アーバン
数日そこで呑気に生活したよ。自分は休暇を利用して島での生活を楽しみに来ただけなんだと思い込もうとしてた。何日も洗っていないせいで臭う体で、銃剣を常に抱えたまま最高の生活だって呟いてた。不思議なことにあれだけ鉢合わせてた敵兵とは一度も遭遇しなかった。
ある夜、地鳴りみたいな低い音が聞こえてきた。音の方角に目をやれば、夜だってのに妙に明るかった。一晩中続いたそれは援軍が蹂躙される音だった。
急に目が覚めたよ。俺は一体、何をやってるんだって。消えかかっていた闘志がもう一度宿るのがわかった。怒りに突き動かされて密林に飛び込みたくなるのをひたすら耐えていた。
どうせ俺は死ぬ。だが今行ったら無駄死にだ。たとえ仲間を見殺しにしてでも確実にやり遂げてから死ぬべきだ。そう言い聞かせて、銃剣を握り締めて夜明けを待った。
空が明るくなってから、俺は密林の奥深くに潜った。俺の時と同じく残党狩りが始まっていた。もらった食糧のおかげか不思議と力が漲っていた。
二人組の敵に遭遇した時、あっちが銃を構えるより早く懐に突っ込んで一人を刺し殺した。もう一人が驚いて何か叫んでいるところに飛びかかって、顔を殴りつけた。取っ組み合いになったが、随分時間をかけて相手を絞め殺すのに成功したよ。終わった頃には腕が疲れ切っていて、ろくに力が入らなかった。
偶然にもそいつらに追われていた奴が一人いて、結果的に助けた形になった。
他にも味方がいるって言うんで案内させたら、生きている奴が二人見つかった。一人は右の脹ら脛に銃創を負っていた。
もう一人は砲弾のせいで顔の半分が吹き飛んで、歯茎が剥き出しになってた。そいつはもうだめだと思ったが、俺が歩けと言えば立ち上がったよ。動けないなら置いていくしかないって言葉が効いたみたいだった。
移動している最中に何があったのか聞いたら、大体俺達と似たような状況だった。警戒はしていたが、追い込まれて開けた場所に出るしかなかったと。俺達の時と違ったのは、新しく戦車が投入されたことだった。
一斉射撃で倒れた奴らの上を、戦車が走って息の根を止めていくんだって、子どもが蟻を潰すみたいに殺していくんだって泣きながら話すんだ。俺は顔にとまった虫を叩き潰しながらその話を聞いてた。
睨まれたよ。でも気にならなかった。もちろん味方をやられて怒りは湧いたがそれだけだ。そういうものを見慣れすぎるともうだめなんだ。
俺は下の道は使えない、崖を登って敵の本拠地を目指し、奇襲をかけようと三人に提案した。もっと早くそうすればよかったのかもしれないが、ここにきてやっとそう決められた。やっぱり、いくら口で強がっても怖じ気づいてたのかな。人目がある状況になって急に心が決まったんだよ。
三人は沈黙してた。気持ちはわかるよ。でも俺はもう一か月も逃げ回ってきたんだ。ここでじっとしていてもまた同じことの繰り返しだ。それなら滑落の危険を冒してでも行くしかなかった。
俺が進み始めたら、三人も無言で後をついてきた。一番元気な奴……、クレイン伍長が俺の隣に並んで、小さな声でナディア上等兵に崖は登れませんと囁きかけてきた。顔が半分吹き飛んでる奴のことだ。ナディア上等兵は既に四人の中で一番歩みが遅くて、呼吸する度にひゅーひゅーと妙な音がしてた。
無理は承知だったが、やるしかあるまいと言い切るしかなかった。俺はあの人みたいに気の利いたことは言えないんだよ。
……俺の家は貧乏でね。親父はすぐに手をあげるから、母親は耐えきれなくなって家を出て行った。出て行ったっていうか……うん、首を吊ったんだよ。もともと強い人じゃなかったんだ。どこか遠くに行きたいっていうのが口癖だった。
