#149 : 英雄、色を好む。ロマンティストは悪女を好む。
唇に甘く、切なく、淡い痺れ。瑠海と愛し合った証だ。
流石に瑠海の家でなく、あの時のホテルにいる。時間は朝の五時半。三時前には着いていたから、長いこと頑張っちまった。瑠海は所定席の俺の左腕に包まれている。
いつでもどこでもそうだが、瑠海は躊躇なくキスをする。挨拶代わりなのか、愛情を求めているのか、ただの欲求なのか。重ねるキスは軽く合わせる時も有れば、情熱的で濃厚な時も。重ね合ったまま緩急をつけてくるのはキスが上手い証拠でもあり、瑠海のクチビルから情熱を注がれている気分にもなる。
「……また、ワガママを言ってしまった」
「それはワガママなのか?本心ではなくて?」
「貴方の優しさは時にナイフよ。私の心を優しく、薄く、ゆっくりと削いでいく。そう、ね……。貴方の言う通り本心なのかも」
俺の左でしがみついていた瑠海が不意に顔を上げてキスをする。
「貴方が、好き。貴方といると心が満たされ、愛しさに胸を掻き乱され、欲望を抑えられ無くなる程に求めてしまう」
「……この前も聞いたけど、俺のどこが良いんだよ?こんな草臥れたオッさんの」
烏羽の髪を撫でていた手を止めて聞いてしまった。
「全て、と言ったら抽象的過ぎるわね。初めて会った面接の時、興味が湧いたわ。年齢を聞いてさらに。大井さんより若々しいのに、ワザとらしい硬い口調。おかしいったらありゃしなかった」
「そ、そんなに?」
「自分では一生懸命に威厳を出そうとしているのに、全然似合って無いんだもの」
そんなもんかな?まあ口癖って言ったらそれまでだけど。そんなこと言ったら麻生もそうじゃ無いか。俺より時代錯誤だぞ。だからお返しであんな自己紹介をしたのか。
『さんずいにエロで江口、瑠璃色の海で、瑠海』
あの言葉の裏には瑠海のこんな気持ちがあったなんて。俺をほぐそうとしてくれたんだろうな。
「もう一つ。徹底して私を仕事の”関係者”として扱ってくれた。容姿や客観的にわかりやすい部分でなく、仕事に対する姿勢、考え方、この仕事を通しての将来のこととかね。今まで誰も居なかった。私が他人に求められるものは私と言うブランドだけ。普通の人と少し違うってだけで、私は他人のステイタスのために、羨望を集めたいがために、自己顕示欲を満たすために利用されて来た。道具やおもちゃ、ペットと同じだった。私の気持ちなんか考えもせず」
そりゃこんな美人だ、男も女も放って置かないだろう。それなのにこの言葉、あまり良い思いはしてこなかったんだろうな。思わず左腕に力を込め隙間も無いほどに瑠海を抱き寄せる。
「そりゃ仕事の面接に来てるんだ、瑠海をナンパする場所じゃ無い。俺は自分の職務を遂行したまでだ。そんなの俺のことを買い被りすぎだよ」
「そうね。そんな謙虚な所にも惹かれた。覚えてる?業務端末が支給されて、貴方から説明を受けて渡された時、貴方は番号を聞いてこなかった」
「だって課が違うもの、当然だろ?」
「それは建前よ。部署は一緒なのだから知っていても咎められないわ。それなのに敢えて聞かなかったし、貴方の番号も教えて貰えなかった。元泉さんはすぐに聞いてきたわ。なぜ聞かなかったの?貴方の職位なら知っていなければならない立場でしょ?」
「ったく耳が痛いよ。瑠海もちゃんと話してくれたから俺もちゃんと話すよ。……怖かったんだ。瑠海みたいな美人と、しかも派遣さんで、何かあったらって。間違いはホコリ以下でも起こしちゃならないって。コレはバレンタインの日にカフェで話したよね。俺は臆病者なんだ。瑠海の誕生日の時だって自分の保身の事しか考えられなかったヤツだ。こんなクズのどこが良いんだか」
瑠海の左手がそっと俺の右頬に触れる。優しい温もりが伝わってくる。
「あんなこと言っといて矛盾するけど、私は貴方の顔に惹かれたわ。中性的で優しい瞳。包容力があって、いつでも人のために目配せして、疑うことを知らないキラキラと輝いた少年のような澄んだ瞳。この人は恐れているものなどないのだろうと思った」
