【短編版】わたくしの婚約者様はみんなの王子様なので、独り占め厳禁とのことです
「レティの婚約者様は、今日も大人気ね」
食堂を後にし、教室に戻る道すがら。廊下で足を止めた友人が、不機嫌たっぷりな声でそう言った。
レティシア・アルトリウスは、窓の外を覗いてみる。晴れ渡った空の下、中庭で昼食をとる生徒は多い。その中でも、友人が見咎めた光景は一目瞭然。噴水の周りに設けられたベンチの一つに、生徒が群がっているのだ。育ちの良さそうな令嬢や令息に囲まれて、五月蝿そうに顔を顰める男子生徒――を、まぁまぁと宥めているのが、レティシアの婚約者だ。
遠目からでもすぐにわかる、輝かんばかりの美貌。麦の穂のような淡い金の髪。穏やかな青空色の瞳。模範的に着こなした制服に包まれた体躯は、十七歳の男性としては華奢な部類。レティシアが四歳の時に初めましてのご挨拶をした三つ年上の王太子――ウィリアム・ルクシーレは、今日も麗しい。
ウィリアムに声をかけている令息は、教本を開いている。秋季試験が近いから、入学してから現在に至るまで、常に学年首席を維持しているウィリアムに教えを請うているのだろう。そんな生徒で溢れかえっているから、ウィリアムの友人は迷惑そうな顔を隠せていない。
当のウィリアムは友人を宥めながら、穏やかな笑みを湛えて目の前の男子生徒に応対していた。
「未来の旦那様が人気者で、嬉しい限りですわ」
頬を緩めるレティシアを見て、友人であるメリルは呆れ顔になる。
「あなたってば、どうしてそう、のんびり屋さんなの? レティが王国の薔薇と讃えられるほどの美少女なのは事実だけれど。わかっているでしょう?」
真っ直ぐに伸びた、輝くようなプラチナブロンドの髪。ミルクのような肌。整った目鼻立ち。幼い頃からレティシアは、王国で一番可憐な花だと持て囃されてきた。
だが、この国の王妃に最も必要なのは、美しさじゃない。だからメリルは心配してくれていて、こうやって眉をひそめるのだ。レティシアの婚約者としての立場が盤石なものではないという、懸念から。
友人の心配に、レティシアは神妙な面持ちで頷いた。
「もちろん、わかっているわ」
「わかってないでしょ?」
普段からマイペースなせいか、それとも別の要因か。レティシアの態度は、誤解されやすい。真剣な相槌は、メリルには薄っぺらく響いたよう。彼女はますます剣呑な顔になった。
「メリルったら、そんな風に眉間に皺を寄せてはだめよ? せっかくの美人さんが台無しになってしまうわ」
つん、と額をつついたら、ぺしりと叩かれてしまう。
「馬鹿を言っていないで、よく見て。ほら、あの赤髪のご令嬢」
もう一度、外の景色をよく見てみる。群がる令嬢の中で、赤い髪の女子生徒は一人だけ。胸元で揺れる黄色のリボンは、レティシアと同じ一年生である証。よくよく見てみれば、愛らしい面立ちには見覚えがあった。
「あの方は、確か――」
「彼女が、噂の聖女様――アンジェ・メネリック伯爵令嬢よ」
ルクシーレ王国では、聖女と呼ばれる神秘の娘が生まれる。癒しの力で病や怪我を治癒する、神に愛されし娘。それが聖女だ。
アンジェの癒しの力は、桁外れに強いものらしい。他の聖女なら数日かかる怪我の治療を、彼女は一日足らずで治してしまうのだとか。もちろん、そんなアンジェでも命に関わる病や怪我の治癒は不可能らしいが。
孤児院育ちのアンジェは類稀なる癒しの力を買われ、十二歳の時にメネリック伯爵が養女として迎え入れたのだ。
「本来なら、聖女様は教会で治療に勤しむもの。だというのに、伯爵はアンジェ様を養女として迎え入れた挙句、この学園に入学させた。のんびり屋さんのレティにだって、伯爵の思惑は読めるでしょう?」
貴族の娘となった以上、それらしい教養を身につけるべき。それがメネリック伯爵の言い分だが、表向きの名目であることは明白。アンジェが王室の目に留まることを、伯爵は期待しているのだ。
