#145 : 初・体験
「ご、ごめんなさい!」
青白い顔で美希に頭を下げる杏樹。
「事情を詳しく話してもらえるかな?」
感情的にならず、事実確認だけ取れるように努めて機械的に訊く。
「は、はい。ミステリー中に、他社製品の展示方法や価格、スペック等を確認してたんです。それで写真を撮っていたら、後ろから声かけられて……」
両手でスカートの太もも部分をギュッと掴んで話しをする。
「IDを首からかけたままだったんです。それで勝手に入店してリサーチしてた事がバレちゃいまして、バッグヤードで主任さんに怒られました」
どうやらミステリー巡回に慣れてきたようで、偽装工作を忘れたようだ。法律的に何も問題は無い行為だが、あまり大っぴらにやられると店側も困る。取引先は小畠の会社だけでは無いのだから。
「怒られた、では無くご指摘を頂いた、ね。それにごめんなさいではなく、申し訳ございませんに直そうね」
「はい、申し訳ございませんでした」
「あの店舗の主任様はルールを徹底される方だから、逸脱している行為に対して注意を行うのは当然だわ」
どうしたものかと美希が左腕で下から胸を抱え、右手を顎に当てて思案する。ここが給湯室でなかったら、男性のギャラリーに囲まれていただろう。
「それで主任様が上長を連れてきなさい、と言う事なのね?」
「はい。四ツ谷さんの事はご存知でしたが、その上の者をとの事です」
美希より上と言ったら小畠しかいない。新年度から迷惑をかけてしまうことに憂鬱な気持ちになった。とは言え美希一人ではどうにもできない。
「ミステリーに関してのルールを守らなかった、これがまず原因ね。なぜ守れなかったのかな?」
「……多分、慣れてきて、甘く考えてたんだと思います」
「正直に良く言えたね。反省してる?」
「もう、怖くて泣きそうです……」
「大丈夫!私もいるし、小畠課長もついてるから!同じ過ちを犯さないためにはどうすれば良いかは戻ってから考えよう!」
つい最近まで皆んなの天使として可愛いがられていた美希が、ちゃんと先輩として指導をしている。叱るだけでなく、杏樹の教育、成長を意識しながら。
「エスカレーションは?」
「四ツ谷さんだけです」
「少し時間が経ってしまったわね……、急いで課長に掛け合おう!」
「は、はい」
小畠にカミナリを落とされるのが心配な杏樹。温厚そうな人だから余計に恐怖を感じるのかもしれない。
「あらあら、やっちゃったねぇ」
意に反して小畠はあっけらかんとしてた。
「ご迷惑をおかけして申し訳ございません!」
背骨が折れる角度で杏樹が小畠に頭を下げる。
「顔を上げて。謝るのは俺じゃ無いでしょ?」
「え?は、はい」
「店舗側にごめんなさいだよ。ミステリはご厚意でお目溢ししてもらってるのに、反故したらそりゃお相手さんも怒らなくちゃならない。主任さんも注意したくは無かっただろうよ」
手元を見ず、美希達の方を見ながらエクセルの処理を行なっている。ショートカットを駆使しているようだが、手首から先は動いていても腕は動いていない。マウスを見るとトラックボールタイプだった。
美希も杏樹も初めて見たが、パソコンスキルの話しは過大評価では無い事をまざまざと見せつけられる。
「四ツ谷さんではダメってことなんだね?しゃあない、俺が出張ってやりますか!」
なんだか楽しそうに言って伸びをする。ゴキッ、と彼の肩と腰が鳴った。
「座りっぱなしはしんどいからね。運動がてら行きますか。こう言う事はスピード命、今から謝罪に行くよ!」
「は、はい!ありがとうございます!」
「お忙しい所、私の指導不足で申し訳ございません」
「前にも言ったけどコレも俺の仕事なんだから気にしない!柏木さん!ボードにNRって書いてといて!行ってきまーす!」
「か、かしこまりました!いってらっしゃい!」
こう言う時の小畠はとても頼もしく感じる。小畠は時間がかかると踏んだのだろう。春香が一課の行動予定表の小畠の欄に『NR』と書き込む。
店舗は二つ隣の駅にあるのだが、小畠は迷わずタクシーをつかまえる。
「課長⁉︎お急ぎとは言え電車でも……」
「一秒遅れるごとにこちら側が不利になる。速攻で攻めるのが基本だよ」
杏樹を先に乗せ美希、小畠の順に乗る。美希は隣に小畠が居ることにドキドキしている。が、憧れや好意ではなく、あの時の近藤にも似たオーラが彼から放たれ美希を圧迫する。
あまり社内にいない美希は、仕事モードの小畠をしっかりと見たことが無かった。彼から闘気が溢れ、車内に充満し息苦しさを覚える。店舗に着くまで杏樹は隅っこで涙を堪えていた。
「この度はご迷惑をおかけし、誠に申し訳ございませんでした」
美希にも似た腰から直角に曲げ謝罪する小畠。
「前から言ってますけどね、入店するならちゃんと入館通して貰わないとこちらとしても困るんですよ?」
店舗の主任は腕組みをしながら、右足でトントンとイラつきを表現する。頭を下げたままそれを見つめる杏樹。
「こちらとしてもルールはルールですからね、そちらの、別所さん?はもう入店をお断りします」
下を向いていた杏樹がハッと顔を上げる。
「出禁。出入り禁止です。担当は四ツ谷さんに戻して下さい。大体ねぇ、販売も出来ないのに売場に入るなんて言語道断ですよ!」
「仰る事はご尤もです。弊社としても再発防止に努め、二度とこのような事態が起きぬよう、徹底して指導する事をお約束させていただきます。今後のラウンドにつきましては改めて四ツ谷がお世話になります。ご厚情を承り感謝申し上げます」
美希も泣きそうな顔をしている。自分の指導不足で小畠が罵倒され、下げなくて良い頭を下げ、しなくても良い謝罪をしている。自分のせいで小畠に迷惑をかけてしまった。
「えーっと、小畠さん?課長さん自ら出張られたらこちらとしても、ね。そう言うことで宜しくお願いしますよ!次はありませんから!」
「かしこまりました!この度は申し訳ございませんでした!」
三人で深々と頭を下げ、店舗から退店する。
「も、申し訳あでぃまぜんじだぁ〜!」
外に出た瞬間、杏樹が堪え切れずに泣き出した。