「よせやい、もうすぐ四十だぞ」
俺の目は濁り切って死んだ魚の目をしてる。リンも心配するくらいに。
「そして、豊富な知識。私と対等に会話ができる人はもっと年齢が上の人ばかりだった」
「年寄りくさいってことだよ」
「茶化さないで。私はウソを言わないと約束したはずよ。後は奈央のところで話したわね。勇敢でいながら暴君と化さず、絶えず仲間を、部下を護りながら戦う姿を遠目に見ていたわ。最初は単なる興味だったのに、あの日、あの時、私は超えてしまった」
「あの日?あの時?」
「初めて奈央のところで会った日。流石の私も驚いたわ。ドアを開けたら貴方がいたんですもの。この私が酔っているのかと錯覚したわ」
「そう言えばそんな事もあったな。俺もビックリしたよ」
おかげで出したかったモノが引っ込んでしまったからな。
「あの日、連れが先に帰らなかったら、私たちはきっとこうしてなかったわね」
「そう、かもな」
そう言ってまた口づけを交わす。事後の後でもこんなに求められると俺も、その……。
「個室の扉を開けてをあのコ見た瞬間、嫉妬心に駆られたわ。今までは遠くで見てるだけで良かったのに、横から貴方を攫われてしまいそうな不安に耐えられなかった。だから実力行使に出た。格の違いを見せつけて諦めさせようとしたのに、あのコは逆境に燃えるタイプだったのね。まんまとしてやられたワケ」
そうか。瑠海との始まりはあそこからだったんだ。あの日から。待てよ?何でなお君のところに行ったんだっけ?
「それから暫くは接点がなくて、空虚な毎日を過ごしていた。そして、私の誕生日。私は運命とか占いとか信じない。私は私、生まれた日や誰かの言葉で人生を決めつけられたく無い。それなのに、貴方に偶然にも出会ってしまった」
そういやあ……改札出て会社に戻ろうとしたら、駅ナカでバッタリ会ったんだっけ。
「イベントの偵察の帰りだったんだ。あの日は泊まり込みで仕事する予定だったんだぜ」
「仕事の邪魔をしてしまって申し訳なかったわ。運命も信じなければ偶然も必然も信じない。ただ起こった事象に対応するだけ。私は常に形態反射を繰り返すだけの人間だったのよ。それなのに、あの日、貴方に、運命を感じた。生まれて初めて自分の意思で、形態反射をやめて運命に賭けてみた」
フイと顔を上げ、燃える瞳で俺を見つめる。
「そして、貴方は私の元へと来てくれた。父は敬虔なクリスチャンだったようだけど、私は無神論者よ。それなのに神様に感謝したわ。生まれて初めて自分の誕生日が好きになれた」
瑠海が珍しく饒舌に語る。二人とも今日は大して酒を飲んでいないせいもあるのかな。会話の合間にも柔らかで弾力のある唇を何度も何度も重ねる。
「そして、今日。また、逢えた。だからここに来る時にも言ったわ。貴方が私に与えてくれなくても良い。貴方の隣に居られるだけで『幸せ』を感じられるようになったのだから」
「瑠海はそれで良いの?俺は何もしてあげられないんだぞ?」
「愛の代償としての肉体関係、よ」
哀しみを浮かべた瞳で優しくキスをする。叶わぬ恋に焦がれる乙女のように。
愛の代償としての肉体関係。
気持ちに応える罪悪感……。
「貴方は好きでも無い人と肌を合わせることに罪悪感を感じている。パートナーが居ないのなら気にすることじゃない。肌を合わせるスポーツ、ダーツみたいなものよ」
そう言うと、先ほどよりも濃厚で深いキスを交わす。露わになった柔らかな瑠海の肌を掌で撫でながら。
瑠海の肌は貰ったチョコを彷彿とさせる。チョコレートにそっとかけられたココアパウダーの様な手触り。シルクの様にしっとりとしていて、ベルヴェットの様に滑らかな肌が吸い付いてくる。
「……愛は捧げるだけじゃない。貸したり、借りたり。理屈ではどうにもならないこともある」
意味深な言葉の後、俺達はもう一度蕩けあった。ゆっくりと溶けるチョコレートのように、仮初の愛を確かめ合うように。