帰っていることを知って、もしやと思ったのだろう。

 普通の子じゃない私は、普通の子が来る場所には行けないと、無意識に思っていたのかもしれない。

 そんな私を、何の躊躇いもなく“普通の子”として接してくれている倖希に、大分心を許していたことに気付くのは、まだ先の話だ。


 保健室で倖希と過ごすこと五日目。

 午前の勉強を終え、楽しみにしていた昼休みの時間。

 コンビニで買った菓子パンを頬張っていると、購買に行っていた倖希が戻ってきた。


「おかえり」

「うん」


 初めのうちは気恥ずかしかった挨拶も、もう大分慣れた。つい一昨日までは、勉強をしたらお昼を食べて帰っていたけれど、昨日からは午後の時間も勉強するだけでなく、お互いのことも話すようになっていた。

 焼きそばパンを片手に、化学の計算式をスラスラと書いている倖希は、相変わらず何を考えているのか分からないけれど。

 先生に頼まれたからとはいえ、こうして私と一緒に居てくれているのだ。根は優しい人なのだと思う。

 ふと、倖希はペンを動かしている手を止めると、席を立って私の元へと歩み寄ってきた。

 人形のように整っている、中性的で綺麗な顔が近づく。そんな倖希を前に、男の子に対する免疫がない私の身体は、凍り付いたように動かなくて。その距離が縮まるほどに、胸の鼓動は速さを増していく。

 こんなに近くで何をするんだろう──と、そう思った時。

 反射的に目をつぶった私の前で、おどけたような笑い声が、花開くように降ってくる。

 もしかしなくても、笑っているのは……倖希?

 見てはいけないものをチラ見するように、閉じていた瞼を開ければ。倖希は堪えきれなかったと言わんばかりの笑みをこぼしていた。


「…変なの。ただ、近づいただけなのに」


 緩々と上がる口角。

 弧を描いていく唇に、目が釘付けになる。


「ち、近づいただけって…」

「そうだろ。俺は近づいただけで、何もしてない。何か期待させていたなら、申し訳ないけど」

(期待って…)


 全くしていなかったと言ったら、嘘になるけれど。私はただ、何かされるのかな、と思っただけだ。人はそれを期待と呼ぶのだろうけれど、その名を呼んだら、知らない感情が生まれてしまいそうだ。


「…そうやって、人の言葉に一喜一憂しているアンタを見ていると、」


 私のことを面白そうに見ていた倖希の瞳が、優しく細められる。

 思わず息を飲めば、今度は手が伸ばされた。

 けれど、それは私に触れることなく、戻されて。


「普通の女の子だと思うよ」

「っ…!」

「…じゃあ、また。今日の五限はテストだから」


 そう言うと、倖希は気怠げに鞄を肩に掛け、贈られた言葉に動揺している私を置いて、保健室を出て行った。

 まるで、通り雨のようだ。光のない世界でひとりぼっちの私に、恵みの雨を齎す。

 それはきっと、触ったら冷たいお水なのだろうけれど。思い切り濡れた瞬間、温かい笑顔をくれるはずだ。

 倖希にとっての私が何なのかは分からないが、私にとっての倖希は、世界に癒しを齎す雨だ。


(…今日は、金曜日)


 倖希に出逢ってから、五日目。

 初めて会った日、倖希は“一週間保健室で過ごす”と言っていたから、学校で会えるのは今日で最後なのかもしれない。

 普通の子である彼は、来週は私とは違う世界に、元居た世界に戻ってしまう。同じ校舎内に居たとしても、私の世界は…私の居場所は、保健室だけだから。

 もし、また、どこかで逢えたのなら。その時はお礼を言おう。そんな小さな願いを胸に、私は保健室を出た。


 いつも歩いている桜並木道。ふと上を見上げた私の目に映ったのは、どこまでも青い空を背に満開に咲き誇っている、薄桃色の桜。

 春が嫌いだった私は、必然的に桜を見ることなんてしていなくて。久方ぶりに見たそれを、綺麗だと思っている自分が居ることに驚いた。

 春を越えて、開花した桜を美しいと思うのは普通のことかもしれない。けれど、私にとっては普通ではなかったのだ。

 ただ、気づかなかっただけ。ほんの少し顔を上げれば、綺麗な景色は日常の中に溢れていた。


(羽が、生えたみたい)


