02 竜王のいる異世界
「きゃあっ!」
ドスンという音とともに、私の体が床に転がった。バランスを崩して倒れたからか、頭を強く打ち、目の前がクラクラする。周囲からはたくさんの女性の叫び声や、男性の怒鳴り声が響いていて騒がしい。
「何者だ! 衛兵! 今すぐこの者を捕らえよ!」
(あれ? なにこれ? 私、普通に歩いてただけなのに、転んじゃったの? それにさっきまで人通りが少なかったのに、たくさん人がいるみたい)
「痛たたた……」
「動くな!」
痛む頭に手を当て起き上がろうとした瞬間、突然後ろから背中を突き飛ばされ、抑え込まれる。いつの間にか私の周りを取り囲むように人が立っていて、目の前にはギラリと光る剣の切っ先が見えた。少しでも動けば瞬時に切られるだろう距離にある剣に、思わず喉がひゅっと鳴った。
「ちょ、ちょっと待ってくださ――」
「喋るな! 竜王様の御前だぞ!」
「ぐっ!」
ほんの少し顔を上げ口を開いただけで、私は頭をわしづかみにされ、床に押さえつけられる。かなり乱暴にされたので、顔はジンジンと痛み、舌が少し切れてしまった。口の中に広がる血の味が、少しずつ現実で大変なことが起こっていることを実感させ始める。
(な、なんなのこれ? りゅ、りゅうおうって何?)
「一体この女はどこからやってきたのだ!」
「おまえら警備はしっかりやっていたのか!」
「しかしこの者は突然竜王様の前に現れたように見えました! 何か得体のしれない術を使ったのでは?」
「何! 魔術師だと!」
床に押さえつけられているため、誰が喋っているのかわからない。きっとここの警備の人か何かだろう。警察だったらどうしよう。そんなふうに考えていたのに。「魔術」という言葉が聞こえてきたとたん、額から嫌な汗がつうっと落ちてきた。
(もしかして、ここって日本じゃない……?)
それでも言葉は同じ日本語のように聞こえる。それに私は転ぶ前、普通に道を歩いていただけだ。バイトの買い出しの帰り、東京の人通りの多さにうんざりし、裏通りを歩いていて、そして……。
(たしかスマホが鳴って、ポケットから慌てて取り出そうとしたら、お財布が落ちたのよね。そしたら誰かぶつかってきて……。ダメだ。そこからは思い出せない。何か声が聞こえた気もするけど……なんだっけ?)
そんなことを考えていると、私を取り囲んで口論していた人たちが、いっせいに黙り始めた。
「もうよい。下がれ」
その威圧感のある声が部屋に響いた瞬間、辺りに緊迫した空気が漂い始める。さっきまでの騒がしさは気配すら無くなり、水を打ったように静かだ。そしてそんな静まり返った部屋に、今度はカツカツとこちらに近づいてくる足音が聞こえてきた。
「竜王様、近づきすぎです」
「フン。こんな小娘に何ができると言うのだ」
竜王と呼ばれている人が、私に近づいてきている。それだけは理解できたけど、わかったからって状況が良くなったわけじゃない。むしろ「王」と呼ばれているこの人の機嫌を損ねたら、私は殺されてしまうのではないだろうか? 徐々に近づいてくる靴音が、まるで処刑台へのカウントダウンのように聞こえ、私の体はガタガタと震え始めた。
(ど、どうすればいいの? 私、何も悪いことしてないのに!)
カツンと大きく靴音が鳴り、私はハッと目を開いた。目の前には成人男性くらいの大きさの、豪華な刺繍がほどこしてある靴が見えた。きっとこの靴の主が「竜王」なのだろう。
「顔を上げろ」
その言葉にそろそろと上を向いた。下から上へゆっくりと顔を動かすと、私の瞳は目の前の人の姿を捉えていく。最初に目に飛び込んできたのは、ひと目見ただけで上質だとわかる赤い服だ。
靴だけでなく身に着けているもの全てに豪華な刺繍がしてあり、金糸が陽の光でキラキラと光っている。指には大きな赤い宝石がついた指輪。よく見てみると着ているものにも、たくさんの宝石がついていた。
そしてとうとう、「竜王」の顔が見えた。すらりと背が高く、こちらを見下ろす瞳は金色だ。年の頃は二十代くらいだろうか。プラチナブロンドの髪をかきあげ、こちらを見つめる姿はぞっとするほど美しく、まるで作り物のようにも見える。しかもただ美しいだけじゃない。目の前にいる「竜王」には、その呼び名にふさわしい、上に立つもののオーラがあった。
(この人はただの外国人のお金持ちじゃない。たくさんの人に傅かれて生きてきた人だ。逆らえばすぐに殺されるわ……)
今までこんな人に会ったことがなかった。東京に住んでいたから、時には芸能人や著名人を見かけることがあって、その人たちにも特別な存在感を感じたことはあったけど。目の前にいる人はそんなものじゃない。周囲の人たちが頭を下げているように、思わず跪きたくなる何かがあった。
「おまえ、どこから来た? 名はなんと言う?」
ぞくりとするその声に、肩が勝手に跳ねる。
(怖い……! 何でも正直に答えるから! どうか神様! いるなら私を助けてください!)
