#82 : 大人のコーヒーは恥じらいの味
美希は半分酔いながら、半分、和田を意識している。
彼はソファの横に居たのに、ベッドに近づいて来るのが衣擦れでわかる。
もう、どうでも良い。何もかも捨て去りたい。
覚悟とか諦めではなく排他的な気持ちだった。
ぎこちない動きで抱えられる。ベッドの上の方までずらされ、布団をかけられる。
彼は枕元のパネルをこねくり回しながら明かりを調節している。点いていなかったトイレやバスタブが明るくなる。
やっと部屋全体が薄暗くなり、目を凝らせば誰かが居るくらいわかる程度の明るさだ。
あの時とは違う暗さ。目を瞑っていても、もう彼ではないのだ。私の本当に好きな人は、遠い国の王子様。気安く舞踏に誘ってはいけなかった。
その後の事は覚えていない。室温もちょうど良く、酔いが回っていたせいで眠りについていたらしい。その方が良かった。記憶に残っていたらきっと色んな意味で後悔をしただろう。今回は酒のせいだ、そう言い訳ができる。それで良かったのだ。
フラつきと痛みを覚えた頭を動かすと、奇妙なことに気がついた。
ブラウスもパンツ・スーツも着たままだった。ソファに投げたコートとジャケットは、綺麗にハンガーにかけられている。
空いたソファには丸まった捨て犬、もとい和田が狭苦しそうに寝ていた。
「ふが…起きたかい?携帯鳴ってたよ?」
言われて時計を見ると朝の七時過ぎ、着信の主は母親だった。最終着信履歴はちょうど五時。母親に外泊すると伝えていなかった。
「痛たた…、ちょ、ちょっとお静かにしていただけますか?」
「うん?大丈夫だよ」
初めての二日酔いに頭を押さえながら携帯を持ってトイレへと駆け込む美希。
「…もしもし」
『もしもしじゃないわよ!一体何時だと思っているの!』
「ごめんなさい。帰れなくなってしまって…」
『泊まるならちゃんと連絡すること!心配してパパに連絡しようかと思ったわよ!』
「ご、ごめんなさい…」
『いくら社会人でもルールは守ること!』
「以後、気をつけます」
大人になりつつある娘を大きな愛情で見守る母親は、いつかの自分と重ねているようでもあった。
「だ、大丈夫だった?」
「ご、ご心配をおかけしました。と、ところで…」
急にもじもじとしながらベッドに入り、布団で身体を隠す。
「き、昨日の事、ですが…」
「布団もかけずに寝ちゃったから、ちゃんとかけておいたよ。コートも上着も脱ぎっぱなしだなんて、美希ティーらしくないね」
欠伸をしながら寝ぼけ眼で笑う和田の話を信じて良いものか。
痛む頭で記憶を辿る。ブラウスの第三ボタンを開けていたのは覚えている。焼き鳥屋でビールを飲み過ぎ、気持ち悪くなりキツかったからトイレで外した。
歩けなくなったのも思い出す。倒れかかったところを和田にもたれた。直接触らないようにコートの袖を掴んで誘導されて、歩けなくなりタクシーを呼び…?
「まさか美希ティーに”ハウス!”されるとはね!」
そうだ。どうせ帰れない和田をタクシーに乗せここまで来た。その間、指一本触れられていない。これは事実だ。彼に経験が無いからなのか?それとも、魅力が無いのか?
心配している目でオロオロしていた美希を見かねた和田が安心させるために呟く。
「誕生日にお酒のせいでこんな事は良くない」
ああ、やはり、この人は優しい人。
好きになった人と同じ、想いを大切にしてくれる人なんだ。
不意に涙が溢れ出す。小畠への懺悔、自分勝手な行動の数々、思い通りにならなかった事への八つ当たり、ずっと心配してくれていた人達がいる事。
「二日酔い!?大丈夫?お水?コーヒー?」
こんなにも間抜けなモーニング・コーヒーを誕生日に和田と飲むなんて。
美希は本当の意味で少し大人になれた。