チェスの世界
ここは、隠された一室。
暗闇の中に、ぼんやりと浮かび上がる。部屋の中央には、ぽつんと丸テーブルと椅子が用意されていた。その一カ所だけ、スポットライトが浴びせられたように、微量の光で照らされている。周囲は暗闇の中に包まれているので、部屋の広さはわからない。
テーブルクロスの上には、ガラス製のティーポットと白のティーカップが置かれていた。ティーカップからは、ほのかに湯気が立ち上り、甘い紅茶の香りが部屋中を満たしていた。
はっとする。気がつくと、少女が椅子に座っていた。
突如、霧の中から姿を現したように――あるいは最初からそこに座っていたかのように。少女は、美味しそうに、紅茶を飲んでいた。
碧眼が、こちらを見る。ウェーブがかった長い金髪に、豪華な身なりの白い洋服、まるで人形のような顔立ち。
彼女の名は、魔女の人形。
白の女帝。
彼女のことは――魔女と呼ばれている。
カチャッ――と、ティーカップを置き。
「――報告を聞かせてくれるかしら?」
ウィッチは言う。
ロングスカートの上に、白い鎧を着た少女が、ゴクリと生唾を飲み込む。
そして、姿勢を低くし、床に片膝をついた。
「ご報告、申し上げます。キズキは、こちらの放った親衛隊の手によって、打ち取りました。《ルーク》の駒も、コチラの手の内です」
「クスクスクス。そう――裏切り者には、当然の末路ね」
ウィッチは、満足げに頷いた。
「それと……」
「?」
「……ウィズ……」
ウィッチは、うんざりしたような声で言った。
「その堅苦しい言い方は、やめてくれる……?」
とても不愉快だわ。頭がどうにかなりそうよ。
《クィーン》である彼女の前では《ポーン》である少女の命など、風前の灯火。もし機嫌を損なうような言動があれば、いつ八つ裂きにされても、おかしくないのだ。
ウィズは、慌てて口調を変えた。
「……申し訳ございません! あっ。はい。今すぐ、やめますので――」
ウィッチは、嘆息してみせる。
「たまには違う趣向を凝らして――真面目そうな《駒》を作ってみたけど、失敗作のようね。そういえば、あなたを作り出して、どれくらいの年月が、経過したのかしら?」
「えっと――」
ウィズは、一本一本、指を折るような動作をする。
そして。
「百年です」
「『駒』としては、まだまだ《新兵》ね」
ウィッチは、クスクスと笑い出す。
「キズキの件は、これで、よかったのですか?」
言った後に――これが失言だと気づく。
だが、ウィッチは上機嫌だった。
「いいのよ。すべて《予定調和》だから――」
ウィズは、思わず眉をひそめた。
「キズキのおかげで、また一歩、目的に近づけたわ。……捨て駒にしておくには、惜しい《駒》だったけど、その役目は、充分果たしてくれたしね」
ウィッチが、パチンと指を鳴らす。
すると、突如、テーブルクロスの上にチェス盤が現れた。
それは、まるで魔法のように……。
白と黒の駒が、互いに睨み合うような形で並んでいた。
「これを見て、どう思う?」
ウィッチは、チェス盤を指差した。
「……どちらも、《駒》が不足しています」
ウィズは、思ったことを正直に言った。
駒は、どちらも不足していた。白は《キング》の駒以外――揃っているのに対し、反対側の黒の駒は、数えても、盤面に九個の駒しか並んでいなかった。
これでは、ゲームとして成立しない。
チェスとは、本来、どちらかの『駒』が《キング》を取るゲームなのだ。
「このチェス盤は――今の私たちの現状を現している。そして、ようやく、向こう側に新たな駒が加わった。それでも、まだ駒が不足しているのよね」
ウィッチは、チェス盤の上に、新たに――黒の《ルーク》の駒を置いた。
これで、黒側の盤面は、
《キング》
《クィーン》
《ルーク》×2
《ビショップ》×2
《ナイト》×2
《ポーン》×2
合計して10の駒が並んだ。
「どうして……? 白側の盤面には、《キング》の駒がない状態なのでしょうか?」
ウィズは、どこか遠慮がちに言う。
「……いい質問ね。でも、その答えは、あなたなら、わかるんじゃない?」
ウィズは、ゆっくりと唇を動かした。
「《昇格》(プロモーション)ですか……?」
ウィッチは、満足げに頷いた。
「そう。私たちは、普通の《駒》とは違う。戦闘を行うことによって得た知識と経験は、そのまま昇格に繋がる。このチェス盤の上では、すべての《駒》が等しく、成り上がることができる。《ポーン》が《キング》に成ることだってできる! ウィズ……その為に、私は、あなたを作ったのよ」
ウィズは、大きく目を見開いた。
「……冗談ですよね?」
ウィッチは、紅茶を一口含む。
そして。
「――私、笑えない冗談は、好きじゃないのよ?」
と、ウィッチはクスクスと笑った。
そのとき。
部屋の奥から、鎖を引くような音が聞こえた。
