第34話 ここから始まる。騙り部による騙りが――。
断末魔の叫びを背中で聞きながら僕たちは歩きだす。
見渡す限りなにもない世界を。
先を歩く師匠はまるで自宅の庭を歩くように軽やかに進んで行く。
後を追う僕は決して見失わないようについていく。
足下はふわふわしていて雲の上を歩いているような感覚で楽しい。
けれど気を抜いたら足が抜けてしまいそうな不安や恐怖もある。
いつまで、いや、どこまで歩いて行くつもりだろう。
師匠はあれから一度も言葉を発しない。お願いだから黙っていてほしい美人と言われるほどおしゃべりなのに。
こちらから話しかけようとして口を開きかけてやめるのを何度繰り返しただろう。
そろそろ帰りませんか、という一言がなかなか言えない。今もまた言いかけてやめた。
ここは三寸世界。
騙り部が頭の中で創り出した世界でなにもかもその人の思い通りにできる。例えば、空を飛びたいと思えば飛べるし、空飛ぶ猫を見たければ見ることができる。
ここを出る方法はただ一つ。
師匠が元の世界に帰ると望むしかない。
いつの間にか正さんの悲鳴にも似た奇声が聞こえなくなっていた。後ろを向いても彼の姿は見えない。それどころか、真っ暗な闇が広がってなにもかも見えなくなっている。
三寸世界には来たのは初めてではない。
幼い頃に騙り部の弟子になってからもう何度も来ている。
もみじの木の下で僕が泣いていると、いつも能力を使って連れてきてくれた。いつまでも遊んでいたいと思える楽しい世界ばかりだった。
だが、こんな寂しい世界は初めてだ。
「ねぇ誠実」
気づけば師匠が足を止めてこちらを向いていた。
「ここでいっしょに暮らさない?」
ようやく帰ることができると思っていた僕は面食らった。
「もちろん、こんな何もない寂しいところじゃなくてさ。もっと楽しくておもしろい世界で。昔みたいに私と誠実の二人でいっしょに創ろうよ。そこでずっといっしょに暮らそう」
師匠は笑顔と明るい声を決して崩さない。
「もう、疲れちゃった。秋葉市のためにも秋葉一族のためにも働きたくない。秋葉市も、秋葉一族も嫌い。大嫌い。あんなとこ帰りたくない。だから、二人で新しい世界へ行こうよ」
「僕も秋葉一族ですよ?」
「ふふふ。誠実は特別だよ。言ったでしょ。秋葉一族にも騙り部のことが好きな人がいるって。ねぇ覚えてる? 私たちが初めて会った日のこと。紅葉邸のもみじの木の下だったよね」
あの日の光景が目に浮かぶ。
一度は忘れてしまったが、再度取り戻した大切な思い出。
「小さい頃からお父さんやお母さんといっしょに騙り部として活動してた。いろんな人や化物に会って問題を解決してきた。功績が認められて歌詠みの騙り部という騙り名を与えられた。うれしかったなぁ。その喜びを街のみんなに伝えてまわりたかったくらいだよ」
師匠は、その言葉通りに行動しそうなほど楽しそうに話している。
「あの日は秋葉一族のご当主様に報告に行ったの。すごく緊張したけど、すごくうれしかった。大好きな秋葉市のためにこれからもっとがんばれると思ったから。いつもは気難しいご当主様もほめてくれたよ。でもね、本心じゃないってすぐにわかっちゃった」
師匠の五感はどんな嘘でも気づいてしまう。
とても便利でひどく不便な才能。
「本当はわかってたんだ。ご当主様だけじゃなくて秋葉一族のみんなが騙り部を嫌ってること。小さい頃から人の嘘に気づけたし、ずっと紅葉邸に通ってたんだもの。気づかないわけないよ。でも、騙り名を得たら……少しは変わるかもって……そう思ってたんだけどなぁ」
師匠は笑顔を崩さず澄んだ声を保ったまま話し続ける。
「それから私は中庭に逃げ込んだ。辛くて、悲しくて、人目につかないところで泣きたくて。そしたらそこに先客がいたの。私以上に辛そうで悲しそうな男の子が泣いてたんだよ」
その時の情景が目に浮かぶ。
つい最近見せられたばかりなので胸が痛む。
「さっきまで泣きたかったのに、気づいたら泣く子を慰めてるなんておかしいよね。でも、あの時に声をかけてよかったと今でも思ってる。誠実には本当に感謝してるんだよ」
さっきも言っていたけれど、感謝される理由が思い浮かばない。
「騙り部の家に生まれた私は赤ん坊の時から騙り部だった。だけど今の時代に必要としてくれる人はほとんどいない。雇い主だって口ではいいことを言っても本心は真逆。でも誠実だけは違った。素直で正直な気持ちで接してくれて嘘一つない言葉をかけてくれた」
ああ、そうか。そうだったのか。
師匠も僕と同じように苦しんでいたのか。
本当にどうして気づくのが遅いのだ。
もっと早く気づいてあげられていたら……。
「だからね、私は君さえいればいい。誠実がいてくれたら他になにもいらない」
思いの丈を打ち明けた師匠は、晴れやかな表情で手を差し伸べてくる。
背後から音もなく闇が迫ってきている気配を感じる。
考える時間はあまりない。
深呼吸を一つ。
それから真っすぐ前を向いて口を開いた。
「帰りましょう」
これが僕の答え。
嘘偽りのないすべて。素直で正直な気持ちだ。
「このまま帰らないと、僕はともかく、師匠のご両親が心配します」
「大丈夫だよ。二人とも騙り部だから。きっと私たちのことを騙り継いでくれるよ」
「ここでは、あげパンも三色だんごも食べられませんよ?」
「大丈夫だよ。この世界でも食べられるように創り出せばいいんだから」
ダメだ。頭の回りも舌の回りも相手の方が上。
なにを言ってもすぐに返されてしまう。
どうする。どうすればいい。
どうしたらいっしょに帰ってくれる。
「ねぇ誠実。ここなら辛いことも悲しいこともないんだよ?」
穏やかで透き通っていてどこか艶のある声。
耳から心まで幸福で満たしてくれるような声。
歌詠みの騙り部の甘言。
ああ、このまま素直に正直に受け入れられたらどんなにいいか。
たしかに辛さも悲しさも一切感じないのは素晴らしい。理想的な世界だ。
そうすれば僕も師匠もすべてのしがらみから解放されて幸せになれる。
しかしそれでいいのか。
本当にそれでいいのか。
辛いことや悲しいことから逃げるのはいい。
ただ、ここで逃げるのは違うと思う。
僕は逃げ道ではなく別の道を見つける。
そのために頭を働かせろ。
考えろ。思考しろ。動け。動け!
