ラーディス兵
休めるのなら好都合だと思えたのは最初のうちだけだった。暇っていうのは案外堪える。一日中話し相手すらなく、口を噤んだまま時間が過ぎていくだけなんだから。外に出る許可も得られなかったし、ひたすら腹筋や腕立てをして時間を潰していた。
らしくもないことに、一人でいるとあれほど抱いていた怒りも長続きしなかった。大人しくなった俺を見て、さすがに元気がないなって話しかけてきた奴がいた。野戦病院で俺が指を噛んでやったラーディス兵さ。ちらっと見た指にはもう包帯は巻かれていなくて、完治したみたいだった。
オルトって名前のその兵士は、俺がいなくなってから捕虜の管理がだいぶ楽になったから、下手したらお前はずっとこのまま一人かもしれないなって軽口を叩きやがった。
それに俺は猛烈に苛立ったよ。燻っていた火種がだんだん大きくなっていくみたいにむしゃくしゃした。同時にああ生きてるって思った。突き詰めるところ、俺の生き方っていうのはこういうものなのかもしれないって気付かされた。
周りからしたら迷惑極まりないだろうが、誰かと関わって怒っている気力があるうちが華で、それができなくなったら死ぬんだよ。ラーディスの連中に激怒して、殺せと叫んでいる時も俺は生きていた。
それがわかったからといって、何がどう変わるわけでもない。誰かに理解をされたいとも思わないし、誰にも理解できない生き方だ。そういう事実が、漠然と目の前に転がっていることにただ打ちのめされた。
なんだろうね、あれ。子どもの頃、家に帰って首を吊った母親を見つけた時とそっくりの心地だった。不動で確実で圧倒的なものが目の前にある感覚だ。俺はそれをこぶしを作ってじっと身を固くしてやり過ごすしかなかった。
静かになった俺を見て、オルトは自分の言ったことに俺が傷付いたと勘違いしたらしい。隔離生活で俺が相当参っていると思い込んで、翌日には上官に許可を得て十五分だけ外に出してくれたよ。といっても収容所内のテントが立ち並ぶ一帯を散歩するだけた。鉄条網に囲われた陰気な場所だった。
島は年中気温が高いから、久しぶりの外でもあんまり季節の変化は感じられなかったな。後ろにはオルトがぴったりくっついてきて暑苦しかった。限られた範囲をぐるぐると歩き回ったよ。その時、オルトが突然叫び声をあげた。何事かと振り返ったら、オルトの軍服の左胸にでかい虫が止まってた。あの島にしか生息していない、こぶし大くらいあるてんとう虫みたいなやつだ。
オルトがラーディスの言葉で悪態をつきながら必死の形相で軍服を揺らしても、全然飛んでいきやしない。あいつは虫が苦手だった。戦争をしにきている奴が虫一匹殺せないでどうするんだと呆れたよ。ぎゃあぎゃあ喚いてうるさいから、その虫を掴んで鉄条網の外に放り投げてやった。
俺が素手で虫を触ったもんだから、オルトは更に悲鳴をあげて大騒ぎだよ。いつも訳知り顔で話しかけてくる奴の余裕が崩れるのは痛快だったね。でもいい気でいられたのはほんの数十秒だった。
あまりの騒ぎに、俺が脱走を企てたんじゃないかと勘違いした兵士が集まってきて、俺は地面に引き倒された。久しぶりの外での時間はわずか五分で終了だ。俺がオルトに掴みかかる瞬間を見たとまで言い出す奴も現れて、収集がつかなかった。
オルトが事情を説明してくれたから疑いは晴れたものの、殴られるわ射殺されかけるわで散々の一日だった。詫びと称して夕食には肉が出たよ。オルトが自分の配給を回してくれたらしいが、それくらいはしてもらって当然だと思ったね。
食事を持って来たのは、日頃から俺によく突っかかってくるラーディス兵だった。当然のように肉を食っている俺が気に食わなかったみたいで、野蛮な国の生まれだから虫を素手で掴む真似ができるのだろうと言われたよ。
俺は肉の礼に、今度虫を捕まえた時は逃がさずにお前らにふるまってやろうと言い返した。生で食べるのが俺たちの流行りだ、まさか上品なラーディス国民が晩餐会の誘いを断るような真似はしないだろうなって。
……密林に潜んでいる間、あの虫は俺達の中で「割と食える方」に分類されていた。俺の欠けた耳にも一時は蛆が湧いていたし、あの島にいる間に虫にはすっかり慣らされたよ。そのラーディス兵も、俺達が何を食って空腹をやり過ごしていたのか知っていたんだろうね。黙り込んで何も言い返してこなかった。
……その日からかな、変わったのは。
隔離生活が終わって、俺はまたアーバンのいるテントに戻された。結局そこで生活するのが一番ましだろうって判断だったみたいだ。
俺が戻ってくることになって、他の奴らはさぞかし反発しただろうと予想していたが、それは意外な形で裏切られた。態度はそっけなかったが、誰一人として文句の一つも言わなかったんだ。
真っ先にアーバンがやってきて、先日はご馳走になりましたと言いやがる。なんのことだと言い返したらご謙遜をって苦笑するんだ。詳しく話を聞いたら数日前の夕食に、捕虜全員に肉が用意されたそうだ。
これは異例中の異例だった。与えられる食事についてはアーバンが散々交渉をしてきたが、条約で保障されている必要最低限の内容を満たしていれば問題がないって理由で、贅沢は認められなかったんだから。
捕虜全員の夕食に肉が出された理由はこうだった。時速三百キロで我が軍の兵士に迫る敵に単身で挑み、退けた功績に敬意を表する。……あのでかいてんとう虫みたいなやつだよ。本気を出すとそんな速さで飛ぶらしい。俺以外にも褒美を出すように指示をしたのは、あの日嫌味を言ってきた兵士だった。
一体、何があったんですかと問いかけてくるアーバンの目は子どもみたいに輝いていた。周りの連中は会話には加わってこないが、時々こっちに視線をやって聞き耳をたてているのはすぐにわかった。
俺はただ一言、軍事機密だと答えた。動揺していたから言葉が出なかっただけだが、表情が硬かったおかげでそれっぽく聞こえただろうね。話を聞きたがっている素振りを見せる奴らは多かったが、決して口にはしなかった。
ラーディス兵にも矜持ってものがあるだろう。特にあの、俺と言い争った兵士には意地もある。お互い馴れ合いをする性格でもないから、口を閉ざすことが俺なりのあいつらへの敬意だった。
その日から、捕虜連中をうまくまとめるのはアーバン、待遇についてラーディス兵に文句をつけるのは俺と役目がはっきり分かれるようになった。アーバンの奴は押しが弱くて、お互いが納得できる妥協点を探そうとするから解決に時間がかかる。見ていて苛つくんだよ。横から口出ししたら、俺とラーディス兵で交渉が始まって、いつのまにかまた嫌な役目だけが俺に回ってきた。
俺はもう部下を率いる立場にない。下の奴らの信用を得る必要もなかったから、他の捕虜に文句をつけられる度にうるせえって怒鳴りつけた。そいつらもけろっとしたもので、俺が嫌いだってことを隠そうとすらしない。言いたいことだけ言って、要望が通った時だけ見事な手腕ですって調子のいいことを言いやがる。
……まあ、やりやすかったけどな。島には愚痴を聞かせる相手もいないから、言いたいことをぽんと口にできる環境はちょうどよかった。