それなのに緊張からか唇が乾いてくっついてしまい、声が出てこない。竜王の質問を無視していると思われたら大変だ。私はなんとか唇を舌で湿らせると、慌てて口を開いた。
「た、橘莉子です。日本の東京から来ました! こ、ここは一体、どこなんでしょうか?」
「おい! 聞かれたことだけを話せ! 竜王様に余計な口を聞くな! 生意気な女め!」
「うっ!」
髪の毛をぐっと後ろに引っ張られ、頭皮に強烈な痛みが走る。ブチブチと髪の毛が引きちぎられる音が聞こえ、私の瞳からは我慢していた涙が一粒こぼれ、うめき声が漏れた。
(もう嫌! 帰りたい! 私がなにしたって言うのよ……)
私の無抵抗な様子に気を許してくれたのかもしれない。竜王はため息をつくと、抑え込んでいる騎士に向かって追い払うように片手を振り、私から離れるよう促した。
「もうよい。手荒な真似はするな」
「し、しかし、この女のせいで、我が妹達が……」
「そのことは後でまた場を設ける。今は下がれ」
「……は、はい。竜王様」
「拘束を解け。女、手荒な真似はしないが、おまえが妙な動きをしたらすぐに殺す。わかったな」
コクコクと無言でうなずくと、すぐに私を取り押さえていた手が離れた。呼吸ができない苦しさから解放され、私は大きく深呼吸をする。それでもまだ手の震えは止まらず、私はきゅっと自分の手を握り、前を向いた。
「立て」
「は、はいっ!」
その声に私はあわてて立ち上がった。もう言われた通りにして、私は無害で安全な人間なのだと信用してもらうしかない。そう思って命令通り立ったのだけど、予想に反して竜王の瞳は驚きで大きく見開かれ、周囲からは悲鳴のような声が聞こえてきた。
「あんなに脚を出して娼婦か?」
「竜王様の前で、なんとはしたない!」
「しかも赤の衣を着るなんて! この国で赤を身に着けていいのは竜王様だけだというのに、なんたる不敬!」
「さては平民の女が竜王様の気を引こうと、愚かにもあのような格好で現れたのではないか?」
どうやら私の服装は、この世界でものすごく非常識らしい。私の全身の姿が見えたとたん、部屋中が批判と嘲笑の嵐になってしまった。
(どうしよう! 赤色は竜王しか着ちゃ駄目だと言われたって、これバイト先の制服だから! それにミニスカートならまだしも、膝丈でもはしたないの? やっぱりここは海外でもなく、いわゆる異世界なのかもしれない……)
こんな状況で勘違いされたら、よけいに竜王の心象が悪くなる。自分を誘惑しようとしていたのか? なんて思われたら、絶対に無事ではいられない。そう思った私は、あわてて釈明し始めた。
「あ、あの、これは私が暮らしていたところでは、普通の服装で男性に取り入ろうとしているものでもありません! 職場の制服なんで、私が選んだ色でもありません!」
しかし私の言葉なんて、誰一人として聞いてくれない。それどころか口々に文句を言って止まらないみたいだ。私の必死の説明は、あっという間に彼らの声にかき消されてしまった。
「静かにしろ」
竜王のその一言で、また場がしんと静まり返る。そしてそのまま一歩前に踏み出すと、ジロジロと舐めるように私を見始めた。下心のようなものは感じない。彼の瞳には単純に不可思議な生き物を調べているという様子が見て取れる。
そして私をひとしきり観察したあと、竜王は腕を組みニヤリと笑った。
「ふむ。さてはおまえ、迷い人か?」
「ま、迷い人……?」
私はそのまったく聞き覚えのない言葉に、思わず首をかしげた。