「これまでがんばってきたよ。だからいいじゃない。
私と誠実だけで幸せになろう。ね?」
その時、一本の光の筋を見た。
上手くいくかわからないが、僕はそこに活路を見出す。
気づけば足下が闇に侵食されていた。
このままでは僕らの向かう先も暗くなるだろう。
それでも笑う。
騙り部はどんな時でも笑っているくらいがちょうどいいのだから。
「千と一夜を明かしてみれども騙り尽くせぬこの世の嘘なら騙ってみせよう命尽きるまで。舌先三寸、口八丁手八丁、この世に騙れぬものはない。騙り部一門ここにあり――」
はやる気持ちを抑えながら『始まりの口上』を述べる。
僕は舌をペロッと出して不敵に笑って見せる。
ここから始まる。騙り部による騙りが――。
「さてさて師匠。いえ、古津詠さん。あなたは嘘をついていますね」
「おかしなことを言うね。騙り部なんだから嘘をつくのは当たり前でしょ」
「たしかにそうです。でも、いいんですか? 騙り部が人を傷つける醜い嘘をつくなんて」
師匠のまとう空気が変わった。すべてを見透かすような視線を向けてくる。
「どういうことかな。私は誰かを傷つける醜い嘘なんてついたことないよ」
「騙り部がつくのは人を笑わせ楽しませる嘘。人を幸せにする優しい嘘でしたよね?」
「そうだよ。だから私は誠実といっしょに幸せになりたくてこの世界に……」
「それは本当に人を幸せにする優しい嘘ですか? それでみんなは笑ってくれますか?」
師匠が言葉を詰まらせる。
なにか言おうとして、だがなにも言わずに唇を噛んだ。
それでも僕は騙りを止めない。
どんどん思考を加速させていく。
「今の時代に騙り部は必要とされていないと言ってましたね。たしかにそうかもしれません。でもそれは奇怪な問題に悩まされる人が減っていると考えたら悪いことではないと思います。それに、坂爪兄妹や鏡淵真理さんやマリさん。あの人たちは騙り部を必要としてくれて感謝もしてくれましたよ。もちろん僕もそうです。きっとまだ必要としている人がいるはずですよ。だから、そんな人たちがいる秋葉市のことを嫌いだなんて……嘘でも言わないでください」
師匠は表情一つ変えずに黙って話を聞いている。
「僕も師匠がいてくれたらうれしいです。でも僕たちだけで幸せになるのは違うと思います。人の心の痛みがわからない人でなしは他人を犠牲にして幸福を得るでしょう。でも人を笑わせ楽しませる騙り部は違いますよね。いくら幸せになってもみんなに祝福されないのは嫌です」
師匠は相変わらず口を堅く閉じてなにも言わない。
だが目は口程に物を言う。彼女の目には大粒の涙がたまっていて今にも流れ落ちそうだった。楽しそうに笑みを浮かべているいつもの姿からは想像もつかない。
なら、せめてこれ以上苦しまないうちに終わらせよう。
それが今の僕の役目だから。
最も合理的な方法で最も幸せになる答えを選ぶのだ。
「それに約束しましたよね。今度デートしようって。服を買って、ゲーセン行って、いっしょに写真を撮ろうって言いましたよね。あれは嘘だったんですか? もし嘘なら泣きますよ? 師匠となら誰もいない世界で二人きりのデートも楽しいと思います。でも僕は、みんなのいる世界でデートがしたいです。だから師匠。元の世界に帰りましょう」
僕は笑顔で手を差し伸べる。
これ以上、この人を現世に帰す方法が思い浮かばない。
だから、どうか応えてください。嘘偽りなくすべて。
いつの間にかどこまでも暗い闇が広がっていた。
時間がない。これでダメならもう……。
「仕方ないなぁ。誠実がそんなに私とデートしたいなら帰ってあげようかなぁ」
気づけば師匠がいたずらっ子のような笑顔を見せていた。
「もう、そんな顔しないの。嘘じゃないよ。まったく、君は昔から素直で正直者だなぁ」
「あはっ。名は体を表すと言いますから」
「ふふふ。あ、そうそう。誠実の騙り名を決めたよ。君の騙り名は――」
こうして世界は終わりを迎えた。