 学校なんて、憂鬱でしかなかったけれど。知らないことを知る喜び、笑うことによって齎される小さな幸せを、倖希が教えてくれた。

 一歩前に、進めた気がする。あと何歩進めばみんなに追いつけるのかは分からないけれど、私は私なりに頑張っていこう。

 そう、思っていたのに。家に帰った私を待ち受けていたものは、忘れていた現実だった。


「どういうことなの?ゆかり」


 いつも通り──いや、四日ぶりに昼間に帰宅した私を迎えたのは、怒っているのか泣いているのか分からない母だった。

 私が“普通の子”だったのなら、おかえりと言って迎えてくれるのだろうけれど。そうでない私は、何時に帰ってもその言葉はかけてもらえない。


「あなた、昨日とその前の日は、“普通の子”のように授業に出ていたのよね?だって、夕方に帰ってきたんですもの」


 それは、倖希が“普通の子”と同じ終業時刻まで、勉強を教えてくれていたから。なんて、この空気の中では言えない。玄関マットへ投げていた視線を上へ動かせば、目を赤く腫らした母の視線と交差する。


「あなた、授業に出ないでどこで何をしていたの?」


 保健室で、倖希とお勉強をしていたの。そう言えたら楽だけれど、それは母が求めている答えじゃない。


「ねえ、どうなの?ゆかり」


 母の瞳から、涙がこぼれ落ちた。

 どうして泣いているんだろう。涙は心が悲しくなった時に、溢れてくるものなのに。

 母はちっとも悲しそうじゃない。泣いているけれど、胸の奥から迫り上がってくる何かを出したくて、出したくて仕方がないという顔をしている。


「担任の先生から電話がかかってきてビックリよ。“新しいクラスになったのに、教室に来るのは難しそうですか?”って」


 難しいとか、難しくないという問題じゃないの。

 新しいその場所が、私の知らない人たちで溢れているとしても、そこに私の居場所はない。

 居場所は自分で作るものだと母に言われたことがあるけれど、そんなことが出来るのは普通の子だけ。

 普通の子になれなかった私には出来ないの。出来ないんだよ、お母さん。


「どうしてなの?ゆかり」


 帰宅早々、玄関で母から言葉を浴びせられている私を、リビングから出てきた妹が馬鹿にするような目で通り過ぎる。

 目を逸らした私の顔を、母の両手が包み込む。それはとても冷たかった。私がまだ普通の子だった時に、抱きしめてくれた温度とは程遠い、身を震わせるような冷たさ。

 泣き腫らした母の瞳が、こっちを向きなさい、と。

 目を逸らすな、と訴っているかのよう。


「どうしてあなたは、普通の子になってくれないの?」


 叫ぶように放たれた声が、私の心に突き刺さる。

 私が普通の子じゃないってことは、嫌というほど分かっている。この身を以って分かっているのに。


「普通の子になってくれるだけでいいの。それだけのことなのに、難しい?」


 そんな風に、言わないでよ。

 普通の子、普通の子、普通の子って、言わないで。

 どうして私は、普通の子じゃないの?

 どうしたら私は、普通の子になれるの?


