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#40 : これからも

 珍しく乙葉の方が先に店に来ていた。グラスの水の量が半分ほど減っていたことから15分ほど待たせた様だ。

「遅くなってごめんね」

「急に呼んだんだもの、気にしてないわよ」

「随分早かったね?」

「今の会社フレックス導入してるし、今日が誕生日って言ってたら帰らされた」

 二人して顔を見合わせて笑い合う。小畠の会社にいた頃も笑っていたが、どこか陰がある笑い方だった。勿論、今の屈託のない笑顔の方がはるは好きだ。


 embrasser(このお店)は乙葉の家にはるが泊まりに来る様になり、たまには外で食べようかと散策している時に見つけたレストランだ。正確にはビストロ、フランスの小料理だ。そして、小畠の会社の中途採用が決まった時にお祝いをした特別なお店。

 名前の通り、店の通路をすれ違う時にキスをしてしまいそうなくらい狭いが、隠れ家的な要素と品の良い客層で街の名店として知られている。


 二階建ての建物の入り口はとても狭く、カウンター兼キッチン兼レジ、一階の席は横一例に4席あり、カウンターをL字に進むと急勾配の階段へと繋がっている。はるは乙葉から連絡を受けた際、すぐに二階の窓際を抑えた。春先から夏場までは一階のテラス席が、秋口から冬場はストーブが置かれた二階の半バルコニーが定位置だった。店のマスターも予約が入って無ければ優先してくれるし、時間の都合で場所を変えてくれたりする。都会の冷たさに打ちひしがれていた二人にマスターの優しさは暖炉の様に暖かかった。


 普段はハウスワインから始めるが、恋人の誕生日とあらばシャンパンをオーダーする。スパークリングでなくシャンパーニュ地方で採れたものだ。とはいえ二人ともそこまで強くないのでハーフ・ボトルで乾杯をする。


『シュッ』

 マスターがサロンを使って音を立てない様に開けてくれる。フルート型のシャンパングラスの底から、産まれたての泡たちが嬉しそうにグラスを駆け上がる。乙葉がグラスを寝かせる様に倒し、浮き足立つ泡を優しくスワリングする。グラスの内側にねっとりと絡む様に、シャンパンの香りが広がる。

 はるは乙葉の所作の一つ一つが好きだった。

 ステムを持つ指のしなやかさ、グラスに痕跡を残さない飲み方、音を立てずにテーブルにグラスを置く姿。

 はるだってご多分に漏れていない。はるがそこそこの人間力なら乙葉とこれ以上の事は無かっただろう。

 シャンパンとともにアミューズが運ばれる。今やフランス料理の代表格とも言えるし、その店の顔を示す位置にあるが、元は日本料理の突き出しだった、とは蘊蓄帝王の小畠も知らないだろう。


 オードブルが終わる頃、ハーフボトルの中身も無くなっていた。ポワソンに合うワインを頼むと、スパークリングがやってきた。先程の産まれたての荒々しさと瑞々しさとは真逆の、シルクの様に滑らかな泡と清流の様な喉越しにため息が出る。魚料理に困ったらスパークリング、と言われるが、こんなにもハマるマリアージュがあったなんて。これだからこのお店に通うのを辞められなくなる。

 さっぱりとしたミント・ソルベの後でヴィヤンドゥが運ばれる。ゆらめく蝋燭の光に合わせる様にボルドーのワインを頼む。

 デセールが運ばれる頃には二人とも夢見心地で天上界にいた。今日の主役は乙葉だが、本人も気にしていないし、はるが楽しんでくれる事が何よりのプレゼントだ。

 はるが乙葉に訪ねる。

「プレゼント、本当に良いの?」

「毎年言ってるけど、はるが一緒にいてくれるだけで良いの。それ以上望んだら贅沢だわ」

「相変わらずストイックなんだから」

 本音はたくさんあるだろう。しかし今の二人では叶える事ができない夢ばかりだし、何かをあきらめらなければならない事も知っていた。それがお互いの存在となる事も。

 乙葉が、はるがいない人生なんてéternel fantoche de rêve、生きている価値が無い。


 テーブルの上でゆらめく蝋燭の炎がチリチリと音を立てて小さくなっている。

 乙葉がそっとはるの左手に手を伸ばす。

「私の望みはこれからもずっと同じ。はると一緒にいる事。特別な事では無い。この国で息苦しいなら外に出れば良いだけ。外に出るのは逃げることではなく、新しい自分に出会う為。そう学んだし、はるが教えてくれた。ありがとう」

 指と指を絡ませると、乙葉の体温が掌から伝わってくる。柔らかく、温かく、優しさに包まれている。

「わたしも乙葉とずっと一緒にいるの。世界が滅びても二人で創れば良いだけのこと。何も怖くなんか無いわ」

 そういいながら、片手でバッグから器用にリップを取り出した。

「私と色違いだよ。プラム・ベージュ。秋色使いにもぴったりだよ」

 イタズラっぽく笑いかけるはるに、乙葉はこの場で抱きしめたくなった。


「乙葉ちゃん、お誕生日おめでとう」

 マスターがデセールとは別に、はるが急遽お願いしたケーキを運んでくる。コースの後なので大きさは控えめだがサプライズの嬉しさは特大だ。

「はい、あーん」

「同じケーキじゃない」

「はるちゃんの愛が入っているのだよ!ほら落ちちゃう!」

 乙葉が笑いながらはるの差し出すケーキを食べる。もう人の目なんか気にしなくなっていた自分に驚く。はるの前でも飾らなくて良い事に。これからも。

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