「……はっ。この音は、いったい、何でしょうか?」
ウィズは、腰に差した剣に手をかけた。
「久しぶりに、《ジョーカー》が目を覚ましたのかもね。クスクスクス……」
ウィッチが指を鳴らした、瞬間――二人の姿が消えて、別の部屋に移動していた。
「こっ、こいつは……!」
ウィズは、絶句した。
壁には、五つの杭で、身体を貼り付けにされた『ピエロ』の姿があった。
「狂った道化師! どうして、こいつが、ここにっ!」
我が主――っ! と、ウィズは剣幕な表情で叫んだ。
まるで親の敵を目の当たりにしたかのように、感情を剥き出しにして、増悪のこもった瞳で見る。そして、マッド・ピエロを指差して。
「こいつは、危険です! こいつのせいで、危うく、ゲームそのものが、崩壊しかけた! なのに、どうして? 我が主の考えが、わたしには、理解できません!」
「だから、こうして、ちゃんと、動けないように、貼り付けにしているでしょ?」
「だからって……っ!」
ウィズは、唇を噛んだ。
この空間に一緒にいることすら、不快に感じているのだろう。
「三年前……。どうして、マッド・ピエロが、急に、暴れ出したと思う?」
「わかりません」
「――『愛』のためよ」
「えっ?」
ウィズの反応が、よほど面白かったのか、ウィッチは、もったいつけたような話し方をする。
「……むかしむかし。あるところに。不死身と呼ばれた《勇者》がいたそうよ。彼は、数々の《奇跡》を起こした。最強と名高い――魔王を一人で倒し、生きた災害と呼ばれた竜と対峙したときには、誰もが絶望する中、勇敢に立ち向かった。鋭利な牙をその身に受けて、致命傷を負っても、彼は死ななかった。神・ゼウスの雷を食らっても、彼を殺すことができなかったの。強運、あるいは運命が彼の味方をしたのよ。彼は世界に愛されていた。彼の意思に関係なく。もはや彼を倒すことは、誰にも、不可能と考えられていたの……」
――でもね。
彼は、あっさり死んだ――。
「世界に愛された彼も、恋の病には勝てなかったの。そんな彼は、村の娘に恋をした。熱烈なアプローチもむなしく、彼は振られてしまった。その娘には、他に好きな相手がいたの。世界に愛された彼――でも、彼が心の底から求めた相手からは、その『愛』を受け取ることができなかったのよ。娘のことが忘れられず、彼は毎日のように、娘のことを想い続けたわ。いつの日か、淡い恋心は《呪い》に変わり、彼は《身》も《心》も焼かれ続けた。そして、自ら命を絶った」
ウィッチは、にやりと笑う。
「魔王でも、竜でも、神でも、彼を殺すことができなかった。彼を殺したのは、何の力も持たない、非力な、ただの村娘……。愛を求めて、愛に殺される。愛とは、ときに、信じられないほどの奇跡を起こす。その一方では、愛は人を狂わす魔法でもあるのよ」
ウィッチの話し方は、まるで直接見てきたかのような言い方だった。
「……魔法」
ウィズは、低い声でつぶやいた。
「…………ハ……ッ……か……っ」
マッド・ピエロが、しゃがれた声で言った。
「ッ!」
ウィズは、一歩、後ろに下がった。
「愛は――偉大ね。そう思わない?」
ウィズは、愛という『感情』をよく知らない。ただ、《駒》である自分にとって、それは縁遠いものだろう、と思うくらいで、それが、どれほど素晴らしいものだと言われても、到底理解することができなかった。だから、我が主の問い掛けに、どう答えていいのかわからず、沈黙するしかなかった。
「かつて、世界に愛された《彼》の成れの果てが、これとはね……。死してなお、《愛》に狂い続ける。あるいは、べつの魂が……あのとき、あなたを突き動かしたのかしら?」
ウィッチは、壁に貼り付けにされた、マッド・ピエロを見上げた。
そして、ゾッとするほど低い声で問い掛ける。
「ねえ……? あなた? そんな姿に変わっても、まだ、自分のことを《人間》だと思っているの?」
それは、死刑執行に近い言い方だった。
ウィッチは、おもむろに両手を広げる。
そして――
――《白のクィーン》ウィッチ・ドールの名の下に宣言する。
《一度死んだ『人間』は二度と蘇らない、蘇れるのは、『ニンゲン』のみ、それは人の形をした『駒』である》
雷鳴のように、その声が部屋中に響き渡った。
「《駒》は駒の世界でしか生きられない。そして、《駒》の役目はなに?」
ウィズが答える。
「戦うことです」
「そうよ、そのために、私たちがいて、両方の世界が成り立つのよ――」
くすくす。
「――世の中は残酷ね、知らないことの方が、幸せですもの、真実を知ってもなお、自分のことを《人間》だと言えるのかしら? ……黒の駒たちは、……まだ自分が《人》だと思い込んでいる。そして、これからも、そう思い続けるのね――」
くすくす。
ふぅ、と――ろうそくの火のように視界が揺れて。
部屋は、暗闇の中に閉ざされた。