「我が子が普通の子じゃないってこと、恥ずかしいのよ。お母さんを困らせて楽しいの?」


 困らせるつもりなんて、なかった。こんな風になるつもりなんて、なかった。自分が普通じゃなくて、特殊でもない異常だってことは、私が一番分かっている。

 分かっているのに、一番の味方であり、理解者であって欲しかった母にそんなことを言われて、強く心を持っていられるほど、笑っていられるほど、私は強い人間じゃない。


「───っ…、」

「ゆかりっ!!」


 込み上がってくる、果てのない感情に気づかれないように。

 熱く迫ってくる本心が、声にならないように。

 瞬きと同時に弾かれた涙が、母に見えないように。

 私は、家を飛び出した。


 どうしてなのだろう。

 どうして私は、普通の子になれないのだろう。

 教室に行けば普通なのだろうか。教室にいる普通の子たちに混じって、その子たちと同じように過ごしていれば、普通になれるのだろうか。

 お母さんが求める普通の子って。

 そもそも、普通って、何なのかな。


「───ゆかり?」

「…っ!」


 酷く聞き慣れた声で顔を上げれば、そこには倖希が居た。

 どうしてここにいるだろうと思考を巡らせれば、自分が学校の前に来ていたことに気がついた。どうやら私は家を飛び出した後、学校へと走っていたらしい。

 それはそうだ。家と学校を往復することしかしていない人間が、その片方を失ったら、もう片方へ行くしか無いのだから。


「どうしてここに?」


 気がついたら、ここに来てしまっていたの。そう心の中だけで答える。声には出さない。だから、倖希には永遠に聞こえない。


「忘れ物?」


 何か一つを忘れてしまうくらい、私はたくさんの物を持っていないよ、倖希。

 倖希は無言のままでいる私を特に気にしてはいないようだった。

 いつものように、「そう」と呟いていて。声に、音にしていないのに、聞こえているよ、とでも言うかのように。


 私はこれ以上涙が溢れないよう、必死に堪えた。けれどそれは虚しく、私の取り留めのない感情に応えるように、また一粒、二粒、涙はこぼれ落ちてくる。

 それに気づいた倖希は、大きく目を見開いた。

 私の涙に気づいた倖希は、私との距離を詰めるように歩み寄って来た。

 嗚咽を漏らした私へと、倖希の白い手が伸びる。母よりも少し温かく感じた手は、相変わらず冷たかった。


「…泣いてる」


 その優しい声音に心から安堵を覚えた私は、はらはらと涙を落とした。

 女の子のように綺麗な指先が、私の目尻をそっと拭う。ダークブラウンの瞳に、泣いている私の姿が映っていた。

 次々と校門を出て行く生徒たちが、身一つで泣いている私に好奇な目を向けてくる。

 倖希はそれらから私を隠すように立つと、左肩に掛けていた鞄を右肩に持ち替えた。そして、空いている左手を私に差し出す。


「行くよ」


 どこに、とは言わなかった。

 どこへ、と私も言わなかった。

 何も言わなくても、苦しくない世界へ、倖希が連れて行ってくれる。そんな気がした私は、何の躊躇いもなくその手を取った。


 倖希の手に導かれながら、海へと続いている川沿いを歩く。その間、お互い口を開いていない。鈴のような音を響かせる虫の声を聞きながら、静かな空間を噛みしめるように歩いた。


「倖希、ここって…」


 辿り着いた先は、夕暮れ時の海だった。

 柔い風でサラサラと崩れていく、無数の砂の山たち。

 平地と化しては、また吹く風で山となるそれは、とても儚いものに見えた。


「…俺が好きな場所」


 倖希はそう言うと、私の手を離した。ほんの少し眩しそうに目を細めて、沈んでいく太陽を眺めている。その横顔はとても綺麗だった。

 その表情から、何を考えているのか読み取ることは出来ないけれど。黄昏色に染まる世界を背に佇む倖希は、まるで一枚の絵のようだった。


「…今日、家に帰ったら、現実を突きつけられたの」


 休むことなく打ち寄せる白波に急かされているような気がした私は、引き波に連れて行かれるように口を開いていた。

 倖希はどこまでも広がっている水面を見つめたまま、「現実って?」と声を落とす。


「私が普通の子じゃないってこと。普通の子になれないから、お母さんを困らせてるの」


 波は、忙しない。世界から除け者にされた私と違って、この星が生まれた時から、息づくように動き続けているのだろう。水平線から漏れる淡い光を見て、ただ漠然と、そう思えた。


