#169 : 二人の分岐点
「Fly me to the moon ♪」
隣で呟くように微かな声で歌う麻生。的確に音程を掴んでいる。歌、上手いんだな。繊細な吐息に交じるいつもの甘ったるい声に、俺はバンドの演奏よりも彼女の歌に耳を傾けていた。
「In other words ♪」
サビに入り、少しか声量が増してくる。
「please be true ♪」
横ノリが大きくなる。楽しそうだな。
「In other words ♪」
歌いながら、ゆっくりと俺を見つめる……?
「I Love You ♡」
や、ヤラレタ……!初めてのバンドの演奏に遅れることも走ることも無く、ピッタリと合わせて歌いきったぞ。ジャズはそんなに聞かないと言っていたのに、かなり音楽のセンスがあるんじゃないか?
「はあ……」
演者に最大の称賛を送った後、一粒だけ大きな瞳から星が堕ちるように煌めいている。何も言わずにティッシュを差し出す。その涙のワケが知りたいような、知りたくないような。
「あんなあ?ジャズを聴いて泣いたんがは初めてや……」
泣いてる姿はズルい。それだけで俺が音も立てずに崩壊していく。
「楽しんでもらえたかな?」
「たまるか!もう最高すぎて言葉にできんがよ!」
泣き笑いの笑顔で答える。その姿に俺の心が更に高鳴る。
悲しいが時間も時間だ。このステージで店を後にしないとだな。この俺がほとんど飲んでいない。飲めないタイプと一緒だったから?いや、緊張してたんだな。
「楽しい時間はすぐに過ぎてしまうのう」
寂しそうに呟く。
「ほいでな?この後はどうするがよ?」
「名残惜しいけど、そろそろ終電が無くなっちまう。今日はここでお開きにしよう」
「イヤじゃ!まだズっちゃんと遊んでいたいが!」
「お気持ちは嬉しいけど、お子さんもいるんだし、さ」
ずっと気になっていたことを言葉にする。
「なんちゃあ!息子は大丈夫やき!ご心配なくや!」
「いやいやいや、大丈夫ってダメでしょ!?」
「ざまに驚いちゅうのう?」
何か不都合なことがありましたでしょうか?そんな雰囲気で聞いてくる。
「驚くも何も、大丈夫なのかよ!?」
「何がじゃ?」
「子供を一人するなんて……」
言いかけたところを遮るように言葉が重なる。
「ズっちゃんとジャズを聞くから母親んトコに預けてきちゅうがよ♪」
「そ、それで良いのかよ?」
未だ見ぬ子供に、過去の自分を重ねてしまう。母親が居ない夜を過ごす寂しくて心細い子供の心を。
「子供言うたち今年で中学生やき」
そんなに大きな子供なのか!?一体いくつの時の子供だ?
「言うたろう?お仲間やって!17の時に産んだがよ♡」
去年の火曜会の言葉を思い出す。
『子供とは言えもう高学年なのでクリスマスより受験の方が大事ですが』
受験って小学校に上がる”お受験”じゃなかったのか?高学年って言ってたけど、年長さんの事かと思っていたのに……!
「と、言うことじゃ!今夜は帰さんからの♡」
それは俺のセリフだろう!いや、それだけはダメだ!
「まだ終電に間に合うし、今日はジャズを聞きに行く約束だっただろう?」
ダダをこねる子供をあやす口調で念を押す。ちゃんとエビデンスあるんだからな!
「ズっちゃんはほんにしわいぜ、敵わんが!」
お、諦めたかな?
「ほいたら途中まで一緒に帰ろう?」
あの瞳で上目遣いされたら、せっかくの俺の強情っぱりがメルトダウンしてしまう……!その瞳で、俺を、見つめないでくれ……。
「それもダメかよ?」
きゅ。っと手を握ってくる。
▲帰る
帰らない
脳内でコマンドが浮かぶ。選択肢を間違ってはいけない。
「……わかった。お互いの乗り換え駅まで、な?」
「ありがとう!大好きや♡」
コツン。とオデコを俺のオデコに当てる。ちょ、近すぎるってば!
周りの目も気になるので早々に退店する。
「なんじゃあ?ズっちゃん照れちょるんか?」
淫魔めいた口調で煽ってくる。この両極端な二面性も魅力の一つなんだろうな。
電車で並んで座ると、すぐさま肩にもたれてくる。そっと俺の左手を握りながら。酒、まわってきたんかな。
過ぎていく景色を眺め、彼女の吐息を感じながら電車に揺られる。この時間だけ切り取ってしまいたい。そんなことする勇気もないと言うのに。
自ら苦しむか、他人を苦しませるか、いずれかなしに恋愛は存在しない。
フランスの詩人の言葉が胸を刺す。俺は恋をしているのだろうか?
『まもなく……』
二人の乗換駅に到着する。ゆっくりと肩を揺らして彼女を優しく起こす。
「んにゃあ?もう着いてしまったんかよ?」
「ああ、ほら、立てるか?」
自然と手を差し出し、当たり前のように握り返してくる。違和感を感じない。
「今日はありがとうなあ!楽しかったぜ!また、遊んでくれるかよ?」
「ああ、俺も楽しかったよ。こちらこそありがとう。前もって連絡くれよ?」
「これやからズっちゃんのことが大好きなんじゃ!気をつけて帰ってな♡」
後姿を見送る。徐々に見えなくなっていく彼女が陽炎のようで、今日のことは夢だったかのような感覚に陥る。
『ヴヴッ……』
ったく、これは相変わらずなんだな!
『今度は帰さんからな♡』
選択肢を間違えなくて良かったのか、悪かったのか。また彼女と逢えるならどっちでも良い。憑き物が取れたみたいな気分が嬉しくて、いつの間にか俺は月に昇っていた。三日月に寝ころびながら彼女の歌を思い出す。”言い換えるならば”。言い換えなくてもキモチは一緒なんじゃないかな。




