#69 : 人間発電所
僅か一時間たらずで個室から出た二人を見て何かを察した奈央は、私情を排除しいつも通りに見送った。かける言葉が見つからなかった、が本音だろう。
あんなにも熱く燃え上がった二人は全くの他人のように別々に帰って行く。交わす言葉も、おやすみのキスも無く。
瑠海はいつもタクシーを利用する。酔客にナンパされるのが、スカウトが、キャッチ達が鬱陶しいから。彼女は無言で乗り込み、彼は無言でテールランプを見つめる。赤い光が見えなくなるまで、ずっと。もう行ってしまうのか。まだ夜は明けていないのに。
形容し難い気持ちが鳩尾辺りにどんよりと留まり、このまま帰る気になれなく、彼はまたも軽率な行動をとってしまった。
「こんばんわー!ってあけおめですね!」
「ああ、あけましておめでとう。今年も宜しく」
「こちらこそ!月曜なんて珍しい!ってご飯食べました?元気ないですよー?」
そうか、元気が欲しくて沙埜の店へとハシゴしたのかと思う。意識が無いままココに来ていた。まるで夢遊病だ。
「…なんか、貰おうかな」
使わなかったパソコンが入った鞄を下ろし、コートを脱ぎながらお願いする。
「好きなものなんでしたっけ?」
唐突に聞かれて気がついたが、特に好物と言うものは無かった。強いて言うなら『美味いもの』だ。
「今日は良い牡蠣が入ったのでどうです?」
「じゃあ、お願いしようかな」
話しながらすでに彼の分と沙埜の分のビールがカウンターに用意されている。
「あけおめことよろー!」
カチン、とグラスと瓶ビールを合わせる。先程飲んだビールを忘れてしまう味わいだった。
「オススメは生ですけど食べれますか?」
「…そうだね。折角だし生で貰おうかな」
覇気の無い声でため息のようにそう伝えると、スッと沙埜が彼の耳元に顔を近づけ小声で囁く。
「…ナマの方が精力、つきますよ」
「ブフォッ!」
「あはははー!ホントーですよ!」
笑いながら伝票を持って厨房へと入って行った。彼はまだ咽せている。
天真爛漫な沙埜といると先程までの気持ちが洗われるようだった。鳩尾にいた気持ちは徐々に薄まっていく。
「お待たせです!殻に気をつけて下さいね!」
「ありがとう。いただきます」
殻に口をつけ啜るように食べる。海のミルクと言われる所以が口内に広がる。しっかりと海を感じるのにクリーミーな不思議な食べ物。一つ食べるだけで殆どの栄養素が摂取出来てしまう。海に生息しているのにこれだけの味わいと栄養を溜め込めるのはなぜなのか。
…海と言う単語から先ほどまで一緒にいた人物を連想してしまう。
『瑠璃色の海で、瑠海』
頭の中であの日の事が再生される。あの眼差しはあの時からだったのに、それなのに、もう。
「ツ…、やっちまった」
ボンヤリしながら食べたので牡蠣殻で唇の端を薄く切ってしまった。ポタ、と手の甲に血が落ちる。
「あぁ〜!気をつけてって言ったのに〜!」
沙埜が慌ててティッシュを持ってくる。
「ごめんね。ありがとう」
「謝る事じゃ無いです!でも牡蠣をナメてたのはダメです!」
瑠海と同じ事で怒られる。もっともだ。つい先程も舐めてたせいで最悪な状況を作ってきたばかりなのに。彼の謝り癖は外ヅラを守るために無意識に口から出てしまう。
「大丈夫ですかぁ?何か今日は一段とヘンですよ?」
「だ、大丈夫。って俺、いつもヘンなの?」
心外だと言わんばかりに聞き返す。美希が以前に似たような心境で聞き返した事を彼はもう忘れている。
「お一人でウチに通う人なんていないですモン。大抵、会社の飲み会とか、大学生にカップル、フリンとか」
無邪気に語るが最後の関係を見抜くチカラはあるようだ。
「初めての時も世界中の不幸を一人で背負ったような顔してたから、つい声かけちゃいましたけど」
そう言ってメキシコ名産の瓶ビールを口にする。
小畠の娘と言っても過言では無い程、歳が離れた沙埜にまで見抜かれ心配されていたなんて。
「こんな性格だからお客さんにすぐ声かけちゃうんですけど、そうじゃ無くてもあの小畠さん見てたら心配になりますよ」
そこまでだったとは自分でも気づかなかった。
「ホントはラストオーダーも終わってたから次の機会に、と言うつもりだったんですけど、なんて言うんだろう?捨てられた子犬?みたいな目をしてたからほっとけなくて」
出会った時は38になる年だ。子犬と言う表現が沙埜の中では正しいのだろうが、世間には心ぶれた中年に映っただろう。
「…疲れてたんだよ。なにもかもに」
痛みは無いがまだ少し血が滲む唇でビールをあおる。
「前に働いてお店のオジ様達の方がもっと疲れてましたよ!まだまだ若いんですから!あ、私が言うと説得力無い!」
釣られて彼も破顔する。そして三人と飲んだ日の事を思い出す。酔った沙埜に抱きつかれた事も。
「…いつもありがとう。また元気もらっちゃったよ」
「またっていつあげましたっけ?高いですよ?」
そう言いながらちゃっかりと彼と自分のおかわりを用意する。
沙埜以外が同様の事をしたら彼は不快に思う。図々しい店員だと。同じ接客業をしていた彼は弁える事が美徳だと思っている。似た感覚を持つ奈央は彼のお気に入りだ。しかし、沙埜には自分の美徳を当て嵌めない。対価以上のモノを貰っているから。
「あ、思い出した。瑠海姉ェと飲む前だ。おんなじコト言ってましたよね?」
「…あの時はちゃんと言えなかったけど、そうだよ。ココに通うのは沙埜ちゃんに会って癒されたい、元気を貰いたいから。食事も酒も美味くて、感謝しか無いよ。こんなにも可愛い沙埜ちゃんにいつも明るく照らしてもらえるなんて」
『可愛い』と言う単語を滅多に口にしない彼が伏し目がちに伝えたのは照れ隠しもあったからなのだが。
「やだ…。本気にしちゃうじゃないですか」
「え?」
顔を上げると沙埜の顔が紅潮している。酒のせいでは無いのは何度も一緒に飲んでる彼ならわかっている。
「んんっ!」
わざとらしく咳払いをし、大きく見せるように両手を腰に当て胸を張る。
「これでもいちおー店長ですからね。バイトのコとかには鬼てんちょー扱いされてるのに可愛いだなんて。何年振りに言われたんだろ!」
瓶ビールをラッパ飲みする沙埜は、鈍感な彼から見ても照れている事は明白だった。
「とにかく、ちゃんと食べて、ちゃんと休んで下さい!いつも他人を優先して自分を削っちゃうんですから!」
瑠海よりも、美希よりも下の子に説教される。やっぱりココに来て正解だった。あのまま家に帰っていたら気持ちを切り替えられず引きずっていただろう。
「もう言っちゃったから今日も言うよ。いつもありがとう」
「…ナニも出ないですからね!」
そう言うとそそくさと三本目を取り出す。素直なのかそうで無いのか。