#168 : だから、なに?
このステージの一曲目は世界一有名なトランぺッターの曲だ。
ベースがイントロ・フレーズを奏で、ピアノが合いの手を入れてくる。モダンできたか。
隣の麻生に目をやると半分、瞳を閉じている。曲に耳を傾けているのか、眠いのか。可愛らしさで死にそうになるが、俺の気持ちも『 So What ? 』、だから、なに?だ。テンション・コードの緊張感を体内に取り入れて平常心を保つ。
「大丈夫か?」
小声で確認する。
「大丈夫やき、気にせんちょいといて」
無理させていないだろうか?電車で送れる限界まで着いて行くか。ここからタクシーで帰るよりかは安く済むだろう。
「このステージ終わったら帰ろう?」
「イヤじゃ!まだあの曲を聞いちょらん!」
小声ながらもしっかりと答える。酔っているのか、いないのか……。
リクエストは予約時に伝えてあるから、余程のことが無い限りは演奏してくれる。今日はモダン・ジャズがメインのようだけど、スタンダード・ナンバーだし、インストで演るアーティストも多い。横目で確認するがやっぱり酔っているように見える。できれば早く流して欲しいなぁ。
「あの曲でなあ?オラあ決めたんじゃ。ズっちゃんの気持ちを受け止めようとな♡」
コショコショと耳打ちで囁いてくる。くすぐったいやら何と言っていいのやら。
って、俺のキモチ!?
「あの曲の歌詞は知っちゅうがやろ?」
私を月へ連れて行って。中学生でも解る簡単な英語だ。最終学歴が保育園の俺でも解る。
「漱石はなあ、I Love You を ”月が綺麗ですね”と訳したそうな。都市伝説と言われよるが、ロマンがあって良いろう?」
彼女が文豪の本ばかりを読んでいたことを思い出す。古めかしい言葉はそこからの影響なんだろうな。実際には山に囲まれて育ち、遊びにも行けなくて、お祖父さんの本を読み耽るしかできなかったような口ぶりだったが。
あの曲の最初のタイトルは今とは違うものだった。『In Other Words.』、”言い換えるならば”が和訳的にしっくりとくるか?
相手に好意を伝えられなくて別の言葉を使って連想させるが、最終的に『愛している』と伝える歌詞、だ……!?
「ズっちゃんはニブチンやけろロマンティストやのう♡」
盛大な勘違いをさせてしまった!?古風な彼女に合いそうな和菓子、羊羹。そう思っていたらたまたまアレが売っていて、たまたま手に取り、たまたま買っただけだ!
「歌詞に乗せて想いを伝える……、ステキやんなあ♡」
なんてこった。そこまで深読みするか?普通!?
「いや、そんなつもりは無くて……」
「なんちゃあ、なんちゃあ!照れんくて良いがよ!」
「だから、違うって!」
演奏中にお互い耳元でコソコソと話しをしているから、周りの目線が集まってくる。黙って曲を聴けと。俺だって聞きたいけど、この状況では彼女の誤解を解くことを最優先させないとマズイ。だから、なに?と視線の送り主達へ心の中で反論する。
「ズっちゃんが”愛してる”と言ってくれるんやったら、お返事は”死んでもええ”じゃ♡」
これまた有名な話だが、漱石の愛してるへの最高の返答が『私、死んでもいいわ』となったそうな。確か元ネタはツルゲーネフだったような……?
「流石よのう!二葉亭四迷が訳した言葉じゃ♪」
”くたばってしまえ”をそのまま筆名にした小説家。激情的な人物だったらしいが、俺はそこまで詳しくは無い。
「あの曲と漱石は直接関係はあらんが、莉ったんの気持ちを考えてくれたんじゃろう?」
「ほ、本当にたまたまだったんだよ……」
気づけば三曲目のイントロが始まる。誰もが知っている曲、『星に願いを』だ。原曲はアニメーション映画の曲だったが、ジャズのカバーが数多あり、どれが本家かわからなくなってしまう程に有名だ。
「たまるか!このタイミングでこの曲は天にも昇る気持ちじゃのう♡」
ピアノの旋律に合わせるように、彼女の大きな瞳に星が散りばめられ、一つ一つが煌めいている。俺の胸が恋焦がれた瞳、吸い込まれた宇宙。一足先に空へと旅経った俺にお構いなしにバンドは演奏を続ける。サビが終わった後、ピアノ、ベース、ドラムの順にアドリブ・ソロを4小節ずつ回す。フォー・バースだ。
「ベースの人スゴイなあ!歌を歌っているように弾くんじゃの!?」
ジャズのベースはフレットレス、音階の境目が滑らかだからそう聞こえる。元はボウを使って弾く楽器だが、フィンガー・スタイルは独特なニュアンスがありクセになる。これが解るとはなかなかではないか。
ベースの旋律になぞらえてドラムが追いかける。
「ドラムも歌っちょるがよ!?あないなことができるんかえ?」
基本的なリズムしか知らないと大抵は驚くよな。打楽器が歌うんだぜ?そのドラムがピアノに向けてバトンを渡す。
「不思議じゃ!?リズムが変わっちょるのにこの曲だとわかるがよ?」
フェイクと言われる技法、主旋律を残しつつ崩すテクニック。ドラムがラストを三連符で刻んだから、ピアノも負けじと刻みから入る。ラスト一小説をレイドバックで貯めつつ、最後の音符に食い気味でベースが被る。シンコペーションだ。
「なんかわからんが、楽器同士ででお話をしているようじゃのう!」
小声ながら興奮を抑えきれない様子で伝えてくる。耳にかかる甘い吐息がくすぐったくて、ドキドキする。
「これがジャズの醍醐味だよ」
ジャズをライブで聞くときはこれが一番の楽しみだ。譜面通りなら練習さえすれば誰でも弾ける。そこに自分の解釈、技巧を凝らして変化をつけていく。良い意味で『裏切られた』感がたまらんのだ。
フォー・バースを終えてテーマに戻ると、自然と拍手が巻き起こる。
「げにまっこと感動したが!初めてをありがとうな♡」
俺が演奏したわけではないが、こんなにも可愛く言われたらその気になってしまう。ギターは弾けるがジャズは弾けない。聞く専門だ。"弾いてくれ"と頼まれたら正直に言おう。俺には無理な世界だと。
ピアノがカデンツァで音の階段をゆっくりと上がっていく。興奮冷めやらぬまま、空繋がりであの曲のイントロが静かに、ゆっくりと始まる。テンポはルバート、ご自由にどうぞだ。このニクイ演出よ。感動から思わず鳥肌が立つ。
「ズっちゃん……!」
「ああ、間に合って良かったよ」
私を月へ連れて行って。彼女も感極まったのか、薄っすらと涙を浮かべている。大きな瞳が濡れた月のようで、俺の心も一緒に連れて行かれちまった。