#89 : 仲違い。
とあるビルのとある廊下。
床にはカーペットが敷かれ靴音は響かない。吸音効果もあってか雑音もない廊下は、シンッ…と言う鳴ってもいない音を表現するのが相応しかった。
「単刀直入に。小畠さんとのこと、どう思っているのです?」
「こんなところに呼び出して何かと思ったら。貴女にしては珍しい質問ね。どう、って?」
「はぐらかさないで下さい。私はもうあの時とは違いますよ」
唐突な質問にかつての弱々しさを感じなくなっていた瑠海は、やっかいなことになったと感じた。
「そうね。まるで子猫のフリをして擦り寄った其の実、喉に喰らいつこうとするサマは野良犬に等しいわ」
「質問に答えて頂けないのですか?」
「それを答えてなんになると言うの?彼との関係を知ったところで貴女の出る幕ではないわ。プリマ・ドンナは一人で十分なの」
優劣の差をハッキリと見せつける。以前は見せつけられたが、今回ばかりは負けられない。負けたくない。
「貴女はさしづめネッラってとこね。美しい旋律に乗せて私欲の詩を歌う」
「見た目に反して子供じみたことを仰るのですね。アウレッタのような」
喰い下がらない。こんなにも強気だったであろうか?そして、喜劇とは言えオペラにも精通している。経験は浅くても伊達ではない、か。
瑠海は自分のペースを乱さないように、心の水面にさざめきたった動揺と言う波を落ち着かせる。
「独占しているわけでは無い。私から奪えるものなら奪ってみせなさい。もしその時が来たら、潔く身を引くわ」
「後から遺言を変えないで下さいね。フィレンツェ観光の後に片手を失いたくないでしょう?」
瑠海は宣戦布告と捉えた。しかも自分の祖国をネタにされて。自然と奥歯を強く噛み締めている。悟られないように静かに力を抜く。
彼とはバレンタインの日に和解はしたものの、その後に特段何かをしているわけではない。自分から行動せずに奈央や沙埜に甘え、目の前に連れてきてくれるきっかけを願っていただけだ。
…このままではダメだ。
そう思うも、自分も人の事が言えない。彼女でも無ければカラダだけの関係でもない。半分、彼を脅して抱かせたようなものだ。
今考えると彼女の事を責め立てたが、自分も同類だったではないか。
ああ、自分がわからなくなる。貴方の事となるとどうしてこうも心が揺さぶられてしまうのか。
恋人のように甘く、兄のように優しく、弟のように謙虚で、父のような慈愛で私を包み込む。
もう、彼以外に人を愛する自信が無い。だから、お願い。私の元から去らないで。私を忘れないでいて…。
廊下に佇み、無意識に唇を噛む。
私が、嫉妬している。
いえ、恐れている。貴方がいなくなることを。