エルヴァでの日々
抱いてくださいって言ったんだよ。
上官だとか、自分より戦果をあげた奴……、とにかく強い奴だ。
そういう奴に抱いてもらうと、必ず生きて帰れるって話を信じてる奴は多かった。
あんたにはバカみたいに思えるだろうね。あの頃は皆、どうかしてた。
俺か? 信じるわけないだろ。
でも利用はさせてもらった。エルヴァでの生活には我慢の限界だった。
俺達が突然やってきたもんだから、エルヴァの現地民はいつも殺気立ってた。うっかり一人にでもなってみろ。路地裏で徒党を組んだ奴らに袋叩きにされる。実際に殺された仲間だっていたんだ。
おまけにあの暑さだ。あれには参るね。ただでさえ暑いのに、夜は野郎どもと狭い部屋で雑魚寝するか、虫に刺されながら見張りの毎日だ。感染症にかかって動けなくなる奴も少なくなかった。
そんな時に上官には個室が与えられていて、食事や薬、虫除けまで優遇されてるなんて耳にしてみろ。男と寝てでも、その恩恵に授かった方がマシだって思いもするさ。少なくとも俺は思ったね。
疲れてたんだよ。俺にも部下がいたがそいつらも疲れてた。エルヴァに行けば楽な生活ができるって聞いてたのに全然話が違うんだから。
仲間内で……、特に年下の奴がふとした拍子に不満を漏らすだろう。俺はそれを適当に諌めるんだが、同じことを毎日続けてみろ。いい加減、うんざりしてくるんだ。一晩だけでもいい。野郎のいびきも不満も何も聞こえない静かな部屋で、快適な夜を過ごしたかった。
一応ね、馬鹿なりに相手は選んだつもりだよ。
だからディートハルトにしたんだ。
あの人は下のもんに甘いって、皆知ってた。誰のことも殴らなかったからな。
当時の軍では私的制裁が横行してた。
上官ってのは、下のもんに非があろうとなかろうと、難癖つけて殴るのが仕事なんだ。だけどあの人はそれをしていなかった。
ディートハルトって名前の前に「紫の」って言葉がつくと、大体の奴がほっとした顔をする。あの人の目の色だよ。めずらしいだろ? 髪はよくある赤みがかった茶髪だったから、その分余計に目を引いた。
あの世代はディートハルトって名前の奴が多かった。流行りだったらしいね。そこら中にディートハルトがいて、誰の話をしているのかわからなくなる。
だから名前の前にそれぞれの特徴をつけて区別するんだ。「ノッポの」とか「ノロマの」とか。
もちろん表立って呼びはしない。基本的には悪口だからな。
どんくさい奴は上官にバレてしごかれたもんだ。
あの人はいかにも優男って感じで、見た目には文句の付けようがなかった。
とはいえ、俺達が「どのディートハルトだ」「美男の」なんて言い合っていたら馬鹿らしいだろう。だからそのまんま紫って呼んでた。
穏健派だったな。上官の中には腰抜けって呼ぶやつもいたね。腰抜けのディートハルトの呼び名が定着しなかったのは、あの人を支持する下士官が圧倒的に多かったからだろう。
考え方は合わなかったけど、俺も腰抜けとは思わなかった。俺が突然、部屋を訪ねて、抱いてくださいって言った時も、あの人は平然としていたからな。
ノーズ軍曹、まさか君が本気でそんなことを言いに来たわけではないだろうって、笑っていやがった。
俺があの人じゃなく、あの人の階級に抱かれにきたこともすぐに見抜かれたよ。直属の部下でもないのに人をよく見てた。
当時、誘いをかけられた上官の反応は二極化してた。黙って部屋に招き入れるか、ぶん殴るかだ。
あたりまえの話だが、強い奴に抱いてもらえれば生きて帰れるなんて嘘っぱちだよ。人にそんな力があるわけがない。立場が上の奴ほどよく知っていただろうね。
くだらない噂が出回ったのには色んな理由がある。
