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#50 : O mio amante caro.

私の愛しき人よ。

 小畠は頭の中が真っ白になっていた。破滅を感じた、がより近いかも知れない。

 派遣会社からリソースして貰っている人材と唇を重ねている。往来が無い夜中とは言え道端で。


「…な、ななな」

 憂いの目で彼を見つめ、両手で彼の顔を包みもう一度、官能的で情熱を彷彿とさせる艶やかなカーマイン・レッドの唇で彼の言葉を(さえぎ)る。

「貴方が帰る、と言うならあの橋から身投げするわ」

 瑠海の左手は彼の右の頬に添えたまま、右手で橋を指差す。

「あの橋は、私のPonte(ポンテ) Vecchio(ヴェッキオ)

 呆然としながら瑠海(ラウレッタ)独唱曲(アリエッタ)に耳を傾けた。


Porta(ポルタ) Rossa(ロッサ)に指輪を買いに行きたいの。それを許してくれないのなら、こんな命はもう不要だわ」

 本来なら父親に向けられた脅し文句だが、今夜は彼に向けられている。

「ど、どうして…」

『こんな事』と言いそうだったが、瑠海の唇に対して不敬かも知れない、そう思って口に出すのを躊躇(ためら)った。


「…貴方だけだった。私の思いに気づかないフリをする。それなのに優しくする。でも、誰にでもこんな事をする女だと思って(さげす)んでいる」

「そ、そんな風には思っていない」

「ならどうして?こんなに貴方が好きだと言っているのに、いつも目を背けてばかり…」

 突然の告白に心臓が跳ね上がりそうになる。瑠海の手は頬に添えられたままで小畠が口を開く。


()()大井さんの会社から――」

()()!」

「――瑠海、は、大井さんの会社から派遣されている人材だ。派遣先の上席とこんな事があったなんて知れたら」

「私が口外しなければ良い。貴方も同じ事。二人で秘密を共有するだけ」

 瑠海が添えた左手の人差し指で彼の唇をなぞる。

「そんなに怖い?会社が、私と秘密を持つ事が」

 見透かされている。いつだったか乙葉にも看破されていた事が頭をよぎる。


 他人から見ると小畠と言う男はわかりやすかった。

 常に自分の範囲の中でしか考えられない保守的な男。そのくせ範囲外の事を何でも押し付けられ、何でも受けて勝手に自滅していく。

 裏で彼にシンパシーを感じる者達が陰日向にフォローし支えている事も、慕っている事も知らない。能天気な振る舞いをしているだけで実質は問題を直視する事を恐れ、道化を演じているに過ぎない。それが処世術として染み付いている事も、そんな彼に歯痒く思う者がいる事も。


「私は秘密を守る。貴方も秘密を守る。それだけでいいの。何も怖くない」

 そう言って三度(みたび)、熱を帯びた薔薇の花びらで誓いのキスをする。今度は彼にもわかりやすいようにゆっくりと愛を込め、優しく、慈しむように。


 彼は自分で考える事が出来なくなっていた。この事が露呈すれば破滅の一途だ。今まで苦労してやって来た事が全て水の泡となる。また()()()()に逆戻りになってしまう――。

 わかっていながら拒む事も出来なかった。瑠海の眼差しが本気だから。ここで拒めば本当にアルノ川へと身投げをするだろう。若さと情熱がそうさせると確信していた。

 彼女の命とこれから先の彼の人生を秤にかける事は出来ないが、今夜は瑠海が賭した思いが勝った。


 ”自己責任と言う便利な言葉で上手く切り抜ければ良い”、そんな事を誰かに言っていた気がする。

 右に行けば駅、左に向かえば海沿いの街並み。酒の力もあったが、どの様な経緯で()()にいるのか彼は思い出せなかった。


 二人は橋を渡った海沿いの街のホテルに居た。


 エレベーターの中でも瑠海は彼に誓いのキスを求めた。

 口付けの嵐は部屋に入っても降り注ぎ激しさを増す。唇と唇を咥えあい、子犬がミルクを飲む様な音を立てて柔らかく甘い舌を絡めると、ゆっくりと顔を離し見つめ合い、また唇を重ねながら身体を(まさぐ)り合う。

 髪の毛すら入り込む隙間もなく強く抱きしめると、タクシーで顔を埋めた胸から鼓動を感じる。熱くて、早い。

 玄関で収拾がつかなくなりそうなので、瑠海(クイーン)をお姫様の様に抱える。抱えられながらも瑠海からの愛撫は止まらない。心の底から彼を求めていた。あの面接の時からずっと。


 ベッドに瑠海を優しく降すと、彼の首を抱える様にしてベッドへ引き摺り込む。

 唇を重ね合うだけで満たされる思いだったが、瑠海はそれ以上の事を求めていた。


 彼は普段の温厚さをかなぐり捨てるようにジャケットを放り投げ、口づけをしたまま慣れた手つきでブラウスのボタンを外す。野生(おとこ)を剥き出した彼に瑠海は興奮を抑えられなかった。


 あの橋を渡った二人に、誰にも言えない秘密ができた。

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