#74 : 玉となって砕くとも
建国記念の日、美希は産声を上げた。
小さな身体で大きな声で泣いた。母親だけでなく医師達もその声に安堵を覚え、産まれてきた小さな生命に大いなる祝福を捧げた。
そんな輝かしい日の前日、祝福を受けたはずの美希は人生でまたも初めての経験をしている。世間一般で言う『失恋』だ。
小畠に振り向いて欲しくて頑張って来たのに、抱かれた途端に拒絶された。あんなに優しくエスコートしてくれたのに。どんな時も思い返してしまう。現実の痛ましさを。
落胆している彼女を心配している人物が一人。忙しない社内でのほほんとマイペースで仕事をする和田。先日、大雪の後に見かけてしまった彼女の涙。誰のために降らせた雨なのか。勢いで口をついた『言語道断』、彼女を泣かせるなんて酷いヤツだ。
下心も多少はあったが、和田は彼女に笑顔になって欲しかった。ラウンダーだから社内にいる時間は少ないが、声のトーン、笑顔、覇気が以前より格段に落ちている。憔悴しているとも取れる。
もう泣き顔は見たくない。しかし、どうやったら彼女の笑顔を取り戻せるのか。
こんな時、元上司、僅かながら尊敬している小畠ならどうするだろうか。人前でプライベートな事は話さないが、男同士だと色々話してくれた。女性と仲良くなりたかった和田は、一言一句漏らさず聞いていた。小畠がただ存在しているだけでモテているようで羨ましく感じていたが、実際は努力を怠らなかった人物だったから。
小畠の言葉を思い返す。
『やらぬ善よりやる偽善』
下心にしっかりと鍵をかけ、美希の笑顔を取り戻す。作戦は至って簡単、当たって砕けろ。砕けるのは思いだけ、砕けたらまた元に戻せば良い。小畠が直接脳内に話しかけてくる。師匠はアクティブなようでインドア派だったことは和田は知らない。この言葉の出どころも。
彼は人生で初めて、自分から誘うことを決心した。
「戻りましたー」
『お帰りなさーい』
以前、師匠がそうしたように和田も声に集中していた。これは教わっていないが、やる事も似てくるのか。
「ただいま戻りました」
『お帰りなさーい』
「お帰り美希ティー!ちょ、ちょっといいかな?」
「戻りました…は、はい?」
グイグイと言わんばかりにドアから離される。
「いや、あの、最近、どう?」
いきなり脱線してしまった。
「どう、と言われましても…普通?です」
「そう、それは良い事だ、うん」
「?」
「天気、良くなったね」
「は、はぁ、そうですね」
「春、もう春だね」
「まだ二月の上旬なのでそこまでは…」
美希が訝しんでいる。暦の上では立春を迎えたら春かもしれないが、実際問題として関東はまだ厳しい寒さで冬のままだ。
「…鶯谷で砂肝食う?だね」
「え…?」
「ほら、季節の、候の、アレの」
「えーと、黄鶯睍睆?」
「そう、それ!ナクヨウグイス!」
「それは平安京では…?」
小畠のように博学でも無ければ経験も無い、本当に当たって砕けてしまっている。
「そんなワケで、焼き鳥食べよう!」
「ど、どんなワケです?」
口から勢いで焼き鳥に誘ってはみたものの、あっさりと躱されてしまう。
「ウグイスは食べれないけど、焼き鳥は美味しい!」
「あの、先程から一体…?」
美希の不信感は最高潮に達している。ラウンドした際に使う説明資料を印刷して帰ろうと思っていたのに、入口で押し返され、給湯室の手前で意味不明なことを言われ続ければ、誰でもそうなるだろう。
「…やっぱり上手く行かないや」
「はい?」
和田は小畠みたくスマートに誘えない。聞き齧った程度の知識では到底敵わないことを痛感する。
何事も経験、場数を踏んで未来に生かす。師匠が背中を押してくれている気がする。
「もう、単刀直入に!焼き鳥食べたい!」
「は、はあ…。お食べになれば宜しいかと」
「そうじゃなくて、美希ティーと、さ!」
「私とですか?」
「美味しい焼き鳥屋さん見つけたんだ!」
「…食べられなくはないですが」
一緒に行くワケが見当たらなく戸惑っている。
「理由なんかないさ!焼き鳥が美味しいんだもん!」
美希はふと、いつかの火曜日を思い出す。ああ、この人は、泣いている私を見てしまったから、心配しているのかー。
好きになった人とは違う不器用な優しさ。和田なりの精一杯なのだろう。美希が小畠を酒宴に誘った日を思い出す。私もこんなふうだったのかな。
「…資料を印刷したら出ますけど?」
美希が大人の余裕を見せる。経験したからこそ答えられた。
「どれくらいかかるの?」
「15分程度で終わります」
「お、おけ!ボクも合わせるから!」
師匠と弟子はやることなす事、似てくるものだ。
『ガーッ…ガーッ…』
資料を印刷しながら考える。涙を見られた和田とこの後に食事に行く。
果たして良かったのだろうか。明日は誕生日休暇を取っている。小畠と過ごすために。しかし、誘いに行ったら拒絶された。
なんで?なんでなのだろう。私のどこがいけないんだろう?そんな事をもう何度も何度も繰り返し考えてしまう。答えなんか無いのに。
コピー機がステープルを留めてくれるので、出てきた資料を厚みが出ないように互い違いに重ねていく。こうすると留められている厚みが均一になり、より多く持ち運べる。小畠に教わったことだ。今日は30部なので10部ずつ向きを変える。
知らぬ間に身体が実行している。こんなことでも彼を思い出してしまう。
「終わったかな?」
デスクで書類を整えていたら、いつのまにか和田が後ろに居た。
「丁度、終わったところです」
いつかのやり取りを思いだす。また、か。もう止めよう。いつまでもこのままではダメだ。
「ボクも終わったよ。じゃあ行こうか!」
「…はい」
正直、楽しくないと美希は感じていた。あの時と比べてみるだけの余裕が出来ていたことに少し驚く。もう、大人になっていたんだな、と。




