深い霧の中で
一夜が明け、雨が窓にけたたましく当たる音が部屋中に響きサイトを無理やり覚醒させる。
少し呻いた後に目を開けて、上体をゆっくり起こして耳をピコピコと動かしながら欠伸をする。
辺りを見回すと全員おらず、一人だけ起きるのが遅れた様子だった。
目覚めたばかりで少しぼーっとしている彼の耳に、渋く低い声が声をかける。
『起きたか、サイト。気分はどうだ?』
「うぅん……おはようハヤテ。僕は問題ないけど、ハヤテは大丈夫?」
『もう問題ない。酔いが回ってきた時は焦ったが、今はすこぶる調子がいいぞ』
そう話すハヤテの声色は普段より明るめで、サイトは安心する。
伸びをしてベッドから立ち上がると同時に扉が開かれ、ソウジが姿を現した。
尻尾と耳を下向けに垂らしている彼は、しょんぼりとした顔でサイトに弱弱しく挨拶をする。
「おはようサイト。音で分かってると思うが、外は大雨だ。馬車も安全を考慮して、しばらく動かんと」
「あぁ、うんおはよう。……ソウジ、なんでそんなに落ち込んでるのさ」
「…………梳かれたんだよ」
ぼそっと呟いたソウジの蒼い毛並みをよく見てみると、確かにいつもと比べてつやつやしているように感じる。
普段よりも黒ずんでおらず、清廉に美しく滑らかな青さを保っている様に見える。
そんな綺麗になっている彼の後ろに、一人の女性がにこやかな笑みを浮かべて現れていた。
両手には獣人御用達のブラッシング道具が握られていて、ルンルンとしている。
サイトの事もちらりと見やった後、その女性……ライアは自身の体をウキウキと動かして薄い金色の髪を揺らしながら、ソウジの肩を掴む。
キャンッと鳴いたソウジを面白がり、ライアは芝居がかった声色で話しかけた。
「ソーウージーくーん? まだちゃんと毛並みを整えていないじゃあないかぁ。こっちにいらっしゃい?」
「や、やだよ! そもそも自分で整えるっつったのに、無理やりクシクシしやがって! 俺はペットじゃねぇんだぞ!?」
「ははは、すまないね。しかし、きちんと身だしなみは整えないといけないよ? 健全な精神は健全な肉体から、だからね」
そう言って彼女は鼻歌を歌いながら廊下へと消えていった。
そんな彼女の事を心底恨めしそうに見送って、ソウジは大きなため息を吐いた。
「……朝飯は用意されてあるから、食べとけよ」
「う、うん。……ソウジ、元気出してね」
「ありがとな……くぅ!」
そんな会話を繰り広げ、サイトは着替えを済ませてフードを被り家屋の食堂まで足を進めた。
食堂には程ほどに旅人が集まっており、様々な会話が聞こえる。
その会話をしている中にライアも見かけ、楽し気な雰囲気だ。
しかし楽し気な雰囲気の中で一人、静かに食事を味わう者がいた。
本人は普段通りなのだろうが、巨体や人相や服装が原因なのか彼がいるテーブルを人がよそよそと避けていっている。
そんな様子をジト目で確認すると、サイトはその威圧感を放っている黒兎……ゼーエンの下にずんずんと近づいていく。
そのまま向かいの椅子にサイトは座り込むと、テーブルに置かれていた料理を適当に食べ始めた。
沈黙が続き食事を終えて少しして、サイトの方から気になったことをゼーエンに訊ねていく。
「……聞くけどさ。その胸元に付けてる緑色のリボンは何?」
「これか? 今朝にライアから渡された贈り物でな。威圧感が紛れると言われたから着けてみた」
「いや寧ろ不気味さが倍増してるけど? 外しなよ」
呆れた目線をゼーエンに向けるサイト。
自然にこぼれ出た彼の鋭い言葉にも、強面の黒兎は顔色一つ変えない。
その姿に兎の少年は、毛の色と同じ眉根を寄せながら口をへの字に曲げていく。
「あんたは、本当に。少しぐらい変わってると思ってたけど」
「今も昔も変わらず、俺は俺だが?」
「もういいよ。じゃあ次の質問。何でライアさんと行動してるの?」
その問いに、彼は耳を上げながら仏頂面を崩さずに話し出す。
「契約関係だ。奴が雇い主で俺は雇われた護衛。一年ほど前からずっと続いている仕事だ」
「一年前って事は、あの後すぐに彼女と出会ったんだ」
「そうだ。ライアは色々情報を持っていたから、こちらとしても都合が良くてな。今でも助かる時が多い」
そう話すゼーエンの顔は少し綻んで小さく笑みを浮かべていた。
そんな彼にサイトは純粋な気持ちを持って質問をした。