全員が女にありつける環境じゃなかった。共有を嫌う奴、妻や婚約者以外との行為を拒む奴、野蛮なことは躊躇する奴。いろんなのがいた。
そんな時に、身内で事が済んだら都合がいいだろうよ。
強い相手に抱かれるって言っても、明確な基準なんてありはしない。要は自分の気に入った奴だ。この行為は不貞に含まれないと暗黙の了解をつけて、男色を正当化できる理由があればよかった。
あの時代は子どもを作って、次の兵士として育てるのが誉れだったからね。同性愛なんてもってのほかだった。あの噂も表向きは皆、鼻で笑ってた。
噂を毛嫌いしてる潔癖な上官に誘いをかけると面倒事になる。見極めが大事なんだ。断った後も他人に言い触らさず、罰を与えない相手を見つけなきゃならない。
あの人は俺を部屋に入れたよ。
慣れてたね、あれは。
軍曹のご所望の品はこれだろうって煙草を差し出してきた。それでもう、あの人にその気がないとわかって、すっかりやる気が失せちまった。
俺が生意気にも、煙草の煙が虫除けになるのならと言ったら、あの人はそんなものがほしいのかって驚いていた。戸惑っているって言った方が正しいのかな。
いつも意外に思われるんだが、俺は煙草はやらないんだ。においで父親を思い出して嫌になる。……まあいいよ、この話は。
あの人は俺が酒をやることは知ってたみたいだ。酒はないって先に謝られたからね。
部屋を観察してみたが嘘じゃなさそうだった。
あの人は個室を与えられてはいたが、煙草以外は何もなかった。その煙草も最後の一本だって言うんだ。
多分、先に来た奴らに渡しちまったんだろうな。
俺と違って、もっと思い詰めて部屋に来る奴らさ。今までにもこうやって、物を与えていたんだろうってすぐに察しがついた。
一応言っておくが、あの人は誰も抱いていない。ただ一晩中、相手が満足するまで話を聞いてやるんだ。
なんだってそんなことをしているのかわからなくて、馬鹿じゃないのかって吐き捨てた俺相手にさえそうだった。
国のために戦って、そのことに思い悩む君たちの言葉を聞くことは愚かだろうかって、怒りもせずに言い返しやがる。
俺はこいつが嫌いだと思ったね。
自分の度量のなさを見せつけられたみたいで腹が立った。俺は下の奴らに延々と聞かされるくだらない愚痴に苛ついて部屋に行ったんだ。
それなのにあの人は、もちろん軍曹の言葉にも価値はあるって言って、話すように仕向けてくる。
俺が言いたいことなんて、下の奴らとおんなじくだらない愚痴だって気付かされて話ができると思うか? 馬鹿らしくて言えるわけないだろ。
俺は形だけ非礼を詫びて、野郎どもの待つ暑苦しい部屋に帰ったよ。
悔しかったね。絶対誘いに応じるだろうって見下してた相手から体よくあしらわれたことも、抱いてもらってまで楽をしたかった自分のことも急に嫌になってきた。暑さにやられてどうかしてたとしか思えなかった。
いつかあの高尚な言葉ばかり語る口を封じてやろうって心に誓ったよ。
所詮あの人の言葉なんぞまやかしだ。都合のいい言葉で誤魔化して、ほんの一時だけ心なんて曖昧なものを救った気でいやがる。その効果が薄れて、また誰かの心が参ってくる度に、無責任なことを言うんだ。
あの人だって物資がないとか、そういう明確に判断基準のある問題は解決できないはずだって信じたかった。やっぱりたいした人間じゃないって思いたかった。
でもあの人はやったんだよ。
二週間くらい経った頃かな。あの人に命じられて昼間っから何かやらされてる連中がいるなと思っていたら、夕方になって緑色の怪しい液体が配られたんだ。これはなんだって聞けば虫除けだって言うんだよ。
エルヴァにしかない植物の葉をすり潰して、それを絞って水に溶かしたものらしいんだが、鼻がひん曲がるかと思うほどにおいがきつかった。虫除けを作っていた奴らからもひどいにおいがして、近寄りたくもなかった。