ルクシーレの国教であるヴィレン教は、その名の由来通りに、ヴィレン神を祀っている。国の守り神であるヴィレン神は、愛情深く、愛妻家と伝えられる神様だ。ヴィレン神に倣って、王族が迎える妻は一人だけ。側室は認められておらず、また、国王に何かあった際は王妃が代わりに政を担う。それが長年の習わし。聖女という奇跡が生まれるのは、この伝統を守り続けてきたからだと、ルクシーレの民はみな信じている。
ルクシーレにおける国妃の権限は、とても強い。娘を王妃にしたいのなら、教養は必須だ。語学、歴史、経済学、一般常識。両手の指では足りない数の家庭教師を雇い、娘を磨き上げる貴族は多い。
レティシアが通う王立学園は、王国一の名門校。入学した年によって年齢問わずの五期年に分けられる学園には、十四歳から二十歳までの貴族の子息令嬢と、難関とされる入学試験を突破した平民が在籍している。
「神様からの贈り物は、癒しの力だけじゃなかったのね。彼女、入学したばかりの春季試験では学年で下から数えたほうが早いくらいの順位だったらしいのに、前回の夏期試験では上位五十人に入っていたわ。最終学年になる頃には、どこまで伸ばすことやら。好成績が続くと、アンジェ様を推す派閥が出てきたりもするんじゃないかしら」
「贈り物だなんて、よくないわ」
メリルの言い分にじっと耳を傾けていたレティシアは、そっと訂正した。
「え?」
「メネリック伯爵令嬢は、もの凄く努力なさったのだと思うわ。この学園でそれだけの好成績を残すのは、地頭の良さだけでは難しいもの」
孤児院育ちなら、アンジェは読み書きすらも怪しかったに違いない。学年は同じだが、アンジェはレティシアより一つ年上だ。たったの三年で授業についていけるだけの知識を身に付け、王国一の名門校で上位に食い込む優秀な成績を収めている。彼女はきっと、物凄く努力しているはず。神様に愛されているからと片付けるのは、失礼だ。
「レティのそういうところ、好きよ。普段は何を考えているのか、まったくわからないけど。あなたの言う通り、きっとアンジェ様は努力家なのでしょうね。だから心配なの。公爵家の血筋と飛び抜けた美貌はあっても、レティの成績は――」
「いつも平均点?」
春と夏の試験、毎週の小テスト。レティシアはいつだって全科目が平均点より一、二点上か下で、優秀な成績とは程遠い。
我が事のように案じてくれるメリルの心遣いが嬉しくて、レティシアは微笑んだ。
「心配しないで、メリル。わたくし、殿下との仲は、それなりになりですから」
「……意味のわからない言葉だけど、レティに危機感がまったくないことだけは伝わってきたわ。婚約者を奪われて泣き寝入りする日が来ても、私は慰めてあげないから」
呆れたように、メリルが歩き出す。
「あら、まぁ……」
レティシアは、大真面目なのだけれど。
いつもふわふわと微笑んでいるレティシアのことを、何を考えているのかよくわからない、と評する生徒は多い。近寄り難いと思われている節すらあり、親しい友人はメリルだけ。人気者の婚約者とは正反対だった。
メリルの背中を追いかける前に、最後にもう一目だけ、と中庭に視線を向ける。すると、指通りの良さそうな金髪を揺らして、ウィリアムが校舎をふり仰いだ。窓越しに、ぱちりと目が合う。レティシアがにっこりと微笑めば、ウィリアムも口許を緩めてくれた。
遠目からでもはっきりとわかる微笑は、学友たちに向けるものとは違う。親しみと気安さに満ちた微笑みを見れば、レティシアも頑張らなくてはと、身の引き締まる想いだった。
◆◆◆◇◆◇◆◆◆
来週末から始まる試験に向けて、休日の朝から図書館を利用する生徒は多かった。レティシアは寮の自室のほうが集中できると思うから、複数人で集まって試験勉強に励む心理というのは謎だった。
メリルも後者の人間で、レティシアは強引に部屋から連れ出され、何人かの級友とテーブルを囲む事態に陥ってしまった。