「ライアさんは、信用に値する人なの?」
その問いに、ゼーエンの顔はまた元の仏頂面に戻ってしまった。
彼は面白くない様子で、ぶっきらぼうに。
「それは……すまない、部屋に戻らせてもらう」
それだけ話すと、ガタリと音を立てて椅子を動かし立ち上がる。
そのまま部屋に続く廊下へと進んでしまうゼーエン。
驚きながら彼を目で追った後、水に口をつけたサイトの頭に違和感が走る。
フードの上に何かが乗っかっている感覚にムズムズし鼻と頭を震わせるが、外れない。
ため息を零し、サイトは頭に何かを付けた犯人……傍で笑っているライアへと抗議するように顔を向け、少々怒りを交えた声色で彼女に話しかける。
「ライアさん、この頭の奴は何なの?」
「各獣人型耳付きヘアバンドだよ。今付けてるのは猫獣人型の耳さ、可愛いよ」
白く、感情が無くなったような目でサイトはライアを見る。
そんな彼の様子を見た彼女は流石にやり過ぎたと感じて、ヘアバンドを素早く取り外し謝罪する。
「すまない、はしゃぎすぎたね。気分が解れてくれたらと思っていたのだが……」
「解れるどころか逆効果。はぁ……まだ朝なのにもう疲れた感じだよ」
「あっははは……おや、雨音が少し落ち着いてきてるね。昼頃には、出発できそうかな」
言われてサイトも耳を澄ましてみると、確かに今朝ほどの叩きつけるような雨音は鳴りを潜め穏やかな音へと変わっていた。
しばらく二人して雨の音を聞いていると、ライアの方からサイトへと質問を投げかけた。
「サイト君。少し訊ねるけど、君はゼーエンの事をどう思っているんだい?」
「それ、今聞くこと? っていうか、馬車の中でいくらでも聞けるんだからそこで聞けばいいじゃん」
「いやいや、彼と一緒じゃあ色々と遠慮してしまいそうだからね。ここで訊ねるのが一番いいのさ」
そう言って彼女は焦茶色の瞳をサイトへと向ける。
深く、深く底なし沼のように続く瞳の圧に負けてサイトは嫌そうにぼそりと一言。
「……頼りになる人だよ」
それだけを言い残して、サイトは椅子から立ち上がると部屋へ戻っていった。
ライアはそんな彼を見て心底……心底、可哀そうだと感じながら意識を他の旅人へと切り替えて、会話を楽しんでいく。
そして、各々の時間が過ぎていき――――。
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昼が過ぎ、小雨になった空の下。
体に纏わりつくような薄気味悪い霧が村を覆い、霧雨を体に浴びながらサイト達は馬車の前に集まっていた。
雨が弱まってきたため、馬車を出すことが出来るようになったと警備兵に伝えられた為だ。
ソウジが御者の男性と話をした後、全員キャビンへと乗り込んでいった。
キャビンの座席に座ったサイトは、その前へ座るライアに薬を手渡される。
「ほら、酔い止め薬だよサイト君。今のうちに飲んでおくといい」
「ありがとう。……昨日は分からなかったけど、この薬の匂い凄いな」
「ほぉ、どれどれ……なんだこれ渋臭ぇな!? 鼻が……うぇぇ」
ソウジが薬の匂いに悶えている間に、馬車もガタリと動き出していく。
薬を口に入れて水で流し込んで飲んだ後、サイトは昨日にライアが聞こうとしていた話題を出す。
「それで、ライアさんは何を聞きたいの?」
「おや、サイト君も答えてくれるのかい? てっきり、君は何も話したくないものだと思っていたけれど」
「……ゼーエンにばかり話をさせるのは違うと思っただけだよ」
そっぽを向きつつ、彼はそう言った。
そんなサイトに対し、ゼーエンが赤い目を細めながら様子を見ている。
昨日程の険悪さは無いが、ゼーエンの威圧感が消えているわけではなく緊張感がキャビン内を包む。
しかしそんな中でも、彼女は余裕そうな笑みを浮かべて予定通りにゼーエンへと質問を投げかける。
「では二人に訊ねるけど、君達はどういう出自なのかな? 経歴、間柄、目的……答えられる範囲で答えてもらいたい」
ライアの笑いながらも真剣な声色に、兎組は頷きゼーエンから話し始める。
「俺達は『オウンズ家』という、ラピステラ大陸でも指折りの貴族に属していた。俺は警護として、過ごさせてもらっていたんだ」
「オウンズ家? 私は初めて聞いたけれど……ソウジ君はどうだい?」
「俺も初めて聞いたな。でもゼーエンが嘘を吐く人とは思えないし、なぁ。サイトはどうなんだ?」
