#30 : 馳せる思い。
「いただきます」
小畠と同じ色のお猪口を目線まで上げ、仰け反る様に瑠海が冷酒を飲む。
日本酒が通るたびに上下する喉、ブラウスのボタンなど抑止力にならない淫靡な胸元、名立たる彫刻家でも彫る事を躊躇う切長の目、雨に打たれた烏羽を思わせるしっとりとした黒髪、冷酒に濡れて生めく唇、ソレを舐め取る妖しい舌先。
どれをとっても美希は勝てる気がしなかった。
(何?何なのこの女!?)
美希は軽くパニックを起こしかけていた。
一人置き去りにされ、彼と瑠海の差しつ差されつをただ見ている事しか出来なかった。
---ヤバい。何がって?江口と四ツ谷に囲まれて酒を飲んでいる。
ここに麻生がいたらthree of a kind.キッカーは俺39歳で3と9だ。マークはクラブだから最弱。
彼女達の数字?大きさで言ったら、
四ツ谷 > 江口 > 麻生 だ。
本当にヤバい。珍しく酔いそうだ。江口のせいか?きをたしかに。
「四ツ谷さん、大丈夫?」
呆気に取られてるような顔つきに問いかける。
「は、はい。大丈夫です…」
返事に元気が無いな。お水貰うか。
すると---
「奈央。お水をお願い」
江口が席を立ち、直接店長にお願いしている。立ち上がる瞬間、俺の肩に手を置いて。
…あちゃー。四ツ谷に見られたな。こんな俺でも一応は上長だ。威厳とか無くなるから人目は気にして頂きたかったな。嫌な気持ちはしないが。何事も無かったように日本酒を飲む。
「小畠さん、コレで?」
江口が徳利に残った日本酒を注ぎながら聞いてくる。時計は二十一時を十分ほど回っている。四十分弱で日本酒を四合も開けてしまった。後でくるぞ、コレは。
江口は飲ませるのが上手いし、ちゃんと自分も飲む。顔色一つ変えずに。飲み慣れてるな。
「そうだね。お会計をお願いしようか」
っと、四ツ谷に聞いて無かった。
「四ツ谷さんは何かいる?」
「だ、大丈夫です。ありがとうございます」
うむ。江口のオーラに当てられてしまっている様だ。
俺のみっとも無い姿も見てしまっているからな。
「小畠さん。いつもありがとうございます」
店長が会計を持ってくる。いつも現金払いだが金銭のやり取りが面倒なのでクレカを店長に渡す。
「お預かり致します」
スーと引き戸が音を立てずに閉まる。
そう言えば…
「江口さんと店長って付き合い長いんだっけ?」
先程の話しと二人のやり取りからして、近しい間柄なのだろうけど。
「前に働いていたお店のコで。独立してこのお店開いたんです」
前に働いていたお店のコ?それに”あのコ”って…
「お待たせ致しました。毎度ご利用頂きありがとうございます」
店長がカードと明細を持ってきた。
「こちらこそ。ご馳走様でした」
今度は江口のタイミングを測った様に現れた。
「私もご馳走になりました」
麻生とは違った切長で大きな目が俺を見つめ、お猪口を目前に差し出す。俺も残りをクイと飲み干した。
店長は音も無く姿を消していた。
「ちゃんとお水飲んだ?」
「はい…。ありがとうございます」
江口が来てからオウムの様に同じ言葉を呟く四ツ谷。大丈夫かな。色々と。
さて、帰りますか。店を出て江口は近い方の駅なのでここで別れる。
「今度また、ゆっくりと」
…艶めいた言葉と残り香のお土産付きだ。ごくり。ちゃんと四ツ谷を駅まで送って行かねば。
---小畠と酒席に来るのは初めてだった。勿論、瑠海とも。
あれだけ飲んでおい二人とも酔って無い事にも驚かされた。どうしたら素面であんな事が出来るのか。
駅までの道のりは行きとは違う空気だった。流石の美希でもこられくらいは感じるし、読む事もできた。
無下に彼に生返事をすれば彼に嫌な思いをさせてしまうと考え直し、カラ元気でしっかりと返事をした。
今日だけは彼の家が逆方向で良かったと思う。あのまま瑠海に着いて行った方が一駅分だけ早く帰れたが、一緒に帰るなんて出来なかった。
出勤時も混んでいるがこんな遅い時間でも混雑している電車内に驚き、揺られながら彼らの様な大人は沢山いるのかと遠い目で記憶を辿った。
(それにしても長い一日だった…)
午前中に回れる店舗をラウンドし、お昼にシアトル・カフェで日報を作り、会社沿線の店舗に足を運び研修参加。
研修後に笑顔で莉加を送り出し、浮ついていた気持ちで食事へと誘った…までは良かったのだが、実力行使の激しい瑠海が現れた。
素面で彼の手を握り、莉加を出し抜いて酒宴に誘った事も併せると、美希も中々の実力を行使しているのだが、当の本人は気づいていない。瑠海からの意趣返しの本意にも。
(大人の女性って皆ああなのかな…)
大人ぶってはみたもののまだまだお子様の美希は、瑠海の行動を思い出すと、嬉しいはずの一日が悲しくなってしまいそうで、天を見上げ月に思いを馳せながら帰路に着いた。