当てはめる公式が違う。こっちの訳が正しい。わかりやすい参考書はこれ。ひりついた会話と熱気に参ってしまったレティシアは、一時間と保たずに図書館から抜け出して、中庭のベンチに避難した。
試験勉強に励むつもりは毛頭なく、部屋から持ってきていたロマンス小説を紐解く。ハラハラした展開に胸を躍らせていたのは最初だけ。次第に、ページを手繰る手は緩慢なものになった。
ぽかぽかとした陽射しが気持ち良過ぎて、眠気に抗えなくなってきたのだ。
「こんなところで寝たらダメだよ、レティ」
とろんとしたまぶたを見開き、顔を上げたレティシアは、パァッと顔を輝かせる。
「ウィル様っ」
弾かれるように立ち上がり、子供の頃からの癖でウィリアムに抱きつこうとして――はたと我に返ったレティシアは、慌てて踏み出した右足を芝に縫い止めた。誰が見ているかわからないのだから、行儀の悪い行為は控えなくては。
両手を広げて受け入れ態勢だったウィリアムが、あれ、と瞳を瞬かせる。
「いつもの挨拶はしてくれないんだ?」
「もう子供じゃありませんから」
「おかしいな。冬季休暇で帰省した僕をレティが嬉しそうに歓迎してくれてから、一年も経っていないはずなんだけど」
「淑女の十三歳と十四歳の差は、とても大きいのですよ?」
「相変わらず、レティは脊髄反射で物を言うよね」
レティシアが深く考えて発言していないことなんて、ウィリアムはお見通しだ。クスクス笑いながら隣に座った彼は、レティシアの膝に置かれた小説に興味を示した。
「何を読んでいたんだい?」
「これです」
表紙を見て、ウィリアムが意外そうに目を瞠った。
「レティがロマンス小説……?」
「友人が薦めてくれたのです。ルクシーレの薔薇とも讃えられるわたくしですから、市井の恋愛事情を把握しておくのも大事な責務かと」
「またいい加減なことを言う……」
「ちなみにですね、主人公の令嬢が婚約者に一方的に婚約破棄を宣告される。そんな物語が、今の流行りだとか。とても人気があるそうですよ?」
「その本も?」
「いいえ? この小説は恋愛色が薄く、ファンタジー色の強い物語です。婚約破棄などという単語は一切出てきません」
「不吉な流行りに言及する必要は、どこにもなかったと思うんだ」
二人の会話は途切れることなく続き、話題は学園での出来事に移っていく。同じ校舎で生活していても、学年が違えば関わりはないに等しく、生徒会長としても多忙なウィリアムがレティシアに割ける時間は限られている。学園外で休日を共に過ごすことはあっても、敷地内でここまで長く話をするのは、初めてのことだった。
友人に引きずられるようにして部屋から連れ出されたことや、図書館での試験勉強について話すと、ウィリアムは微笑ましそうに頬を緩めた。
「レティが楽しそうで、何よりだよ」
「実家に比べれば、どこでも楽しめますわ」
「それは……」
何かを言いかけたウィリアムは、ふわぁ、と欠伸をする。ごめん、と口許を引き締めたウィリアムに、レティシアは眉を曇らせた。
「ウィル様、寝不足ですか?」
「……夜更かしすることが、増えたから」
「ウィル様の人気は今に始まったことではありませんが、試験前のこの時期は、特に騒がしく感じます。無理をなさらず、偶にくらいお一人の時間を作られてはいかがですか?」
人の好いウィリアムは誘いを断るということをしないから、その点だけは心配だ。
「あぁ、違うよ。時間が足りないわけじゃなくて、試験勉強に励んでいたら、自分でも気づかないうちに夜更かしになってしまって」
「ウィル様でしたら、そこまで根を詰める必要はないのではありませんか? 試験の範囲は、家庭教師に教わった範疇のものでしょう?」
王太子であるウィリアムは、幼い頃から徹底した英才教育を施されている。最高峰の学問を提供する学び舎であっても、ウィリアムにとってはかつて習った知識の復習が大半のはずだった。