「…普通って、なに?」


 橙色を放つ海原を見つめていた眼差しが、私へと注がれる。

 倖希の問いに言葉を詰まらせた私は、開きかけていた口を閉じた。そして、小さく呟く。


「…私も分からないよ。でも…、」


 そう遠くない場所で大きな水飛沫を上げた波が、私の声を掻き消す。

 私のような人間ではないんだよ。私のように、臆病な人間ではないの。


 倖希には届くことなく、波に呑まれた声はどこに消えたのだろう。

 水平線の向こうにある太陽の、さらに向こうにある、果てしない宇宙へと消えてしまったのかな。

 らしくもないことを考えていたら、止まっていたはずの涙が溢れてきた。

 抑えていた感情が、胸の奥から迫ってくる。

 悲しくて、哀しくて、仕方がない、と。

 分からない、解らない、と。

 再び泣き出してしまった私は、その場で膝から崩れ落ちた。

 もう、分からないの。どうしたらいいのか分からないの。


「私はっ…私は、普通で、ありたかった」

「…………」

「普通の子に、なりたかったっ…」


 でも、無理なんだ。どこまで行っても、普通にはなれない。

 憶病者の私は普通になれやしないのだ。この先も、きっと。

 顔を上げても、前を向いても、一歩踏み出しても、手を伸ばしても、どこにも行けやしないのだ。

 そう、思っていたのだけれど。


「…アンタが普通じゃないなら、俺も普通じゃないと思う」


 優しい声が、深い水底へと沈んでいく私の手を掴む。


「俺はアンタを普通の女の子だと思ってる。アンタの母親がそう思っていなくても。他の誰もがそう思わなかったとしても、俺は普通だと思う」


 ギュっと掴んで、離さないように強く握って、空の下へと泳いでいく。

 息苦しさから解放するように、萎れた花を咲かすように、息を吹き込んでくれる。そんな、声音で。


「普通っていうのは、人によって違う。それはその人自身が感じている当たり前であって、価値観という名の理想でしかない」


 絡まった糸を解くように、紡がれていく。

 倖希に選ばれて、音になっていく言の葉が、私の心を優しく包み込む。倖希の温度もまた、私を包み込んでくれていた。


「たとえ世界中の人々がアンタのことを否定したとしても」


 夕陽に照らされた白波が、硝子屑のようにキラキラと輝く。


「…俺は肯定し続けるから。アンタが普通だってこと」


 強かな意思を持っている倖希の瞳も、私には煌めいて見えた。


「だから、もう、泣かないでよ。これ以上泣いてどうするわけ?アンタは誰のために泣いているの?」


 ああ、また、だ。倖希はたくさんのことを気づかせてくれる。泣いてどうするというのか。誰のために泣いているのか、なんて考えたこともなかった。

 返事の代わりに乱暴に目元を拭えば、優しい顔をしている倖希と目が合った。不覚にも鼓動が大きく跳ねる。

 いつになく優しくて甘いから、心が引き寄せられてしまいそうだ。

 泣き止んだ私の顔を見て、倖希はふわりと笑った。


「…立って。叫ぼう」


 返事をする間も無く、いきなり立ち上がった倖希に無理矢理立たされる。


「倖希、叫ぶって、何を── 」

「海の馬鹿野郎───っ!!」


 その瞬間、私の世界を侵食している無数のシャボン玉が弾け飛んだような気がした。

 立ち上がるなり、どこかのドラマか漫画で聞いたような台詞を叫んでいる。

 突然、倖希が海に向かって叫ぶだなんて。

 私は度肝を抜かれたようにその姿を見ていた。


「アンタも叫べば?スッキリするんじゃない?」


 いやいや、叫べば?って。

 いきなり倖希が叫んだから、私は吃驚したんだよ。

 何もしていない海に馬鹿野郎、と叫ぶのはどうかと思ったけれど。

 気がついたら、爽やかな笑顔を浮かべる倖希につられるように、私も笑っていた。