俺が軍に入ったのは、母親とは別の手段で家を出たかったからさ。結局、軍は上官の私的制裁が横行していて、殴られたり怒鳴られたりの毎日で家とあんまり変わらなかった。飯だけは断然、軍の方が食えたけどね。
今考えてみれば、エルヴァに行った時点で俺はもう軍にいる意味はなかったんだ。軍は俺が望むものを与えてくれなくなったんだから。ただ戦時下で軍を去ることができずにいただけだ。
そんなんだから、他の奴らを励ましてやれる言葉に心当たりがなかった。三人とも俺と違って召集兵だった。年上なんだよ。捨てられないものが多いんだ。あいつらの大事なものと、俺の大事なものは違った。
ここで敵を食い止めて時間を稼げば、故郷にいる家族やエルヴァにいる仲間を守ることに繋がるんだって言ったのは軍の受け売りだった。
上はね、誰かのためだって言って人質にとるのが得意なんだ。俺には意味のない言葉だったから白々しいと思っていたが、そのおかげで他の連中にはこれが何よりも効くと理解できた。
上層部お得意の言い回しにも、三人の反応は芳しくなかった。他人の言葉を借りて語っているのを悟られたのかと思ったが違うらしい。
クレイン伍長がこっちの機嫌を覗うようにしながら、ご存知ないのですねって言うんだよ。
エルヴァは二か月前に隣国ヨーザフの侵攻を受けたって。俺達が発ったすぐ後だ。これまで静観を決め込んでいたのに、突然ラーディスと同盟を結んだんだ。
特に西側……以前、俺が国境警備にあたっていた辺りは真っ先に攻撃を受けた。いち早く異変を察知した上層部だけが即座に退却したらしい。
ナディア上等兵も俺と同じくエルヴァにいたそうだ。ヨーザフが侵攻を開始して一日後に発ち、徒歩で東部の港へ辿り着いて、命からがら船に乗り込んだそうだ。逃げ遅れた多くの兵は出航に間に合わなかった。
それを聞いた時、喉が渇いて言葉が出なかった。かつて精鋭と謳われた者達が為す術もなかったと聞いて愕然としたよ。ようやく声が出た時には、降伏はと訊ねていた。それだけエルヴァ侵攻は大きな損失だった。
三人がそれぞれ視線を逸らして黙り込み、表情を曇らせるのを見てとんでもないことを言ったとすぐに理解した。
年の功か、俺の方が上官だからか、三人は俺の失言を聞かなかったことにしてくれた。仮に中隊長がいたら、あの場で処刑されていただろうね。降伏なんてありえないんだ。俺達が負けるはずないんだから。
最後に一つだけ、俺は三人に訊ねた。紫のことだよ。何か知っている奴はいないか訊いてみた。
返事は期待していなかったが、ナディア上等兵が答えを知っていた。人づてに聞いた話だそうだが、上層部が真っ先に逃げ出す中、あの人は最後まで残って戦ったそうだ。侵攻に慌てふためく者達を統率して、退路を切り開くために志願者を募り、共に名誉の戦死を遂げられたとのことだった。
途切れ途切れに話すナディア上等兵の声には熱がこもっていた。特に階級の低い奴ほどあの人を英雄視していたみたいだね。あの人の死に様がまた多くの兵士を戦場へと駆り立てた。生きながらえた命を、ろくに時間も経たないうちに奪還作戦に捧げることを決意させたんだ。
俺は一瞬でも降伏の可能性を考えたことを恥じたよ。開戦を一番懸念していたあの人でさえやり遂げたんだ。腰抜けと呼ばれたあの人は誰よりも軍人だった。俺も覚悟を決めなくちゃいけなかった。たとえ一人でも先を進まなければと決意した。
結局、三人は黙って後をついてきた。ナディア上等兵はあの人を信奉しているだけあって、気力だけは十分過ぎるほどにあったんだが、やっぱり途中で動けなくなった。潔い奴で、あとは頼みますと俺達に装備を託して、引き止めることはしなかった。
脹ら脛に銃創を負った奴は、アーバン・フラッド・イルマー・ジャックって名前で……。ああ、このやけに長いのが名前なんだ。これにまだ姓が別にある。