訝しむレティシアに、ウィリアムは照れ笑いを浮かべた。
「そうなんだけどね。ルクシーレの薔薇とも言われる君が婚約者なのに、情けない成績は残せないから」
ウィリアムの周りに人が集まるのは、こういう所だ。王太子という身分に胡座をかいたりせず、立派な人間でいるための努力を怠らない。加えて性格も穏やかで貴賎の別なく親切なのだから、彼と親しくなりたい生徒が多いのは自然なことだった。
レティシアは、慕われているウィリアムを見ると嬉しくなる。彼の頑張りが認められている証だし、自分の好きな人をたくさんの人が好きになってくれるのは、とても嬉しい。
ウィリアムの言葉は嬉しかったが、それと無理を黙認するかは別の話。少し考えてから、レティシアは首を傾げた。
「それでは、今からお昼寝するのはどうでしょう?」
「今から?」
「ここに、ちょうどいい枕がありますよ?」
レティシアがぽんぽん、と膝を叩くと、柔和な面差しがほんのりと赤くなる。
「それは、ちょっと……」
恥ずかしいし、と口籠るウィリアムの困り顔は格別だ。とろけそうになる表情を堪え、でしたら自室で休んでくださいな、と真面目な顔で伝えるのは、なかなかに難しかった。
◆◆◆◇◆◇◆◆◆
レティシアの穏やかな学園生活が騒がしくなったのは、翌日のことだった。
学年もクラスも違う女子生徒が六人、休み時間にレティシアを訪ねてきた。その中には先日メリルが話題に挙げた聖女――アンジェの姿もあった。
「アルトリウス公爵令嬢。いくら婚約者だからといって、ウィリアム様と二人きりで過ごすのは、重大な規則違反ですわ」
昨日の今日だし、大人数で押しかけてきた時点で用件は察せていたが。
レティシアがウィリアムと二人きりで会っていたことが、彼女たちの気分を害してしまったらしい。
「学園でのウィリアム様は、みんなのものなのです。これは、公爵令嬢が入学なさる前からの規則。婚約者であろうとも、犯すことは許されません」
メリルから聞いたことがあった。とある令嬢に東屋で勉強を教えて欲しいと請われた際、ウィリアムは二人きりで会うことを断った。婚約者がいる身で外聞の悪い振る舞いはできない、と。それ以来、ウィリアムはみんなのものという、謎の規則ができあがったのだとか。
彼女たちが勝手に言い張っているめちゃくちゃな規則であっても、レティシアに異論を挟む気はない。
ウィリアムはきっちり線引きしているし、レティシアをちゃんと特別扱いしてくれているのだから、嫉妬心も湧いてこない。
婚約者が人気者なのは、素晴らしいことだ。心からそう思っているから、レティシアはやんわりと微笑んだ。
「以降、気をつけますね」
「本気でそう思っていらっしゃる?」
「もちろんです」
にっこり微笑めば、令嬢は眉をひそめた。
「こう言ってはなんですけど、公爵令嬢の笑顔って……なんというか、嘘っぽいのよね」
「嘘っぽい……」
レティシアは、心の中だけで苦笑する。
嘘どころか、偽りのない本音。
だというのに、誤解を招いてしまうのは――レティシアが、一般の淑女とは毛色の違う教育を受けてきたせいだろう。
常に微笑みを湛え、愛される女であれ。それが貴族の家に生まれた娘が教わる基礎。
だが、血筋と愛らしさから五歳で第一王子の婚約者となったレティシアは違う。将来、王妃として政務に携わる機会が訪れた際、老獪な貴族たちと渡り合えるよう、日頃から感情を表に出すな。愛嬌よりも食えない女であれ。父は、一人娘にそう説いた。
感情を殺す日々が七年近く続いた結果、レティシアは薔薇どころか氷みたいな令嬢に育った。尤も、アルトリウスの秘蔵っ子として屋敷の外に出してもらえず、訪ねてくる客ともほとんど顔を合わせなかったレティシアだから、昔の彼女を知る同年代の貴族は皆無に近い。ある人の前を除いてずっと押し殺してきた表情を無理やり引き出そうとするものだから、レティシアの立ち振る舞いは薄っぺらくなってしまうのだ。
