#66 : 治にいて乱を忘れ る
「小畠課長、お時間宜しいでしょうか」
一課のデスク周りが少しザワつく。社内でも特段に目を惹く美人が二課からやって来たのだ。
この機会に仲良くなりたいと思う男性社員は多かったが、簡単に靡かないと言う彼女の雰囲気が声をかける事を、視線を送る事さえ阻ませる。
「あ、ああ、どうぞ」
仕事始めの日に簡単な挨拶をした程度で、あの日以来久しぶりに瑠海と話すとなると緊張する。しかも社内で。
「新規案件の与信についてなのですが、ご相談させて頂きたい事がありまして」
「よ、与信?二課なら田口の方が?」
何で俺に?と困惑している。この比喩に気づかないのか、フリなのか。
「元のルートセールスが一課でして」
相手は田口ではない事をわからせる為に続ける。
「今後、重要な案件となりそうですので、まずは小畠課長にと思いまして」
「そ、そうですか。で、どのような?」
「与信ですのでこの場では。後ほどお時間を頂戴出来ればと存じます」
「あ、ああ、はい。今日は一課の週次会議があるので、明日でも大丈夫ですか?」
「早急に確認したいので、出来れば本日中にお願いしたいのですが」
「そ、そうですか…」
「機密保持の為、出来ればお人払いもお願いいたします」
そう言うとフセンを小畠に渡す。
「…私の携帯です。会議後、ご連絡お待ちしております。宜しくお願い致します」
スッ、と瑠海が小畠のデスクから立ち去る。いつもの香りを残して。
「課長、お堅いと思ってましたが隅に置けませんな!」
歳上の部下がからかってくる。
「馬鹿な事を言っちゃあいけませんよ。ほれ、仕事仕事」
自分にも言い聞かせるように場を収めた。内心、心臓が破裂しそうだったが、莉加の時に鍛えたブレーキで威厳だけは取り繕う。フセンを無くさないように手帳にしっかりと貼り付けて閉じる。
二課の会議を小馬鹿にしていたが、今日の彼はポンコツもいいとこだった。瑠海が気になって気になって会議どころではない。幸い、部下の中で彼女との関係を気づいているものはいなさそうだ。
会議の報告で販促品が無事に各店に着いていたのだけは安心した。これで届いていないとなったら、あんな事をしてまで作業した彼も美希も報われない。
散会となり各々が帰るか残るか考えながらデスクへと戻る。彼はノートパソコンを小脇に抱えたまま給湯室へと歩みを進めた。廊下に面しているドアの無い小部屋、周りを見渡す事も人の気配もわかり、内緒話をするのに都合が良い。美希をここに誘い出したのもその理由からだ。手帳を開いて間違え無いように番号をタップする。
「もしもし?江口さん?」
「瑠海。やっとかけてきた」
「いやいや、まだ社内だし、コレ社用?」
「もう退社しているわ。私のよ」
一杯食わされた。業務端末なら名刺に記載されている。名刺を渡せば済むのに、わざわざフセンに書いて寄越したのはこのためだったのか。
瑠海は課が違うため、彼はいつもの自己防衛で敢えて番号を聞いていなかった。莉加は研修という名目があったから交換したが、彼にとっては余程のことだ。
「で、与信の件だけど、どうしたの?」
「電話で話す事じゃ無いわ。奈央の所で待ってるからすぐに来て」
「そんなに重要な案件なの?」
「来れば話すわ。お互い時間は限られている。早く来てね」
そう言うと電話を切った。
ため息が出たが、仕事に託けて瑠海から連絡を貰えた事は正直嬉しい。あの日からキッカケが無く、このままずっと他人のフリを続けるのかと悩んでいたが今日で解消されそうだ。
取引先との与信の話なら法務部に相談すれば良いが、派遣社員となると話は別だ。正社員を通さないと稟議書すら書けない。一応パソコンを持って行く事にする。
「お疲れしたー」
「月曜に課長が定時上がり!?そりゃ雪も降る訳だ」
「お持ち帰りだよ。雪は止んだとは言え影響あるからね。君達も今日は早めに帰るように」
「うぃーすっ!」
念を押すのが半分、自分の言い訳の為に半分利用した。彼等にはいつも心配してくれる部下思いの優しい上司として映っている。下心しかないただの助平とも知らずに。
いつもなら歩いて行くが足元が悪い為タクシーに乗る。ワンメーターそこそこで乗車するのに気が引けるが致し方ない。その代わり深夜で無ければ千円に満たない金額なのでお釣りはチップで渡している。
「遅ればせながら新年おめでとうございます。本年も宜しくお願い申し上げます。奥をご用意しております」
「こちらこそ宜しくお願いします。ありがとう」
奈央はいつも丁寧で安心感がある。今年も通ってしまうのだろう。沙埜がヤキモチ妬かないように頻度は合わせておかなければ。
今年は春から良いこと続きだと思い、意気揚々と個室へ向かう。
『コンコン』
個室の引き戸を曲げた人差し指でノックする。
「開いているわ」
「お待たせ。ココに鍵は無いだろうよ」
瑠海の冗談に付き合ったのだがー
「鍵が無いのは誰かさんの貞操かも」
意味深な言葉を呟きストローでウーロン茶を飲む。
「珍しいね、飲んで無いの?」
「仕事の話よ。お酒の勢いだと思われたくない」
なんだか拗ねているような、怒っているような感じを受けるが、彼はまだ理解出来ていない。
「失礼します」
奈央が小畠のビールを運んできた。
「あ、ありがとう。お、俺にもウーロン茶もらえるかな?」
「かしこまりまー」
「必要無いわ」
瑠海が二人の会話を遮った。
「ビール程度で酔わないでしょ」
そう言うと目線だけで奈央を下がらせた。
「お、お疲れさま」
いつもなら小気味良い音を立ててグラスを合わせるのに、瑠海は無視して彼の瞳をじっと見ている。
仕事終わり、しかも超絶美人の瑠海と飲めるビールは至福の味なのに、今日は一段と辛口でドライな味がする。