 幼い子供のように波打ち際を駆けた。駆けた、と言うには及ばない短い距離かもしれないけれど。

 力強く砂浜を蹴って、足先が海水に濡れた瞬間、何という言葉で表現したらよいのか分からない気持ちが溢れた。


「…気持ちいい?」


 少し離れた場所に佇む倖希が、優しい顔をして訊ねてくる。

 私は万遍の笑みで大きく頷いた。倖希もやればいいのに、と言おうと思ったけれど、返事は分かっているから言わない。


「ねぇ、倖希」


 波の音の上に重なるように、パシャリ、と水飛沫が上がる音が響く。


「なに?」


 私は足を止めて、倖希の方へ身体ごと向き直った。海水に濡れないように摘んでいたスカートの裾を離す。


「久しぶりに、笑った気がする」


 砂浜に腰を下ろしていた倖希は、そう、と呟く。

 春の海は冷たかった。でも、こんな私を受け入れてくれた海は、やっぱり大きくて優しい。

 私は足元の海水に視線を落としたまま、大きく息を吸い込んだ。それをゆっくりと胸の外へと吐き出していく。嫌なことも一緒に出ていってくれればいいのに、と思いながら。


「…ねぇ、ゆかり」


 倖希が私の名前を呼んだ。いつになく真剣な表情で、私の名を音にした。


「なに…?」


 倖希は戯けたような笑みを浮かべて、波打ち際へと歩み寄ってくる。春風なのか、海風なのか分からない曖昧な風に吹かれる私の髪を、ひとつ掬って。


「笑った方が、アンタの顔は普段の何倍もマシだよ」

「……それ、どういうこと?」


 私は反射的にそう訊き返していた。

 私は笑っていないと、醜く見えるってことなのかな。

 風の中を揺蕩う髪を掴んでいた手が、空気に溶け込むように離される。

 少し俯き加減の倖希の顔は、酷く大人びて見えた。本当に、同じ歳の男の子なのかなって、そう思わざるを得ないよ。


「笑った方がいいってこと」


 いつもの私だったら、お世辞はいらないと言って突っぱねるのだろうけれど。

 いつになく真剣な顔で、言葉を贈ってくる倖希と目が合った瞬間に、そんな考えはどこかに消え去った。


「…この先も、笑っていられるかな…」


 強くなろうとは思ってはいても、臆病な心を捨てきれない私。不安定な心の綻びから溢れてくる、弱音。倖希は全てを掬い取るように、この上ない優しい笑顔を飾る。


「…大丈夫だよ、ゆかりなら。もう、大丈夫。歩いていける」

「倖希…?」


 今の言葉はどういう意味なのだろう。

 砂の城のような儚い笑みを浮かべながら、ただ優しく私を見つめてくるばかりで。

 倖希が、消えてしまいそうだ。漠然とそう思った私は、目の前に佇む倖希の手を掴んだ。大丈夫、透けてなんてない。感触もある。此処に存在している。

 それでも、倖希は──…


「また、会えるんだよね?」

「どうしてそんなことを聞くの?」

「だって、今日が最後みたいな言い方をするから…」


 思わず目を閉じてしまうほどの、強い風が吹き荒れた。それは極めて短い時間の出来事だったというのに、目を開けた私を待っていたのは、オレンジ色の世界。

 夕陽の中にいるような感覚がする、暖かくて優しい色の世界。

 私は掴んでいたはずの手を見て、目の前にいるはずの人を見た。摺り抜けたかのように手は消え、目の前には何もない。


「アンタの笑顔、俺は憶えてるよ」


 どこからか倖希の声が聞こえた。非現実的な世界に残された気がした私は、堪らなく不安になった。

 目の奥から溢れ出てしまった想いがひとつ、下にすべり落ちた時。突如消えてしまった倖希が、淡い光を放ちながら目の前に佇んでいた。


「ゆかり。明日、俺は学校で待ってる」

「…意味が分からないよ。学校なら、昨日も今日も行ったじゃない」

「…大丈夫。明日になれば、きっと分かる」


 どういうことなの、倖希。ここは何処なの?私の身に何が起きているの?