ライアとソウジの反応に、サイトはフードの中で悲痛そうに顔を歪めながらも答える。
「ゼーエンの言ってることは全部本当の事だよ。オウンズ家はあったし、僕もそこで過ごしてた」
「ふむ……ではそのオウンズ家というのは、どういう成果をあげていたんだい? 有名だったのであれば、何かしらの逸話などがありそうなものだが」
「そう、だな。一つ挙げるなら、ラピステラ大陸にある歴史の管理をしていたことだろうな」
歴史の管理、という言葉にライアはピクリと眉を動かして反応する。
「歴史の管理、とは?」
「……詳しい事は当主しか知らない。単純に古い書物の整理や、過去からの伝承を保管しているのは聞いていたが」
「なるほど? では本題に入ろう。君達二人の関係性はどういったものだったんだい?」
関係性について言及するライアに、今度はサイトが少々気まずそうに答えていく。
「ゼーエン、は。僕に戦い方を教えてくれた師匠的存在、だと思う」
自信なさげに声を落としていくサイトに、ソウジが思わず突っ込む。
「なんで疑問形なんだよ? じゃあ逆に、ゼーエンはサイトの事をどう思ってんだ?」
「ビビりで手のかかる子供だ」
「即答かよ。……しっかし、あんたが戦い方を教えたのか。サイトが厄者を倒せる程の実力を持ってたのもなんか納得できるな」
ソウジの発言に、ゼーエンが片耳をピンと立てて反応する。
サイトは膝に肘を立てて顎を手に乗せながら顔を横に向けている。
そんなサイトの様子にライアは手を頬に添えながら思案し、やがてソウジへと口を開いた。
「その話は確かなのかいソウジ君?」
「おう。不滅の物語のギルド長とこいつの友人が話しててな? 『僕は死ねない。目的を果たすまで、お前なんかに負けはしない!』なーんてカッコいい事も言ってたんだと」
「へぇ。サイト君って意外と豪快な人だったんだね……どうかしたのかい、ゼーエン?」
ゼーエンの微妙な変化にいち早く気づいたライアが、彼に声をかける。
その視線に気づいたゼーエンは声を漏らしながらもライアに返答する。
「なんでもない、少しボーっとしていただけだ」
「そうなのかい? それにしては顔色が優れないようだけど」
「乗り物酔いかもな」
冗談めかしてそう話すゼーエンに、ライアも肩をすくめてそれ以上の追及は控えた。
と、突然ソウジが御者に大きな声でボーデンまでの進行状況を訊ねていく。
「御者さんよー! 後どれくらいでボーデンに着くんだー?」
「霧があって安全に進んでるから、良くて明日の朝ぐらいだなー! 今日は野営をさせてもらうぞー!」
「分かったあんがとなー! ……と、言うわけだそうだ。まぁ、ここいらで一つ菓子でもつままないか?」
そう言って、ソウジは自身が所有する普通の基準より大きなあずま袋から何かの和風柄の箱を取り出す。
彼がそれを開けると、中にはビスケットが包装されて綺麗に並べられていた。
ライアが斜め前からその中身を覗き込み、ほぉと感嘆の声を漏らす。
兎組も意外な物が出てきて表情を大きく変化させていた。
「それ、君が作ったのかい?」
「あー、まぁな。つっても軽い携帯食みたいなものだし、味も簡素だから期待はしないでくれよ? ほれ、お二人さんからどうぞ」
「……ちょっとだけ、貰う」
サイトはそう呟いて、ゼーエンは無言で会釈をしてそのビスケットを手に取り包装を開けて口に入れる。
すると、サイトは大きく目を丸くさせて言葉を零した。
「美味しい!」
感動したように咀嚼を続ける彼に、ライアも1つ手に取って口に運んだ。
サクッ、と小気味よい音を発して口内の歯に砕かれるビスケット。
飲み込んで、彼女もサイトと同じ言葉を零した後に感想を述べる。
「確かに簡素ではあるけど、味気はある。甘味が程よく感じられて食べてて安心するよ」
「おっ、おぉそそそうか! いやぁ、作ってきて良かったぜぇ」
「……ソウジ、余裕そうだね?」
ふと、サイトはソウジへ向けてそう発言した。
キョトンとした顔を一瞬する彼は、すぐに柔らかな笑みを浮かべると、サイトに向けて。
語り掛けるように口を開いた。
「余裕そうに見せてんだよ。恐怖だのなんだので体がカチコチになっちまって、いざという時に動けないなんて駄目だろ?」
「そっ、か。そうなんだ。凄いねソウジは」
