番外 : 二人の前日譚
三人称視点です。
珍しく恋人が先に帰宅していた。
ドアを開けたら明かりが点いていたのだ。時間を見るとまだ十八時。
(早く帰れるなら言ってくれれば外食できたのに!)
少しむくれながら恋人の待つ部屋へと向かう。
「ただいま」
「おかえり。はる」
はると呼ばれた相手は、この部屋の主に玄関で思った事を伝える。
「早く帰れるなら連絡してよー!久しぶりにお外でご飯できたのにー!」
「ごめん。私も急だったから」
いつもはホットティーしか頼まないのに、焦りと不安と苛立ちが重なり、八つ当たり的にマキアートを頼んだ。渡された金額ギリギリまでトッピングをして。
文句を言われたら自腹で払うつもりだったのだが…いや、彼なら何も言わないとわかっていて甘えたのだ。
そんな彼が何かを察知して早く上がらせてくれた。
「会社の元上司と”面談”してたの。切り出せなかったけど、明日には全部精算する」
「小畠さん?だっけ?」
「そう。こんな私に社会人を教えてくれた人。もっと学べる物があったと思うと…」
ズキ、とはるの心が痛んだ。恋人が泣きそうだったから。
「乙葉はそれで良いの?前から言ってた事だけど、本当に良いの?」
乙葉と呼ばれたこの部屋の主は涙を堪えてはるに伝えた。
「もう…決めた事だから。会社は私を必要としていないし、私も会社を必要としていない。このまま打算的に働くのは辛いだけ」
五年近くも恋人をしていればわかる事だが、理由はそれだけでない事もはるは見抜いていた。
「…乙葉が良いって言うなら私も信じるしかないよね。でも私がそうするってわかっててやってたら寂しくなる。乙葉は私を必要としていないの?」
「そうじゃない!そうじゃないの…!」
消え入りそうな声で乙葉が呟く。
「全部、私のせい。意地とプライドだけで仕事してきて、もう通用する世界じゃないってわかったの…それなのに他人のせいにして逃げ出した。最低だよ、私…」
乙葉をよく知っている者で”彼女が泣いた”と知ったらさぞ驚くだろう。”氷壁の美女”が涙したと。
自らの氷壁を溶かせない涙は、止まる事を知らぬまま流れ落ちて行く。
はるは黙って自分の胸に乙葉を抱き寄せる。
「良く頑張ったね。もう、良いよ。いらない物は全部捨てて良い。乙葉を苦しめるものも全部。私も意地を捨てる。乙葉が好きだから」
慈しむように頭を撫で、ブルー・グレージュの髪を梳かす。こぼれた感情に濡れない様に。これではどちらが歳上だかわからなくなるが、彼女達の関係はそう単純な物ではない。
「ごめんね…ごめんね、はる…」
はるにしがみつき、声を上げて泣いた。泣きながら心の整理をしていた。
彼女と出逢い運命を信じ、護っていきたい気持ちが芽生えた。自堕落な生活から脱却したくて中途を受けた。採用の連絡があった日に二人でささやかなお祝いをしたお店。
バディだった小畠にライバル心を持った。ライバルから教わる事が多く、自立していると思っていた自分が未熟であった。ライバルが先に異例の出世で課長職に就き、祝いながらも自分に悲観していた。
新設の二課が出来た時、リーダー職へ上がる為に起死回生を謀った。なりふり構わず成果を上げる事に集中していた。
限界を超えていた。それをはるにしか言えない自分に失望した。今日も小畠と会っていたのにちゃんと言えなかった。
少しだけ興味を持ってしまった事も。何も言わないまま受け止めてくれた彼女の優しさにも。
数え上げたらキリがない程、この五年間は充実していた。喜びも苦しみも、悲しさも愛しさも。
宣言した通り、乙葉は泣いた。
自分の為に、恋人の為に、過去を精算する為に。
乙葉は明日、退職願を提出する。




