#166 : 風の哀れみ
タクシーは大岡川に架かる都橋をゆっくりと渡る。
橋の袂にあるタバコ屋は俺の葉巻とパイプたばこの仕入れ先だ。課長になってから忙しくて顔を出せていない。ママは元気にしているかな?
吉田町通りを関内駅方面に車で進むと、一方通行のため桜木町方面へと戻されてしまう。そのため福富町仲通へと右折し、長者町八丁目を左折し県道21号へと向かう。
横浜のハ-ド・コア、福富町。人種のるつぼであり、アジアンもルシアンもターキーもなんでもござれの無国籍な町だ。不夜城は新宿だけではないことを体現している。この町で青春時代を過ごしたから、優に言った通り差別も偏見も無い。彼らから見たら俺だってガイコクジンだ。
異国情緒あふれる街並みに、タクシーの窓から景色を眺めている麻生が恐れ慄いている。この町はまだまだこんなもんじゃない。
横浜スタジアムを背中にして線路の高架下を潜れば、大阪の西成に匹敵する寿町、一見、閑静な住宅街のようだがキナ臭い事件が絶えない不老町、県道21号線沿いに所狭しと並ぶ男性専用歓楽街の曙町、五丁目でブルースが有名な伊佐崎方面に向かえば昔ながらの飲み屋に紛れてアヤシイ店が乱立している。
伊勢佐木町をそのまま日ノ出町方面へと向かい、大岡川沿いに黄金町方面へ左折すれば悪名高い赤線地帯。一時期は下手なアミューズメント・パークより人がわんさと歩いていた。今は市長が変わってどこもかしこも綺麗になってしまい、あの頃のバイオレンスやドキドキは微塵も感じないが、地下に隠れているだけであまり変わってはない。昔馴染みもまだ健在だ。
「ズっちゃんはこないな所で遊んどったんか……?」
すっかり委縮している麻生が恐々と聞いてくる。
「中ボー位からこの辺で遊んでた。当時はアブナイ人もデコスケも優しくてさ、ガキの俺らを可愛がってくれたもんだよ。人生の先輩、教育者って感じでね。いま思うとどちらも後世の為のスカウトに近かったのかもな」
「アブナイヒト?デコスケ?」
「っと、今をトキメク反社会勢力とお巡りさんの事だよ。帽子の所に桜の代紋がついているだろう?そっからきてるみたいだよ。私服の時は指で丸を作ってオデコに付けると、制服を着ていなくても警察同士で”お仲間認定”されるんだ」
「……そないなことばっかしよってからに、ズっちゃんはわりことしやったんか?」
「わりことし?」
「イタズラ坊主ってことじゃ!」
「んー、俺は普通だったけど?」
「どの口が言うちょるがが!大分毒されておるのう。そんなんで良くサラリーマン目指したな?アレかえ?経済系の不良にでもなろうとしたんか?」
「いやいや、周りがちょっと特殊なだけで、俺は普通だよ」
実際、法に触れることは避けてきた。見つからないように、が正解か。先述の恩人たちが身を持って教えてくれたからな。
中二の夏休み、いつものようにタダ酒とタバコをたかりに本職のおっさん家に遊びに行ったら、オデコちゃんと4課の刑事達が玄関で押し問答していた。ガサ入れってやつだ。令状持ってたから強制、おっさんは薬物専門の問屋、所謂”売人”ってヤツなのをその時に初めて知った。連行されていくおっさんの目は今でも忘れらない。”俺のようにはなるなよ”と訴えかけていた哀し気な瞳を。父親を知らない俺には頼もしい大人に見えたが、世間様は色眼鏡で見ずにちゃんと”犯罪者”と言う認識を持って見ていた。
当時の4課は麻薬取締官と仲が悪かったそうで、お互いに潰し合っていたらしい。組対5課が薬物と銃器の対策課として成り立っているが、薬物関係はマトリの方が強い。囮捜査が認められているから直接売人と関係を持ち、確固たる証拠を握ることが出来る。おっさんはまんまと囮捜査に引っかかったってワケだ。
俺はハコ詰めのデコちゃんと仲が良かったから、取り調べは受けなかった。中学生で薬物は無いと踏んだんだろうな。甘いっての。ガキでもネタを喰うヤツはごまんといる。あ、俺は一切の薬物はやらないからな。酒で十分だ。
「ズっちゃんとは住む世界が違う気がするがよ……」
いかん。完璧に引かれている。だから過去の事を話すのはイヤなんだよな。ま、隠しててもいずれバレるんだろうけど。
タクシーは酔客や客引き、ゾンビのような当たり屋をかいくぐりやっと長者町5丁目を左折し、尾上町へと向かっていく。だんだんと綺麗になる街並みに麻生は少し安堵しているようだった。
「線路の向こうに横浜スタジアムが見えてくるよ」
今日はナイターの日ではないが、ライトアップされて遠目からでも感動を覚える。
「これが”ハマスタ”かえ!?大きいのう!」
俺がガキの頃からあるから、昨今は老朽化対策が大変だそうな。
せっかくなのだが、そっちまで行くと遠回りをしなければならないので、蓬莱町へ向かい線路を左手に大通公園を突っ切る。不老町が見えてきたら左折し関内駅南口へと向かう。これ、歩いて行ったほうが早かった気がする……。ま、ちょっとした観光案内にはなったかな。裏側だけど。
石川町、中華街の中も一方通行が多いので迂回しながらお目当てのお店へ。
「ちょいとしたアトラクションに乗った気分やき……」
怯えながら周りをキョロキョロしている。見知らぬ土地の裏側、普通の人には刺激が強すぎたかな?
目指すバーは横浜を代表するカクテル発祥の店。貨物用帆船が店の名前の由来だそうで、内装も船を模している。ちゃんと予約しておいたから席は確保できた。ああ、何年ぶりだろうか……!
「俺はここのオリジナル・カクテルを。ウーロン茶?」
「んー、せっかくやし飲もうかの!リンゴのお酒がええ!」
「頭痛くならない?大丈夫?」
「ご飯も食べたし、水分も取っちゅうけ、大丈夫ながや!」
シードルはそのままでもイケるが、ドライだと飲み辛そうだな。
「カシスってお酒は知ってる?」
「それくらいばあ知っちゅうがよ!」
「シードルがドライのヤツだから、シロップ代わりにカシスを入れるのはどうかな?」
「おお!おおっ!なんかオシャレやなあ!さっすが元バーテンながや!」
「……それも和田から聞いたのか?」
「えへへぇ……」
俺殺しのてへぺろで返事をする。どうしてこんなにも可愛いんだよ!カモン!俺の平常心!!
こっそりと汗をかいている俺に、”そんなに悪くは無いだろう?”とピアノがメロディを奏で、音圧と言うそよ風に乗って音が運ばれてくる。有名な映画のワンシーンで使われ、雷におびえる子供達をなだめるため、好きなものを上げていき恐怖心を払拭させようとする三拍子。
日本、特に関東在住者はこの曲のイメージが二極化する。あの映画を思い出すか、京都へ行きたくなるか。俺はどっちもだ。今日はピアノとベースとドラムの3ピース編成のようだ。モダンがメインかな?
「これ!これ聞いたことあらあて!」
知っている曲だったからか、興奮気味で麻生が耳打ちする。く、くすぐったいよう……。
「お待たせしました」
麻生のカクテルと俺のカクテルが運ばれてくる。
「改めて」
「カンパイ♡」
演奏のジャマにならないように、小さくグラスを合わせた。