#86 : その手を離して
『ヴヴッ…』
十七時を過ぎようとしていたころ、携帯がメッセージを受け取ったと鳴く。
祝日になんだろうか?もしかして店舗で問題が起こったのでは?慌てて携帯を見ると小畠からだった。
『お休みのところ、また、業務に関係ない事で失礼します。お誕生日おめでとう。デスクにお花を置いておくので、明日にでも取りに来てください』
彼は憶えていてくれたのだ。胸が鐘の如く高く鳴り響き、身体が火照り出す。嬉しさと気恥ずかしさで顔が赤くなっているのがわかる。今すぐにでも会社に向かいたい。もしかしたら会えるかもしれない。
今朝までの美希なら彼に会える可能性を信じて家を飛び出していたが、気持ちに大人の余裕ができた今は抑えることができた。
今、動いたところで何も変わらない。変えなければいけないのは、軽はずみな行動を取ってしまう私。
ふーっ、と深呼吸をしてメッセージの返信をする。
『お疲れ様です。ありがとうございます。憶えていて頂けたなんて光栄です。これからも社の一員として精進してまいります』
火曜会のように口でならもっと軽く返せるのだが、彼からのメッセージはいつも業務的だ。合わせるようにお堅い言葉で返信する。
前までは気づかなかったが、きっと彼は第三者にメッセージを見られても双方に問題が起こらないよう、努めて業務的にしているのだと今なら思う。
彼の気持ちを考える余裕ができたこと、それが何よりも自分を大きく成長させる。
ああ、コレが大人なんだ。
自分の思い通りにならなくても悲観せず、相手に合わせ、自分の成長へと繋げていく。
場面ごとに使い分けもしていくのだろう。その時はまたその時に考えよう。
今は色々と感傷に浸りたい。夢見心地だった幼い自分と繋いでいた手を離すことになった今日は。
さようなら。幼かった日々の私。たまに会いに行ってしまうかもしれない。その時は優しく叱ってね。おバカさんだなって。
美希は23歳になった。
ここ数ヶ月で俺は大分変わってしまった。
クリスマスの日を境にして、だな。
…やっぱし、個人的なやり取りはやめておくべきだったかな。
ま、お花も買っちゃったし、メッセージも送ってしまったし、四ツ谷からもお礼の返事きたからどうにもならないのだけど。まさか本当にガーベラだったなんて。驚きながらも彼女のイメージのピンクにした。
瑠海と関係を持った後から、意固地になっていた何かが弾け飛んだ。清々しいほどの開放感があった。まるで生まれ変わったかのような気分だった。そして、俺は調子に乗った。
その結果、瑠海と四ツ谷を傷つけたにも関わらず、俺だけが被害者のような解釈しか出来なかった。今なら言える。俺は本当にクズだと。
泣いている姿を沙埜ちゃんに見られて正直、恥ずかしい。だけどあの時に流していなければ、今の気持ちに気づけなかった。そして、四ツ谷に対して行動を起こせなくなっていただろう。今よりもっと気まずくなってしまうのは火を見るより明らかだ。沙埜ちゃんには感謝しかない。
あの涙は、俺がずっと我慢をしていた涙。
もう、オマエを責めないよ。
がんじがらめの鎖を切り離す。
息苦しさが楽になった。
何のことはない。瑠海の言う通り、自分で締め付けていただけだ。
我ながら現金なヤツだと思う。調子が良いのも自覚している。今日からはそんな自分も見つめてあげよう。そんな自分も愛していこう。それが俺なんだ。
コレで四ツ谷との関係が修復したとは思ってないが、昨日までよりかは良くなっただろう。残るは瑠海だが、焦らずに信用回復に努めるか。こんな事を考えられる余裕もできてきた。
今日くらいは晩酌やめとくか。散々飲んだし。
酒に逃げなかったせいで雪が降らなきゃ良いけど。