「口先だけならなんとでも言えるわ」
「自分が婚約者だと、私たちに見せ付けたかったのではなくて? 改める気なんてないのでしょう?」
レティシアの困惑を置き去りにして、令嬢たちの不満は募っていく。
「だいたい、アルトリウス公爵令嬢がウィリアム様の婚約者であることがおかしいのだわ。アンジェのほうがよっぽど相応しいのに!」
「アンジェは養子であなたが公爵家の出だなんて……っ」
こぼされた言葉に、あら、と目を丸くする。
レティシアを扱き下ろすためにアンジェを引き合いに出したわけではなく、吐露されたのは確かな本音に聞こえた。
「殿下はみんなのものですのに、メネリック伯爵令嬢が婚約者でしたら、皆様は納得されるのですか?」
一貫していない主張を、レティシアは不思議に思う。
「アンジェが殿下の婚約者なら、納得がいくもの」
「アンジェの癒しの力は素晴らしいのよ。挫いた足が、あっという間に治ってしまったの。ほんのひと瞬きの間のことよ」
「成績だって優秀ですもの。アンジェはウィリアム様に相応しい令嬢になろうと、日々勉学に励んでいるの」
「神に愛された娘ですものね。加えて努力家なら、私たちだって応援するわ」
持て囃されたアンジェは、顔を真っ赤にして押し黙っている。恥ずかしそうに俯く仕草は、とても愛らしい。彼女が学年問わず同性から慕われているのは、明らかだった。
がたん、と椅子を揺らして立ち上がったレティシアは、アンジェにずいっと詰め寄り――彼女の両手をぎゅっと握った。
「素晴らしいですわ」
「はい?」
「入学から半年足らずでここまでの支持を得られる求心力。秘訣はどこにあるのでしょう? 何か、心掛けていらっしゃることは? それともやはり、殿下同様に天然が最強なのでしょうか?」
「あの? 一体、何のお話ですか?」
慌てふためいている可愛らしい顔に、レティシアはもどかしくなる。
――わたくしに、お友達作りの秘訣をご教授ください。
そうお願いできたら楽なのに。公爵家の娘として、そんな恥ずかしい台詞は口が裂けても言えない。実家に伝わってしまったら、厳しく罰せられるに違いないからだ。
「レティ?」
涼やかな声に振り返れば、教室に入ってくるウィリアムの姿があった。彼の肩越しに、息を切らせたメリルが見える。姿が見えないと思ったら、助けを呼びに行ってくれていたらしい。
「ごきげんよう、殿下」
「何か、揉め事かい?」
「いいえ? とても平和的な語らいをしておりました」
レティシアがにっこり微笑めば、ウィリアムはそれ以上追求しなかった。彼は、レティシアを取り囲んでいた集団の中で、最も身分の高い令嬢――ヴァルシュタット侯爵家の長女に視線を向ける。
「アルトリウス公爵令嬢は、陛下が認めた僕の婚約者だ。僕は君たちに学友として敬意を持って接してきたつもりだけれど……僕の婚約者を尊重してもらえないのなら、認識を改める必要が出てくる。僕の本意は、わかってくれるね?」
遠回しな叱責は、それでも効果覿面だった。申し訳ございません、としょげ返る令嬢たちを、レティシアは微笑ましく思う。
彼女たちの根っこは善良なのだ。ウィリアムに嫌われては本末転倒だとわかるから、叱責されればきちんと反省できる。
アンジェの好意を尊重しているように、レティシアがウィリアムの婚約者に相応しい令嬢なら、彼女たちも不満をぶつけに来たりはしなかっただろう。だからこれは、レティシアの過失だった。
「アルトリウス公爵令嬢」
ウィリアムに促され、レティシアは教室を後にする。ひと気のない渡り廊下まで来たところで、ウィリアムが足を止めた。振り返った彼は申し訳なさそうに言う。
「騒がせてごめん」
困り顔のウィル様も可愛らしいわ、と。ときめきながら、レティシアは微笑んだ。
「ウィル様が負い目を感じるようなことは、何も。微笑ましい会でしたわ」