「おーう褒めろ褒めろぉ! 俺は褒められて伸びるタイプだからなぁ!」
豪快に笑うソウジの姿に、ライアは釣られて笑い、ゼーエンは呆れた様にビスケットを貪る。
そしてサイトは、その姿を自身の黄玉にも似た黄色に染まる瞳で羨ましそうに見つめている。
ひとしきり笑い、その笑顔を崩さずにソウジはサイトに顔を向けて手を胸に当てながら話していく。
「人は必ず、困難を乗り越えられる。前を向いて、強くなれる。けどやっぱり、一人だけじゃあ心が折れるかもしれない。そんな時は、誰かを頼っても良いんだぜ?」
優し気な目でそう話すソウジに、ライアがからかうように声をかけていく。
「良い言葉じゃないかソウジ君! 心打たれた、感動したよ!」
「おぅ。……そろそろ恥ずかしくなってきたから、この話はここまでに――――」
「いやいや、これはもう手帳に書き記さないと! 早速ここにね!」
その発言にソウジは腕を上に突き出しながら、手帳を取り出して目を輝かせているライアに威嚇するような声を出して尻尾と耳を荒らぶらせていく。
そんな中でサイトは、先ほどまでの暗く覇気の無い声色から少し明るくなった声でソウジへとお礼を述べた。
「ありがとう、ソウジ。元気でた」
「そうか、なら良かったよ」
そうしてそのまま和んだ時間は過ぎていく。
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深い霧が辺りを包み込む、不気味な暗がりが広がる夜となる。
馬車は近くの森の開けた場所に停止し、そこでテントを広げて焚火の灯りを照らして野営をする。
相変わらず体に纏わりつくような気味の悪い霧に苛まれながらも、サイト達は夕食を済ませて各々就寝しようとしていた。
そんな時に、ゼーエンがサイトに声をかけてきた。
言いたいことがあると彼は言い、野営地から少し離れた場所にサイトを連れ出す。
ライアとソウジが引き留めようとするが、サイトは大丈夫と言って着いていく。
木々のざわめく音が辺りを波打ち、静かに2人の兎を見届ける。
野鳥が少し騒がしく、一定のリズムで啼きいつも通りの時間が過ぎていると知らせてくる。
そんな中、彼らはソウジ達と離れすぎていないが声が聞こえない程の場所に立ち止まる。
そのままゼーエンは、サイトへと血のように赤黒い瞳を向け睨みながら、圧を声に乗せて話していく。
「再開した時から、ずっと気にかかっている事があったのでな。今、聞かせてもらう」
「……僕に、何か?」
「お前は、サイトじゃない」
腕を組みながら、淡々と彼は告げる。
しかし、静かながらその声色は。
少なからずの動揺を示している。
明るい麻色の兎獣人は、今度は怯むことなく言葉を返していく。
「そうさ、俺はサイトじゃない。だけど、なれる様に努力はしてるけど」
「……理解、出来んな」
「俺は、兄さんがいたという証明と記録を残したい。それだけだよ。俺が今こうして生きてる理由も、それだけだ」
彼の黄玉に近い瞳が濁っているのを、ゼーエンははっきりと認識した。
意志はある。
果たそうとしている。
しかし、彼のそれは自身の想いに蓋をしている事に他ならない。
そんな彼を、ゼーエンは苦々し気に否定する。
「そんな事に意味など無い。アイツなら、望まん行為だ」
そこで一拍置いた後、ゼーエンは彼を真正面からその赤黒い瞳で見据える。
夜風が2人の体毛を荒々しく揺さぶり、木々のざわめきを起こしていく。
そして黒兎は、静かに告げる。
「お前、このままだと潰れてしまうぞ」
木々が先ほどよりも一層その揺らぎと騒ぎを風により大きくしていく。
兎の少年は、言葉を震わせていく。
「け、ど……まだ兄さんの痕を人々の記憶に残し切れてないから。兄さんが積み重ねてきた善い行いが、人々に伝わってないから」
「それは、お前が本当にやらなければならない事なのか?」
「……あんたに迷惑はかけないよ。ちゃんと、頑張るからさ」
そう微笑みながら喋る彼の姿は……年相応のただの少年の様で。
とても、とてもではないが。
そんな少年が抱え込んでしまうには、あまりにも重く。
黒兎はそれ以上何も言わず、鼻を鳴らして歩き出すと。
少年の前を通り過ぎてソウジ達の下へと戻っていく。
そんな彼に、少年は耳を垂れさせながらポツリと。
「ごめん、ゼーエン」
その呟かれた言葉は夜風に吹かれて、流されるままに宙へと消えた。