質素倹約は平時の敵
正午過ぎの喫茶店の客入りはまばらだった。
カウンター席と、テーブル席が四つの店内は、半分以上が空いている。わずかにいる客も、コーヒーだけで数時間も居座るような連中だった。
小太りの店主はそれを咎めもせず、やる気のなさを示すように、カウンターの内側で腕を組んで俯いている。固く目を閉じているが、寝ているのかは判断がつかない。
その面々の中では、ノーズは良客と言ってもいいだろう。テーブルには、ケーキが三個も乗った皿が置かれている。他にも既にあいた皿が二枚重ねられ、空のグラスと一緒に端に追いやられていた。
ノーズが忙しなく食事をするせいで、店内には食器のぶつかり合う音が響いている。品のなさを咎める者は誰一人としていない。仮に文句を言われたとしても聞く耳を持たないが、この気楽さがノーズが店に通う理由だった。
窓から差し込む陽光を受けて、艶やかに輝く苺にフォークを突き刺す。酸味の強い苺を口の中で噛み潰しながら、フォークでケーキを両断した。
豪快に大口を開けて、ケーキを口の中へ押し込み、二、三度咀嚼した後、残り半分も同様に流し込む。
無骨な手は淀みない動きで、フォークを次のケーキへと突き刺した。
十代で受けた入隊検査で「良を通り越して最優良だ」と評されたノーズの体は、三十代後半になっても特に困ったところが見当たらない。
拒絶する食べ物は一つもなく、菓子だろうが、肉や油でも難なく受け入れてしまう。
いっそ気持ちのいいほどの食べっぷりだったが、眼光の鋭い中年が仏頂面で、意地のようにケーキばかりを口にしているのは、周囲には奇妙に映るらしい。
「あの人、すごい食べますね」
カウンターの内側で十代と思しき女性店員が、小声で店主の男に話しかけている。ノーズの耳はしっかりとそれを捉えていた。不思議と昔から、己の悪口だけは聞き逃したことがない。
素早く視線をやると、女性店員は気まずそうに会釈をして、小太りの店主の後ろに隠れてしまう。
店主は閉じていた目を開き、腕組みをとくと「毎年よ」とどこ吹く風で答えた。
店主の言う通り、ノーズは毎年、終戦の日をこの喫茶店で過ごしていた。ほとんど毎日欠かさない酒も、今日だけは休みだ。
代わりに、戦時中にはまったく縁がなかった甘味をひたすらに腹に詰め込む。
ケーキにアイスクリーム、クリームソーダ。菓子や飲み物を片っ端から注文して、店のメニューを食べ尽くすまで手を止めることはない。
戦時中、配給の酒や密造酒はあっても、甘いものにはありつけないということがあった。その経験に対する憂さ晴らしなのだから、止まるはずがない。
曲名も知らない音楽が流れる店内で、好きなだけ甘いものを食べるのは痛快だった。腹の中に一口流し込む度に、抱え込んだ鬱屈が消え失せていくのがわかる。
終戦から数年の頃は、ノーズがこの日に甘いものだけを口にする意図を察する者が多かった。
欠けた左耳と、お世辞にも綺麗とは言えない身なり。そしてしばらくの間、手放さなかった軍靴が戦地帰りあることを物語っていたからだ。
初めてこの店で終戦の日を迎えた時には、店主に「あんた、そんなに甘いものが恋しかったのかい」と、思わずといった様子で声をかけられたものだ。
実際のところ、周囲が思うほどノーズの行動に感傷的な理由があるわけではない。
ただ毎年この時期にケチ臭い生活をしていると、嫌でも戦地での出来事を思い出してうんざりした。贅沢が戦時中の敵というならば、質素倹約は平時の敵だ。
あの馬鹿げた日々の記憶に対する対抗手段は、こうして自堕落で怠惰な一日を過ごす他なかった。
ただ最近では、周囲には異様に甘いもの好きの変わり者としか映らなくなった気がする。
時が経ち、あの時代のことをなかったことにする連中が増えたのも理由の一つだ。だが何よりも影響しているのは、机を挟んで正面に座るディーの存在だろう。
「ホットケーキも頼もうか」
ノーズの胃の中にまた一つ、ケーキが消えそうになっているのを見て、ディーは紫の瞳を細めて穏やかに微笑んだ。
休日だというのに、ディーは普段と変わらない糊のきいた白いシャツと、体の線に合った黒いズボンを履いている。後ろに綺麗に撫で付けた髪も相まって、常にだぶついた服装のノーズと違い、清潔感があった。
毎年こうして勝手に喫茶店までついてくるディーは心得たものだ。「この歳でどれだけ食べるんだい」「毎年よく飽きないね」といったわかりきった質問はしてこない。
「おいしいかい」
時々それだけ訊ねて、自分は一個のケーキと何杯かのコーヒー、店内に置かれている新聞だけで何時間もノーズと一緒にいた。
ディーが傍にいるだけで、ノーズは自分が望まざるとも日常の世界に組み込まれてしまうことを自覚している。