「メリル嬢は真っ白な顔で僕を呼びに来たわけだけど、レティは本気でそう思っているからな……。君のマイペースっぷりに、メネリック伯爵令嬢もたじろいでいたし」
「メネリック伯爵令嬢といえば、メリルが懸念しておりましたわ。わたくしの立場を揺るがしかねない、と。確かに、素晴らしい人気振りでした」
メリルが心配になるのも頷ける。だが、ウィリアムは厳しい顔で首を横に振った。
「僕は、未来のお嫁さんに僕と似た素質を求めるつもりはないよ」
「はい、心得ておりますわ」
レティシアは、神妙な面持ちでそう言った。
◆◆◆◇◆◇◆◆◆
「これは、どういうことかしら?」
廊下に張り出された秋季試験の順位表を見て、令嬢の一人が唇をわななかせた。その場に居合わせたレティシアは、たおやかに微笑む。
「見たままかと思います」
一年生の首席は、レティシア。
三ヶ国語、地理、歴史、経済学、一般常識、文学――すべての科目が、満点。
「公爵令嬢は、もしかしてとんでもなく頭がいい……?」
ふふ、と微笑んでしまう。レティシアが教師を買収したとか、そっち方面には思考が伸びないのだから、彼女たちはやっぱり善良だ。もちろん、不正なんて働いていないが。
「王太子の婚約者に、飛び抜けた知性は不可欠ですわ」
「え、でも……」
近くには、アンジェもいた。困惑した顔で彼女は口籠る。
過去の成績は、お世辞にも褒められたものじゃない。言葉を濁したアンジェに、レティシアはおっとりと微笑みかけた。
「満点なんて取れて当たり前のものよりも、全科目平均点のほうが、難易度が高いと思いませんか?」
実家へのちょっとした悪戯心から、レティシアは試験で特殊な試みをしていた。生徒たちの学力を読み、各問題の配点を予想してわざと平均点を叩き出していたのだ。
黙り込んだアンジェも、周りの令嬢たちも、レティシアの言葉の意味をすぐには理解しかねたよう。しきりに首を傾げている彼女たちの顔に、理解の色が及んだのを見計らって、レティシアはアンジェに告げた。
「メネリック伯爵令嬢と同様に、わたくしも殿下に相応しい婚約者となるべく、幼少の頃より研鑽を積んで参りました。ですので、伯爵令嬢のお気持ちはよくわかりますわ。これからも王国の輝かしい未来のため、学友として高め合っていきましょう?」
養父の妄執から育ったアンジェの淡い期待を打ち砕くため、レティシアはそう言って微笑んだ。
◆◆◆◇◆◇◆◆◆
休日の昼下がり。かねてより約束していた観劇をウィリアムと楽しみ、散歩がてらに立ち寄った公園のベンチで。
「レティの入学が初めから決まっていたら、手っ取り早く無愛想な王太子を演じたんだけどな……」
ウィリアムが、ぽつりとこぼした。
「わたくしの殿下とはかけ離れた解釈ですので、その案はどのみち棄却しておりましたわ」
にっこり笑って突っぱねると、ウィリアムは苦笑する。
「レティは王子様な僕が好きだもんね」
「語弊がありますわ。ウィル様は天然で王子様ですもの。わたくしへの気遣いから、ご自身を偽って欲しくないだけです」
「レティは天然で悪女だからな」
否定しきれない気がして押し黙ると、ウィリアムはクスリと笑んだ。
「嘘だよ。レティは僕の自慢の婚約者だし、アルトリウス公だって自慢の娘だと思っているよ」
「前者は信じますが、後者は怪しいです。お父様はわたくしをアルトリウスの最高傑作とお考えでしょうけど……娘として自慢に思っていらっしゃるかどうかは、別の話です」
父にとって、レティシアは王家に取り入るための道具に過ぎない。彼から愛情を感じたことは、一度としてなかった。
幼い頃からレティシアに愛情を注いでくれたのは、目の前の王太子だけ。
朝から真夜中まで家庭教師が付きっきりの、息が詰まるような毎日。窒息しそうな日々の中で、ウィリアムと過ごす時間だけが、レティシアのよすがだった。
