#192 : 神様からの贈り物
「た・ま・る・か……!ズっちゃんがこの曲を弾けるなんて!」
莉ったんの瞳はそれはそれは大きく見開かれ、満天の星が散りばめられている。
「あの日、莉ったんの歌声が頭から離れなくてさ。耳コピしたんだ」
「耳コピ?」
「音を聞いて拾っていく作業だよ。楽譜は俺の頭の中ってことさ」
「随分とおっこうなことをするもんじゃのう?」
「お香?」
「おっこう、面倒くさいじゃ!」
確かに耳コピは面倒くさい。相対音感の俺は特に。この音が合っているか、どれくらいズレているか探りながらだから時間がかかる。
絶対音感を持っている人は一度聞いただけで弾けたり、楽譜を見ただけで歌えたりする。神様からの『贈り物』なのだろうな。
「莉ったんは歌うのが好きなのか?」
「カラオケくらいしか遊べるモンがなかったからのう。山で大声で歌っても近所迷惑にならんかったしな」
本を読んでばかりいた学生時代、街まで出張らなければ遊べるところが無かったと言っていたし、遊べるところは限られていたのだろう。隣の家まで自転車を使うくらい離れていたなら迷惑にはならんな。
「小学校までは合唱部やった。中学の途中で辞めたけん、そこからは何もしちょらんが」
「辞めちゃったの?」
「いじめにあってのう。そらあことうたがよ」
「孤島?」
「ことう、堪える、っちゅう意味じゃ♪」
軽やかに話してはいるが内容は軽くなさそうだ。触れてはいけない部分に触ってしまったような感覚……。
「中学生の時になあ、輪姦されたんじゃ」
あっけらかんと話す彼女の言葉が鉛のようにドロドロと胃袋に流れ込んでくる。
「好いちょった先輩に呼び出されて家まで行ったら、酒をこじゃんと飲まされてのう。気が付いたら裸で納屋に放くっちょった」
先ほどの感覚が確信に変わる。差し入れてもらったケーキとコーヒーがこみ上げてくる。得も言われぬ感情。
「田舎やけ話が回るんは早い。そっから学校にも行かんくなったが。やけ、合唱部もそこまでじゃ」
PC研修の時に碁石を打つようにエンターキーを押したみたく、”この話はここまで”と言わんばかりの圧力がこもる。森も似たようなことを言っていた。娯楽が無いと人を攻撃するのか?理不尽で不条理過ぎる。
「高校のバイト先に元財閥の会長の孫がおってな。それが元旦那じゃ。遊び惚けちょったから丁稚奉公に出されとったのに、オラに手を出して孕ませた。一族はそらぁ怒り心頭じゃった。どこの馬の骨ともわからん小娘を由緒ある一族に加えるなんて出来んかったんがやろう。子供の進学を理由に東京に逃げるように引っ越してきたんじゃ」
子供の年齢と時系列が合っている。彼女の苗字が著名な資産家であることも合点がいく。財閥は戦後に解体されたと言え絶大な力を持っている。一族の子孫たちは地元に根強く残り、権力を振りかざす。
「ズっちゃん?」
あまりにもヘビーな彼女の過去に押し黙ってしまう。出自に関して劣等感や他人に羨望していたのがちっぽけに感じる。莉ったんの心の傷は”助けて”を言い出せずに自傷行為として表れたのだろう。
「ズっちゃん?どいたよ?」
莉ったんの過去に触れたせいなのか、そんな過去を知らずに彼女と接してきたことに得も言われぬ気持ちがこみ上げ、意図せず涙が零れた。
「おいよー!どいたちズっちゃんが泣くんがよ!?」
「……ごめん」
言葉が出なかった。なんて声をかけたら良いんだ?辛い思いを沢山してきてなお、懸命に生きようとする彼女。少しイヤな気持ちになったくらいで死にたくなる俺。比べたって比較にならないのは解ってはいるが、気持ちが追い付かない。
「ズっちゃんはほんに純粋なお人やなあ?莉ったんがウソを吐いてるとは思わんのかよ?」
ウソだとしたらもっと先に吐いているだろう。それこそ火曜会の初め辺りなら四ツ谷も引き離せたし、瑠海の存在に気付いた時もけん制できる。
「そらあ何度も死のうと思うたし、躊躇い傷もこじゃんとある。ODでICUに運ばれたこともある。けどな、子供が出来てから何があっても生きることにしたんじゃ。それからは幸せでいっぱいながや!やから泣くことは無いんじゃ!」
本心なのか、俺を慰めようとしているのか判断が付かない。ギターを肩からかけたまま泣いている俺を椅子に座らせる。茫然自失、形容するならそんな感じだ。
「ズっちゃん♡莉ったんはズっちゃんと出会えて幸せなんじゃ♪」
優しく彼女の胸に抱かれる。母親が子供をあやすように。
「ズっちゃんかて悲しいことがあったろうもん、莉ったんが癒っちゅうからな♡」
俺が莉ったんを慰めるはずなのに……。沙埜ちゃんに慰められた時とは違う涙。莉ったんの辛い過去、一瞬でも”軽薄”と思ってしまった罪悪感。無遠慮なボディタッチへの嫌悪感……。
彼女も愛を探している途中なだけなんだ。他の人と違うのは子供がいる、ただそれだけ。俺はそれを盾にして彼女の気持ちを否定し続けた。なんて小さい男なんだ。
「莉ったんはズっちゃんと一緒に居れることが幸せなんじゃ♡これからも一緒に居ろうな?」
彼女の胸で流した涙の”理由”は解らない。悲しい思いを抱えて生きる、いつもそこから逃げてばかりいた。巻き戻らない時間に諦めの気持ちを乗せる。
防音扉の横に備え付けられたランプがフラッシュする。
「火事かよっ!?」
「……時間の十分前の合図だ。片付けよう」
スタジオはカラオケと違って電話でお知らせしない。鳴ったところで会話にならないから。大抵はランプが点滅してお知らせしてくれる。
気づいたらとっくに二十三時になる。莉ったんとジャムれたのはとても楽しかったけど、彼女の”触れてはいけなかった”過去に触れてしまったような気がして気持ちは沈んでいる。
「ズっちゃん♡莉ったんのために泣いてくれてありがとうな♡」
そうだ。この涙は彼女のために流した、いや、流れた涙。同情とか憐みとかそんなモンじゃあない。俺の心の中に彼女の”助けて”が流れ込み、溢れ出た。
「もう泣かんくて良えけ!よしよし♡そうじゃ!ご飯して帰ろう!」
彼女は可憐だと思っていたが、とても逞しい。生きている、生命力を強く感じる。死んでいるように生きている俺は、彼女に言われるがままスタジオを後にした。




