#68 : 愛は沈黙
「謝って欲しくて呼んだのでは無いの。貴方を心配しているから。それは理解して」
「あ、ああ。本当に、ごめん」
「もう謝らないで」
御赦しが出たと思って少し安堵したがそれは間違いだった。
「貴方が謝るのは私の機嫌を直すため。この場を収めるために口にしているだけ。そんな謝罪なんか不要だわ」
Ponte Vecchioで脅した時と同じ気迫がある。ビールを飲んでいないのに小畠の喉がゴクリと鳴った。
「本当に謝る気があるなら最初からそんな行動をしない。少し考えればわかることよ。私達は大人なのだから」
瑠海の切長な双眸は小畠を捕らえて離さない。獲物を狩る捕食者の目、死刑を宣告する裁判長の目、どちらも生命を断つ鋭さがあり貫かれる。
「私は心配している。この意味が理解できている?」
「お、俺達の関係が、ってこと?」
「…私は貴方となら誰に何と言われようと構わない。会社は貴方と私のことなど関心が無い。貴方が思うほど世間は他人の色恋に興味が無いし、貴方の恋愛観で人事は評価をつけない」
言われてみれば至極当たり前だ。今まで彼がそう思い込み、意地を張ってきただけの話なのだ。
「私達は大人だから、経験してきたからわかる。良い思いも嫌な思いもたくさん経験してきた。貴方は嫌な思いの方が大きかった。もうあんな思いをしたくないから自分で心に鍵をかけた。そうでしょう?」
「…17歳で、ね」
「可哀想に。そんな子供の頃から貴方は自分で自分を縛りつけて生きてきたのよ。誰も悪く無いのに自ら罰を欲して鎖を巻きつける。そうしないと相手が救われないと思っている。自分が悪者になれば誰も傷つかずに済むと思って今も生きている」
短い付き合いなのに彼の行動原理も、過去も遡って見透かされる。
「あの娘はあの時の貴方と同じよ。違うのは自分の方向にしか矢印が向いてないってこと」
彼女の言葉に血の気が引いていくのがわかる。
「あの娘は貴方が好きだから抱かれたのでは無く、自分の為に貴方に抱かせたのよ」
ビールを半分も飲んでいないのにクラクラする。
「なぜ私があんな事をしたか。警告をしたのよ。二人に対して、ね」
ぬるく気が抜けたビールを奪って一気に飲み干す。
ガラッ、と音を立てて引き戸を開け、奈央が通った所を捕まえる。
「仕事の話しは終わったわ。ビールをお願い」
「…承りました」
奈央の方が瑠海と付き合いが長い。彼は彼女の機嫌が悪いことを入店した時から気づいていた。だから個室を用意した。話しやすいようにと。今回ばかりは彼の配慮が小畠に届かなかったようだ。
グラスを掴むとまたも一気に飲み干す。湧き上がる感情を抑え込む様にも、怒りの矛先とも取れる。
「私の警告を無視した。いえ、気づくことすら出来なかった。あの娘は必ず脅威になる。貴方に恋している自分に酔ってるだけだから。距離を置こうとすればするほど抵抗する。それが一番心配していること」
観察力で言ったら莉加も持ち合わせていると評価したが瑠海はその数段上を行く。
彼が飲む予定だったビールを再び奪う。
「私は社内でも釘を刺した。これは逆効果だったようね。私の敗北よ。舐めていたわ」
瑠海と結ばれた翌日に良かれと思って休日出勤し、あまりの仕事量に一旦カフェに逃げ出した事を思い出す。経験が有りながらも仕事を舐めていた。
「…あの娘はまだ失敗も敗北もしていないのに最初から貴方を手にしてしまった。もう手放せないし、他のモノと入れ替えることなど出来ない」
残りのビールも飲み干されていく。ボタンを押せばいいのに先程と同じように奈央にビールを頼む。
「私は悲しかったし寂しくなった。でもコレは私が勝手に貴方を想ったから。私のワガママよ」
少し気持ちが落ち着いたようで三杯目は普通に飲んでいる。彼は珍しくまだ二口程度しか飲んでいない。
「なぜ、なぜ貴方なの?自分の想いを満たすだけに利用された。私の気持ちを受け止めてくれた貴方を」
Giuliettaがバルコニーから囁くように空に向かって問いかける。
「最後通告よ。コレ以上あの娘に深入りしないで。聡明な貴方ならわかるでしょう?私のワガママだけで無いってことを」
押し黙って聴くしか出来なかったRomeoがやっと返事をする。
「…わかった。受け止めるよ」
そう言うとやっとビールを飲み干した。今の言葉の意味を自分にわからせるように。
「でも勘違いしないで。私達は恋人ではない」
腹落ちさせた想いが逆流しそうになる。
「貴方のことは好きよ。だからこそ」
自分にも言い聞かすように言葉を止め、残りのビールを飲み干す。
「…私で縛り付けたく無い。貴方の魅力はいつでも自由で、自ら困難に立ち向かい打ち勝って行く姿。この先、機嫌を伺われながら私の横にいられるのはごめんだわ」
彼女はこの場で見せてしまった感情を懸念したのだろう。今回の事で彼女の顔色を伺うようになる。そうなれば彼の魅力は半減以下だ。もうそんな相手に抱かれたくも口付けもして欲しく無い。
「ワガママを聞いてくれてありがとう。もう余計な手出しはしない。あの娘を通して貴方を意識しない」
空になったグラスを見つめる姿は、以前とは違う憂いを帯びていた。大きな哀しみに暮れている。
一度は結ばれた二人だが、彼の『軽率な』行動で引き離されてしまった。