父の厳しさを補うように、ウィリアムはレティシアをたっぷりと甘やかしてくれた。ウィリアムが頑張ったね、と頭を撫でてくれるから地獄のような日常に耐えられたし、彼の前でだけは、心から笑うことができた。
ウィリアムに向ける笑顔だけは混じり気のない本物だから、人々はレティシアを王国で一番可憐な少女だと褒めそやすのだ。
「そんなことないよ。君に申し訳なく思っているから、レティを学園に通わせて欲しいって僕の頼みを、公爵は了承してくださったんだ」
王立学園への入学は、父の描いていた人生設計には含まれていなかった。五歳の年から英才教育を施してきた娘が学ぶ知識など、授業には組み込まれていないからだ。
父の気が変わったのは、昨年の春のこと。
『知性でレティに勝る令嬢はいないけれど、社交性を軽んじ過ぎては社交に支障を来す恐れもある。レティを王立学園に通わせて、そちらの分野も磨くのはどうか』
そんなウィリアムの案に、父は最終的に頷いたのだった。
「父の偏った教育が誤りだったと気づいただけではありませんか? 男性と女性では、求められるものが違いますもの。おかげでわたくし、とても苦労しております」
入学が決まってからは大変だった。学園という集団生活の場で、愛想笑い一つできない令嬢が、馴染めるはずもない。入学前からそんなことはわかりきっていたから、レティシアはすぐに立ち振る舞いを見直し始めた。
「入学が決まって、鏡の前で一生懸命笑顔の練習をするレティは、すごく可愛かったよね」
「先日、わたくしはその笑顔が嘘っぽいと言われました!」
面白がるウィリアムを、きっ、と睨み据え――レティシアは、へにゃりと眉尻を下げた。
「わたくしも、ウィル様みたいにキラキラな人間になりたいのに……」
「レティが苦手な分野は僕が肩代わりすればいいだけの話だから、無理して人当たりのいい令嬢を演じる必要もないと思うけどな。そのままのレティでも、見ている人はちゃんと見ているよ。メリル嬢がいい例じゃないかな。男爵家のご令嬢が王太子の僕に声をかけるなんて相当な勇気がいるだろうに、レティのために呼びに来てくれたんだから、いい友人だと思うな」
ウィリアムが父に指摘した社交性の欠如は、ただの方便。彼はレティシアに自由を与えたかっただけ。それはわかっているけれど。
「ウィル様の甘言には惑わされません。無愛想な公爵令嬢など、忌避されてしまいます。人付き合いもまともにこなせない令嬢がウィル様の婚約者だなんて、わたくし自身が許せませんわ」
人気者の王太子に比べて婚約者は――なんて、言われたくない。
協調性のなさもどうにかしなくてはいけないと自覚しているから、前途は多難だけれども。
「卒業までにレティの友人がどこまで増えるか、楽しみだな」
ウィリアムは完全に面白がっていた。お日様の下で悪戯っぽく笑う王太子も素敵だけれど、揶揄われっぱなしは、悔しい。
レティシアは、こほん、とわざとらしく咳払いをした。
「ところで、ウィル様。わたくし、ご褒美が欲しいのです。初めて首席の成績を収めたお祝いを、くださいませんか?」
「レティがおねだりなんて、珍しいね。もちろんいいよ。僕に用意できるものなら、なんでも」
嬉しそうに笑うウィリアムは、やっぱり人が好い。そしてレティシアは彼が指摘した通りに悪女なので、言質を取った上で、
「では、ウィル様。わたくしに膝枕をさせてください」
ウィリアムが心の底から困るおねだりをする。
「え」
固まってしまった王太子に、とろけるような笑みを向ける。
「ウィル様、先ほどなんでも、と仰いましたよね?」
「言った、けど……」
恥ずかしいから、せめて別の機会に――なんて逃げようとするウィリアムを追い詰めるのは、レティシアにとってこの上なく幸せな時間なのだった。
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