#154 : 奪われたのは、心だけじゃないんですよ?
麻生の瞳は俺を捉えたまま、左腕をギュッと掴んでいる。
「な、なんで......」
わけがわからない。なんで麻生が俺と付き合うために会社を辞めたんだ?
「じゃあなんで小畠さんは私に手を出さなかったのです?瑠海ちゃんとはしちゃったのに」
「な、なんでそれを......!?」
まさか瑠海が話したのか?そんな、そんな!?
「オンナの勘って信じます?私けっこう強いんですよ♪」
森の言葉が記憶の隅から復元される。退職を決め、無垢なパールを零した日だ。
『おっとりしているようで勘の良い女性ですから』
「瑠海ちゃんとは会社が一緒ですからね。最低でも月に一度は会うんですよ。私、お二人の関係に気づいちゃったらガマンできなくて」
ケラケラと笑いながら話す麻生は、俺が知っている彼女ではなかった。まるで何かに化けたような恐ろしさがある。
「で、この前会った時に宣戦布告しといんたんです!小畠さん獲っちゃうよって♪」
「ちょ、ちょっと待って、俺には何が何だかサッパリわからないんだけど」
「まぁだとぼけるんですか?アレ?そっか、知らないんだ?」
「な、なにを......?」
「大井さんと瑠海ちゃんが付き合ってたの!」
もう、俺には何が何だかわからない。狂気。音も立てずに俺の世界が狂っていく。
「大井さん自分で事業もやってて、伊藤君のお店の出資者なんですよ。だから会合も飲みに行くときもいつもあそこなんです!個室は私の実家をモデルに作ったんですよ♪」
頭の中が真っ白になっていく。感覚があるのはしがみついている麻生の温もりだけ。真っ白な頭の中に瑠海の声が響く。
『あのコも喜ぶ事と思います』
ずっと気になっていた『あのコ』は麻生のことだったのか……!
「瑠海ちゃんがお店にいる時から大分懇意にしてたんです。で、夜の世界を辞めて大井さんの本職の会社に入社したのに、大井さんが私に浮気してGame Over!」
俺は何を信じれば良いんだ?息が苦しくなり、脳に酸素がいかない感覚、めまいがする。
「そしたら瑠海ちゃんが怒っちゃってもう大変!でも私は大井さんの過去も相手がいることも知らなかったから、そのまま付き合いました!もう別れちゃいましたけどね♪」
「な、なぜ、辞めてまで、別れるなん、て」
口の中がカラカラに乾いてうまく言葉がつなげない。唾液すら出てこないほどに緊張感が襲う。
「大井さんが黙ってたから!やっと営業の仕事が決まったと思って小畠さんの会社に行ったら、瑠海ちゃんがいるじゃないですか!そりゃ私もオコですよ!オコ!私と付き合うってなった時に全てのオンナは切る、って約束したのに仕事以上の付き合い方してるし!しかも配属は小畠さんの一課じゃなくて同じ二課にされちゃうし、森さんには色目使われるし、チェリーは馴れ馴れしいし、ナルシストはうざったいわ、次長さんの昭和スタイルに辟易して二日で辞めるって言ったんですよ!」
麻生の濁流は止まらない。二課になってから態度が変わったのはこれか?またもや森の言葉を思い出す。
『やる気とか、覇気とかが感じられないんです。無気力と言うか、心ここに在らずって感じで』
「皆さんあんな会社でよう頑張りはるなぁ思うて!ウチやったら即時で辞表ぉ叩きつけとりますわぁ!」
興奮している麻生のイントネーションが変わった。西側の発音だ。
「ああ、すみません。訛っちゃいました」
アイスティーの時のように舌先を出して片目を瞑るが、もうあの時の麻生では無い。儚さが、無い。
「面接の時からずっと言ってたんです。小畠さんと会わせたくないなあって」
「お、大井さん、が?」
「そう!小畠さんウチのげにまっことドストライクやき、彼も心配しちょったんでしょうねぇ!」
ウキウキと楽しそうに暴露話を続ける彼女の腕は、俺にしがみついたままだ。
麻生の出身がどこかは知らない。田舎だと言うこと以外は。その俺でもアタリはついた。四国地方だ。現代では死語となった言葉もあるが、その言葉は幕末好きの俺が読んでいた小説にも出てくる。土佐、高知だろう。
「伊藤君のお店で私達と鉢合わせたの覚えちょります?」
嘘だ、俺はなお君の店で大井さんにも麻生にも会ったことなんか一度も無い。まだクラブ時代の話すらしていないのだ。
「個室に小畠さんがいざりよったが、って瑠海ちゃんがゆーたら、彼が血相変えて飛び出してん!ウチも流石に気まずい思うたんで帰りましたわ!その後、瑠海ちゃんがソッチに行きはったやろ?しれっと"ご挨拶してく"言うとってからに!」
......四ツ谷と初めて飲みに行った日か!瑠海が一人で個室に来て——
『失礼します。連れが先に帰ったのでご挨拶をと』
「あん時から良い仲になったがやろ?それやのに何でウチとは仲ようしてくれんがよ?しゃっち他人行儀やし、わざとらしく硬い口調で話しよるし、せっかく二人きりになれるように『火曜会』まで持ち出したんに、あないなチチデカ娘ばぁ連れて来よってからに!火曜会が終わった後にウチの事を出し抜いたつもりやったろうけど、同じお店に居ったんがは気づかんやったろうなあ!あれですか?やっぱ男の人は乳ですかぁ?」
最後の言葉に一気に血の気が引く。気を失いそうだ。隣にいるのは麻生ではない。そう信じさせてくれ。
「と、とりあえず、離してもえるかな?」
もうお硬い言葉で喋っても無駄だろう。今更取り繕ったところで彼女は俺達の事をほぼ察知している。
「いややぁ!離さん♪」
ふるふると首を横に振り、悪戯っ子っぽく、淫魔のような笑顔で俺を見つめる。
「ウチとも仲ようしてくれる?そいたら離しちゃる!」
「わ、わかったから、もう、離してくれ」
しがみつかれていた腕は血が止まり、痺れて感覚がなくなっている。俺の頭の中も同じ状態だ。
「ウソついたらアカンよ?」
そう言うとやっと離してくれた。締め付けられていた静脈からブワっと血が流れるのを感じる。
「ずっと、隠してたのか?」
痺れた左腕をさすりながら聞く。
「隠しちょらん!あんさんが気づかなかったんがやろ?どればぁアクションしたと思うちょるがが!なんぼゆうたち気づくがやろ!」
聞きなれない言葉もあるが大体ニュアンスで伝わる。それよりこの場を収めないと......
「ま、ニブチンやからしゃあないんかのう?」
顎に人差し指だけあてて小首をかしげる。それだけを見たら俺が惹かれたいつもの可愛らしい麻生だ。
「メッセ!交換しましょ!」
そういうと私物の携帯を取り出してアプリを開く。
「か、会社の携帯があるじゃないか」
「それでええならそっちに送りますき、ちゃんと返事しちょってな?」
「そ、それで、いったい、何がしたいんだよ?」
生唾すら出ない喉を鳴らして聞く。
「ウチと付き合おうてや♡」
今日一番の笑顔で彼女は言い放った。