 聞きたいことは山ほどあるけれど、目の前の君を失いたくないという想いが、それ以上にある。

 行かないで、と必死に手を伸ばした。けれど、この手は宙を掻くばかりで。

 倖希は花開くように笑った。


「俺は始まりの場所で、アンタを待っているから」


 眩しさに目を細めた時、世界は発光した。



 誰かが、私を呼んでいる。何かに囚われている私を目覚めさせるように、声を放っている。

 それは毎日聞いていた声だというのに、酷く懐かしく思えた。そうだ、私はこの声が大好きだった。世界で一番安心する温もりを持っている人。

 ハッと意識が覚醒した。鼓動がドクドクと脈打っているのを感じながら、ゆっくりと辺りを見回す。


「どうしたの?ゆかり。寝惚けたのかしら?」


 目の前にいるのは、母。私が居る場所は、自分の家。衝動的に洗面所へと駆け込み、鏡に自分の顔を映した。

 そこに映るのは、いつも通りに制服を着ている私。肩にはスクールカバン。

 ひとり慌て始めた私を見て、母が不思議そうな顔をしている。私はリビングへ走り、テレビで放送されている今日のニュースを凝視した。


「嘘、でしょ…」


 滅多にテレビを見ない私を見て、新聞を読んでいる父が驚いた声を上げている。


「何が嘘なんだ?ゆかり」


 私は返事もせずに、リビングを飛び出した。母からお弁当を受け取り、ローファーに足を突っ込む。

 嘘、嘘だ。こんなことが起こるなんて。


「ゆかり!?」

「行ってきます!」


 私は大嫌いだったはずの家族に元気な挨拶をし、家の外へと身を投じた。


 早く、早く確かめなきゃ。私がこの目で見たものが真実なのかどうかを。

 私は衝動のまま、力強く地を蹴って駆け出した。

 通い慣れた道、人で溢れかえっている駅、満開に咲いている桜並木道を通り、倖希が居るであろう学校へと全力で走る。

 私がテレビで見たものは、今日の日付だ。画面に映っていた日時は、始業式の次の日、倖希と出逢った日付を示していた。

 息が切れ、途方もなく遠く感じるその道のりの途中で、何度も足を止めてしまいそうになった。鼓動ばかりが速くなるのを感じながら、走って、走って、走った先。

 私は肩で息をしながら、保健室のドアを勢いよく開いた。

 そこには、出張でいないはずの先生が居た。白衣を持っている所を見ると、今来たばかりらしい。


「村井先生っ、出張はっ…!?」

「は?」

「出張じゃないの!?」

「おい、落ち着け。新学期早々、保険医が出張なんてするわけねえだろうが」


 言われてみれば、確かにそうだ。


「じゃあ、ユキに勉強を頼んだのは先生!?私の面倒をみるように、頼んだ…!?」


 先生は取り乱している私を見て酷く驚いた表情していた。だが、すぐに冷静になったのか、ため息を吐くとタバコを取り出して。


「ユキってのは…二年の葦原か?」

「葦原…?」


 その名を聞いた瞬間、背筋が凍りついた。同級生の葦原くんは、私が保健室登校になった原因を作った人だ。

 彼が私に告白をし、それを妬んだ女子達から私は虐めを受けて──…

 先生はタバコに火を点すと、棚から生徒名簿を手に取った。そして、あるページを見せる。


「──葦原 倖希。葦原光輝の双子の弟だ」

「っ…!」


 動揺している私を余所に、先生は真実を告げていく。


「アイツは半年前…お前が教室に行けなくなった日の少し前、事件を起こして退学になった」

