侮辱の言葉
あの人はどんどんエルヴァの言葉を覚えて、現地の連中と交流を深めていった。
あの人のやり方っていうのは力で黙らせることじゃないんだ。こっちが何かをしてやる代わりに、向こうにも何かしてもらうっていうやり方なんだ。
頭の良さってのは武器になるんだね。それがあの人の戦い方だった。
俺らも色んなことをやらされたよ。俺にもエルヴァに何人か顔見知りができた。
あの人と違って、俺は言葉はからっきしだ。変な意地もあったから覚えようともしなかった。
俺は母国語で、エルヴァの奴らはエルヴァの言葉でそれぞれ好き勝手に喋ってた。なんでかわからないがうまくやれたよ。それが周りには奇妙に映ってたみたいだ。特にあの人は面白がってた。
あの人は父親が外交官らしいね。教育熱心な家だったから、自分も三カ国だか四カ国語くらい言葉を使いこなすんだ。君はどうやって意思疎通を図っているんだって、あっちからわざわざ様子を見に来た。
あの人が俺を真似て、母国語でエルヴァの奴らに話しかけても会話は成立しなかった。独学で覚えた片言のエルヴァの言葉の方が、楽にやりとりが進む。君は私の二十年以上の積み重ねを一瞬で超えるんだなって悔しがってたよ。でも笑ってた。
……そのまま俺達は、十五年から十八年の三年間をエルヴァで過ごした。
師団とエルヴァの連中含め、両方の生活すべてを改善するのは難しかった。特にエルヴァの連中との仲は緊迫していたね。
あくまでも俺達は占領統治が目的だったから、誰もがあの人と同じ態度でエルヴァの現地民を扱うわけじゃなかった。あの人は難しい立場だったと思うよ。表には出さないが軍としての立場と、現地民の友人としての立場で板挟みになってた。
それでもやれるだけのことはやったよ。解決まではしなくても、あの人のおかげでマシになったことは多かった。
虫除け作りのほかに、感染症の特効薬になる植物の栽培もやったな。これはエルヴァの医者連中の方が乗り気だったくらいだ。ラーディスの参戦さえなければ、まだ色々やれたと思うんだがね。
十六年にラーディスと開戦して二年も経てば、エルヴァにいてもよくない話は耳に入ってきた。上は誤魔化そうとするが、人の口に戸は立てられない。何よりもあの人は、開戦当初から戦争に歯止めが利かなくなることを懸念していた。俺は上官が弱気でどうすると呆れたものだが、今思えばあの人は正しかった。
あんたは記者だから、よく知っているだろう。俺は戦後に知ったが、開戦直後から俺達の敗戦は決まっていたようなもんだった。
十八年の後半から、エルヴァにいた兵士達は次々と別の場所に送られ始めた。形だけではあるがエルヴァを統治した功績を称えられて、新たな地で戦果を上げることを期待されていた。
十九年には俺も最前線に送られることになった。シーハルの奪還作戦だよ。俺達が数年かけて奪い尽くした島々は、たった数か月でラーディスの手に落ちていた。あそこを奪い返さなければ、シーハルが本国とエルヴァ侵攻のための要衝とされるのは明らかだった。
前線への配置が決まると、遺書を書き直す奴が多かった。俺は書かなかったがね。
遺書を書く代わりに、あの人の部屋を訪ねたよ。
故郷に思い残すことはなかったが、エルヴァはそうでもなかった。グンソーと片言で呼んでくる現地民に悪い気はしなかったし、あの人もエルヴァに残ると決まっていた。
特に現地の奴らは、ラーディスが攻め入ればまた戦争に巻き込まれるんだ。……可哀想だとは思うよ。今はね。ずっとどこかに奪い尽くされるだけの人生なんだから。
でも当時は自分が悪いとは思わなかった。「自分が」とは、今も思っていないかもな。俺が始めた戦いじゃないんだから。そういう時代なんだよ。
……やめようか、この話。不毛だよ。
……俺が行き先を告げたら、あの人の表情は明らかに暗くなった。激励の言葉をくれると思ったのに無言だった。まったく期待外れだったね。
あの人は言葉で、エルヴァの住民を従えた人だろう? 生まれ持った頭脳だけで人を動かす力があるんだ。そんな人が前線に行く人間に何を言うのか期待してた。あの人なら言葉一つで、一人の兵士を軍神に仕立て上げる力があったはずだ。
裏切られた気がしたよ。あれだけ色んなことを語った口を、今閉ざすのかって。尊敬してた上官には、聞き及んでいる戦況を、部下のために否定してやるほどの気概もないのかって。俺にはもう、あの人の口を閉ざしてやろうなんて意図はなかったっていうのに。
久しぶりに腹が立ったよ。そのやりとりで、あの人に対する尊敬の感情だとかは全部吹き飛んでいた。この人に何か言わせてやりたいって、それだけで頭がいっぱいだった。初めて部屋を訪ねた時と真逆だね。
感情に任せるがまま、聞きたい事があると言った。質問を許された瞬間、すぐに訊いたよ。ラーディスで最大限の侮辱の言葉を教えてくれってね。
何かの拍子に、あの人が開戦前のラーディスに留学をしていたと聞いたことがあったんだ。内情をよく知っていたんだろうね、あの人は開戦には反対の立場を貫いていた。戦力差がどうだの口にしては、周囲から気合いでどうにかなるって黙らされて、肩身の狭い思いをしてた。
俺はどっちかっていうと、あの人のそういうところに関しては心配性だなって見下していた。俺も相当、軍の方針ってもんを刷り込まれていたからね。
おかしなことに普段はあれだけ物資がないって不満を募らせておきながら、一人で十や二十の敵兵を殺せば勝てる見込みがあるって言われれば、やるしかないって受け入れているんだよ。
あの人がそういう俺を少しだけ変えたはずだった。でもその人が何も言わなくなっちまった。あの人が自分の言葉を語らないなら、せめてあの人から敵国の言葉を貰って戦おうって決めたんだ。たとえ手足がだめになったとしても、口さえ動くのなら敵兵にその言葉をぶつけてやろうって。
あの人は随分渋っていたよ。でも最後には、俺のしつこさに根負けした。
散々迷って、長い時間黙り込んだ後に、ベベローシュって言葉を教えてくれた。
――ああ、あんた知ってるんだな。
大学で? ……そうか。笑わないでくれよ。発音が悪いのはわかっているんだ。あの人にも苦笑された。
それでは通じないだろうって、何度か手本を示してくれたが、どうやってもうまく真似できない。なんとか矯正してもらってこれなんだ。俺は馬鹿だから、忘れないように何度も繰り返して体に叩き込んだ。
どういう意味なんだって訊ねたら、軍曹が望む通りの無礼な言葉だって言い返された。自分には縁のない言葉だから、母国語で何と言い表したらいいのかわからないともね。全く腹の立つ奴だよ。
とにかくそういう言葉だから、あまり不用意に口にするなとえらく真剣な顔で忠告された。軽い挑発のつもりで使うと、相手を激昂させてかえってこちらの戦況が悪くなる可能性があるってね。もうどうしても後がない、ここぞって時の見極めが肝心だって。
見極めは得意なんだって、俺は鼻で笑ったよ。あの人から思い通りの言葉を引き出せて、いい気になってたからね。それがエルヴァでの最後の会話だった。