乱雑に食事を続けるノーズとは対照的に、落ち着き払った口調に、品のある所作。ディーはどう見ても正しく年齢を重ねた男性としか映らず、同じ世界を見てきた人間とは到底思えない。
ノーズは食事の手を止め、ディーを睨みつけた。テーブルに肘をつくと、フォークの先端をディーに突きつけ、顎をしゃくる。
「オレンジジュースも頼んでおけ」
ディーは気分を害した様子もなく「わかったよ」と鷹揚に頷いた。
いつの頃からか、ディーが笑うと顔に薄っすら皺が目立つようになった。
それを見ると、職場で何年も買い替えずに使い古した道具を見つめる時と同じ気持ちが生まれる。
昔はディーに笑いかけられると馬鹿にされている気がしたが、いい加減慣れてしまったらしい。
そうやってノーズの中にさえ、簡単に入り込んでくるディーを、他人はもっと容易く受け入れる。
横の繋がりが多いディーには、戦友会の案内が頻繁に届いていた。実際に参加していたこともある。
しかし特に大きな集まりが開催される、終戦の日間近の集まりに参加しているのは見たことがない。
無論、ノーズは一度だって行ったことがなかった。
馬鹿らしくて行く気にもなれず、名簿の登録も断っている。自分たちがすっかり知り尽くしているあの時代のことを、知った者達同士で語ってなんの意味があるのかわからないし、話したくもない。
当時、仲の良かった連中と会うための口実だとしても、戦友会にノーズが会いたい人間はいなかった。
だがディーはそうでない。仮にディー自身が誰にも会いたくなかったとしても、彼に会いたがる人は多くいる。何よりもディーはそれに応えたがる性分のはずだった。
ずっと昔に、喫茶店に来ないで戦友会に行けと怒鳴りつけたことがある。その時、ディーはきょとんと目を見開いて「でも」と言葉を続けた。
「この日は君と一緒にいたいんだ」
その後、控えめに「好き勝手に食べる君を見ていると、気分がいいんだ」と付け加えた。
ノーズはこの男と一緒にいると気分が悪くなる。それは何度も指摘しており、ディーは聞く耳を持たないと確信していたので盛大に舌打ちをして話を打ち切った。以来、毎年この日の支払いをディーにさせることで妥協している。
嫌々といった様子で注文をとりにきた女性店員に、ディーは人好きのする笑みを向けた。
「ホットケーキとオレンジジュースを一つずつ」
「コーヒーも」
ディーの言葉が終わる刹那、ノーズは付け足す。
おや、といった様子でディーが視線を落とした先では、彼のコーヒーカップの中身がほとんどカラになっていた。
「はい、ホットケーキ」
あからさまに嬉しそうに表情を綻ばせかけたディーが何か言うよりも先に、店主がやってきて、バターとはちみつがかかったホットケーキをノーズの前に置いた。いつのまに用意したのだろうか。
はちみつに関しては、ホットケーキがすっかり浸かってしまうほどの尋常ではない量だった。
女の店員はこれ幸いとばかりに、コーヒーを準備するため、カウンターの内側に早足で戻っていく。
「メニューに載ってる順に頼んでるでしょ」
店主はそれだけ言うと、大きな体を揺らしながら、女性店員の後に続いた。
見透かされたのが気に食わず、次は違う順番で頼んでやろうかと企てていると、テーブルの下でこつんと足を蹴られた。
「コーヒー、ありがとう」
だらしのない表情を浮かべたディーを見て、首の後ろが不快にざわついた。反射的に軽く蹴り返したが、まったく懲りた様子がない。
ディーはこれ以上ないほど楽しげに「ホットケーキがはちみつの海で溺れているよ」と、ノーズの前に置かれた皿を指差した。
滅茶苦茶な量のはちみつは、ノーズの要望によるものだ。毎年、通常の量の商品を出されては「これじゃ足りないだろ」と文句をつけているので、店主も覚えたのだろう。
ノーズは乱暴な手つきでホットケーキを切り分けると、全体にはちみつをまぶしてから口に運んだ。
そうこうしているうちに、店主がディーのコーヒーを運んできた。女の店員は頑として、カウンターから出るつもりはないらしい。
強いコーヒーの香りが鼻を掠める。ノーズはコーヒーを飲まないが、この匂いは嫌いではなかった。
今日は、あの時代に手に入らなかったものを取り戻す日だった。芳醇な香りのコーヒーも、あの島にはなかったものだ。
ノーズだけでは埋めきれない欠けたものを、ディーのコーヒーの香りが補っている。それでもまだ補い切るには足りなかったが、ないよりマシだ。
だから今日は、このテーブルにディーを座らせてやってもいい。親切にそれ以上の深い意味はない。何より支払いはこいつがする。
ノーズはホットケーキと共に、言い訳を腹の奥底へ押し込めた。