こいつも足をひょこひょこ引きずりながら歩いている有様だから、崖は無理だろうって思ってた。無駄に図体がでかい分、移動に難儀していたから。
でも先にクレイン伍長がいなくなった。理由はわからない。用を足しに行くと言って傍を離れた後、忽然と姿を消したんだ。
その辺を探してみたが見つからなかった。俺は怖じ気づいて逃げたんだろうと疑っていたが、アーバンは何かあったんじゃないかと真剣に身を案じていた。俺の考えを告げればこいつの士気に関わるのがわかったから、大蛇にでも食われたのかもしれないってことにした。実際、島には蛇も鰐もいたからね。
戦場で気力を失わず、生き生きとした目をしてるところから嫌な予感はしていたが、アーバンの存在には辟易させられたよ。よりにもよって三人の中で一番面倒な奴が残っちまった。例に漏れず召集兵だったが、戦局が悪くなってから召集された兵士はろくに訓練も積まずに実践投入されていた。
つまり軍の規律ってもんが完全には叩き込まれていないんだよ。たとえ黒いものでも、上の者が白と言えば白になるような独特の規律がね。
アーバンは空気を読むってことを知らなかった。俺より年上のくせに……年上って言っても、二つ違いの二十六歳だったが、とにかく納得のいかないことを黙って飲み込めないんだ。
例えばあいつの名前のことだってそうだ。
俺があいつをアーバンって呼ぶと、その後にフラッド・イルマー・ジャック伍長でありますって続けてきやがる。それも一度や二度じゃない。
確かに呼び方としてはそれが正しいんだが、こんな状況下で長ったらしい名前をいちいち口にしていられないだろう。わざわざ無駄に声を出して敵に見つかる可能性を高める必要はないんだ。アーバン伏せろって言えばかわせる攻撃も、名前を呼んでいる途中にあの世行きだ。
なんでこんな時に、新兵に軍の理不尽さを叩きこむ役割を務めなくちゃならないんだ。それくらい済ませてから戦地に送り込めって、本気で上層部を恨んだよ。
俺に名前を呼ばれたいなら今すぐ改名しろって命じれば、自分の名前は亡くなった四人の兄からとられたものなので、できかねますだとよ。
アーバン、フラッド、イルマー、ジャック。それぞれが兄貴の名前なんだよ。
亡くなった兄を偲ぶために与えられた名前ゆえ、一人分の名前だけを呼ばれるのは承服いたしかねますだとよ。馬鹿らしい。
死人が何の役にも立たないことなんて、この島にいたらわかるだろうよ。そんなもんに縋っても腹は満たされない。お前の名前は、お前らしさってもんがまるでないくだらない名前だって言ったよ。
そしたら明らかに怒った顔をしてた。正当な怒りだったよ。あいつからしたら侮辱されたんだからね。でも俺はそれが気に食わなかった。戦時下にこの島まで来て、まだ普通の人間でいようとする往生際の悪さに腹が立った。
同時に俺は奴の正しさに屈するのを恐れていた。あいつの正しさには、どこかあの人に似たところがあったから、対峙していると息が詰まるんだ。
アーバンは自分の意見を押し通そうとする奴だった。俺もそうだから、そりが合わないのは最初からわかってた。どちらが正しいとはっきり勝敗がつくまで、互いに納得できないんだよ。
話は平行線のまま、いい加減相手をするのも嫌になった。俺に文句があるなら、俺がお前の名前を考えてやる。お前の名前なんぞ石頭で上等だって怒鳴りつけてやった。名前以外のことでも文句を言われるのはごめんだから、これからどうするかも勝手に決めろって言ったら、黙り込んで後をついてきた。
これは少し意外だった。……さあ、なんでだろうね。訊いたことはないからわからないが、俺が食糧を見つけるのがうまかったからじゃないか。