冗談じゃないと思ったね。こんなものを体に塗りたくって、見張りなんてできるかって。
ところが、その日見張りにあたった奴がこれは効くぞって大騒ぎするんだ。軍の支給品よりよっぽどいいって。くさい液体を、大喜びで体に塗りたくってた。気が付けばどいつもこいつもあのひどいにおいをさせてやがる。しかも本当に効果があって、塗っていない俺だけが虫に刺されまくる始末だ。
目が開かなくなるほど顔をぼこぼこに腫らした俺を見ても、あの人だけは笑わなかった。ノーズ軍曹の元には、虫除けが届かなかったのかって驚いていた。嫌味かと思ったら、不手際があったんじゃないかって本気で心配していやがった。
一体どうやって虫除けを用意したのか訊ねたら、立ち話もなんだと部屋に呼ばれたよ。相変わらず酒はなかったが、代わりに塗り薬をくれようとした。唾つけときゃ治るって言って、受け取らなかったけどね。
虫除けは現地の人間から作り方を教えてもらったそうだ。軍では虫が原因で感染症にかかった兵士がばたばた倒れていくのに、現地の奴らはけろっとしてる。妙に思って直接訊きにいったんだとさ。
いくら片言なら言葉が喋れるって言っても、一人で会いに行く奴がいるか? 殺されていたかもしれないっていうのに、あの人は身振り手振りで案外どうにかなるものだってのんきに笑ってやがった。
俺は完全に負けたと思ったね。自分には度胸があるって自負していたが、あの人には頭の良さもあった。それでいてあの人は俺と競おうとしているわけじゃないんだ。
部下が部屋を訪ねてきて、虫除けが欲しいって言ったから配給状況を見直して、国に要請をしてもどうにもならないってことで、どうにかする方法を見つけ出した。ただそれだけなんだよ。
俺はもう観念して、次に現地の奴らに会いに行く時は一緒に連れて行けって言ったんだ。そうしたら、軍曹はエルヴァの言葉が話せるのかって感心されたのには苛立ったね。
でも何も言い返さなかった。そういう人だって割り切ったんだ。じゃなきゃ同行して現地民の襲撃から守ってやろうなんざ思わない。
黙って敬礼して部屋に戻ろうとしたところで、あの人は俺を引き止めた。今日は泊まっていったらどうだって、軍曹にも逃げ場は必要だろうって誘われたよ。
俺は気に入らないものは全部蹴散らしてきた人間だから、あの人の言う逃げ場っていうのはよくわからなかったね。逃げるってのは負けるってことだろう。そのための場所を用意されるっていうのは、弱いって決めつけられてるみたいでやっぱり気に入らなかった。かといって、あの人の誘いを断るのも逃げている気がした。
結局、俺はあの人の部屋で寝たよ。もちろん床でだ。
俺はあの人を上官として認めたんだ。だからいくら勧められても、あの人の寝床をとるつもりはなかった。
床の寝心地も悪くはなかった。あの人は部屋を清潔に保っていたし、何よりも生きているのか心配になるほど小さな寝息をたてて寝るんだ。
あんなに静かな夜は初めてだった。いつもは眠りを妨げるだけの月明かりも、その日だけは清廉さってもんが感じられた。あの人の雰囲気がそう思わせるのかな。
いつもよりぐっすり眠れたおかげか、翌朝は日が昇る前に目覚めた。不思議と顔の腫れもほとんどひいてた。
おかしいなって思って、昨日渡されるのを拒んだ塗り薬の蓋を開けたら、明らかに中身が減っていた。俺の顔からは、鼻を突く薬っぽいにおいがしてた。
礼は口にしなかった。あの人が起きる前に部屋を出たよ。真実に誓って俺達の間には何もなかったんだから。相手が目覚めるのを待って言葉を交わすのは恋人のすることだ。俺はそんな関係を望んじゃいなかった。