「なんの、事件ですか…?」

「他の生徒に暴力を奮って、怪我をさせたって聞いたが…」


 先生は灰色の瞳を揺らし、ゆっくりと言葉を紡いでいく。


「アイツは兄貴より出来が良かった。それを妬んだ兄貴は、アイツが好きだったお前に告白したんだよ。それを知った弟は兄貴を殴り、お前を虐めていた女子に虐めを止めるよう言った。なのにアイツらは…」


 学校の職員たちに嘘を告げて、倖希を退学へと追い込んだ。


「葦原は今、隣の学校で──」


 居ても立っても居られなくなった私は、先生の言葉を聞かずに保健室を飛び出した。

 始まりの場所。それは保健室だと思っていたけれど、記憶を巡らしてみれば、違うことに気がついた。

 倖希と初めて会ったのは、保健室なんかじゃない。もっとずっとずっと前だ。私が女子達から酷い虐めを受けて、ボロボロになっていた、半年前のあの日。

 大雨の中、泣き崩れていた私に傘を差し出してくれた男の子だ。


「っ…」


 ねぇ、あの日、君は泣いている私に何を言おうとしたの?

 私に傘を渡して、自分だけ濡れて帰った君は、何を。

 ミステリアスな倖希。とことんマイペースな倖希。でも、温かくて優しかった倖希。

 大好きだった。大好きだったの。片手で数える日しか共にしていないけれど、いつだって真っ直ぐな言葉を贈ってくれた倖希が、すき。


「倖希っ……!」


 言葉が音となり、声となって、空気を駆け巡っていく。

 桜の花弁の絨毯の上で崩れている私へと、手を伸ばしてくる優しい人の元へ、届いて。


「笑った方がいいって、言ったじゃん」


 薄桃色の世界が、空の色に染まっていく。差し出された手を辿って、視線を動かした。そこには、会いたくて堪らなかった人が、優しく微笑んでいて。


「っ…倖希っ!」


 私に勇気をくれた人の腕の中に飛び込み、優しい温もりに沈んだ。


「…馬鹿だね、アンタ。泣きながら走るなんて」

「倖希の、ためだよ」


 でも、もう泣かない。昨日までの私とはもう、お別れをしたから。制服の袖で目元を拭い、精一杯笑ってみせた。


「…そう」


 倖希の手に導かれるがままに立ち上がり、この地を踏みしめる。どこまでも青く澄み渡っている空を仰ぎながら、目を閉じた。

 思い出した。あの大雨の日、倖希が私に言ってくれた言葉は、確か。


「──好きだよ」

「っ…」


 今、まさに思い出していた言葉を紡いだ倖希を凝視すれば、彼は優しく笑っていた。


「あの日、雨に打ち消されて、届かなかったけれど」

「ゆ、き…」


 私の世界に降り注いでいた、悲しみの雨はもう降り止んでいる。


 今は、雪の果て。

 雪を越えた、春。


「…何もしてあげられずに、学校を去ってしまってごめん」


 泣いてばかりの私は、枯れた花。

 ならば、倖希は。


「今日から、ゆかりの隣に居てもいいですか?」


 照れたように笑う彼の手を取り、私は深く頷いた。


「…よろしくお願いします」


 君は、早く咲けと花をせきたてるように降る雨だ。

 人はそれを、催花雨と呼ぶ。花を咲かせる雨だ。

雪の果てに、催花雨は告ぐ。

春に、花よ咲けとせきたてる雨は、告げます。

『 好きだよ 』 と。


ここまで読んでくださりありがとうございました。


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