#88 : すれ違い。
懐に瑠海から貰ったチョコを抱え、嬉しさのあまりスキップしそうになる足を必死で抑える。
急くな急くな。こんなとこでスキップしてたらアホ丸出しだ。しかし、小躍りしたくなるのは瑠海から貰ったチョコのせいでもある。
この紙袋はイタリア・トリノの老舗チョコレートではないか!お土産で貰ったあのヘーゼルナッツのチョコは、頬っぺたが落ちると言う言葉を見事に再現した美味しさだった。あのチョコがまた食べられるなんて!最後のchiをチでなくキと読むのは未だに間違えてしまうが。
瑠海の気持ちを受け止められた。俺の気持ちも伝えられた。止まっていた時間がゆっくりと流れ出す。こんなに素直に言えたのはいつ以来だろう。
もう、縛り付けなくて良いんだ。耐えなくても、堪えなくても、見て見ぬフリもしなくて良い。
サボっていたのと、貰ったチョコが嬉し過ぎるのをバレないようにコッソリと戻る。
今日の俺のデスクは珍しく散らかっている。5Sを徹底的に守り、部下にも叩き込んできた一課は、どの部署のどの課よりもキレイだと常に讃えられてきている。ただ単に探し物をしている時間が無駄だからなんだけどな。
デスクが浮ついている原因は色々な部署から、色々な方達から戴いたお気持ちだ。九割九分九厘が義理だ。とは言え残りの一厘はまだ無いから全て義理なワケだ。
嬉しい反面お返しもそれなりになるので、課長になってから毎年悩みのタネでもある。
未だに貰った数で優劣を競う輩がいるが、お気持ちを戴ける事に感謝が無い時点で終わっている。つい先日まで自分の心すらわかっていない俺が言うのもアレだが。
甘いものが大好きな俺としてはお返しに頭を悩ませながらも、これだけ沢山のチョコをツマミに酒が飲めることが幸せ過ぎて感謝しかない。ウイスキー、ブランデー、ワイン、シャンパン…秘蔵コレクション達を開ける時が来たのだ。
ふと見ると、先ほどまで無かった紙袋が一つ増えている。戴いたお気持ちは数十を超えるが、全て名前と顔が一致している。記憶力が良いのは唯一の取り柄なんでね。誰だ、執念深いなんて言うヤツは。
この紙袋はベルギー王室御用達で有名な高級チョコではないか…!この時期は買うのに何時間も並ばないと手に入らない。DIをディと読むかダイと読むかで分かれるが、俺は日本読みにならってディの方で呼んでいる。
チョコと一緒に小さな封筒が入っている。中には小さく畳まれた手紙。書かれている文字も小さく、誰が置いていったかスグにわかった。
このとてもクセのあるこの文字、麻生だ。
『いつもお世話になっております。ささやかではございますが、感謝の気持ちを込めてお送りいたします。追伸 直接お渡し出来なかったので、不躾ながらデスクに置かせて頂きました。麻生』
…なんてこった。瑠海とカフェで和解宣言をしている間に麻生が渡しに来ていたのか。やっちまった。
スグにメッセージを送ろう。俺はこう言う気持ちを蔑ろにしたく無いんだ。例え義理だとしても。
本当なら直接会って伝えたい。あれからなんと無しに火曜会は順延続きで、麻生にも会っていない。今なら、時が動き出した今なら、この俺の固いやり取りを打破できるのではないか?コレを逃してしまったらー
…落ち着け。クールになれよ、オッさん。
ディと読むならダディ・クールで行こうぜ。
良く考えろ。ソレは麻生が望んでいることか?俺だけの気持ちじゃないのか?
瑠海と、四ツ谷と、沙埜ちゃんとも違う。彼女には守るべき家庭があるんだ。俺がほいほいと首を突っ込んでいい女性ではない。
置かれた環境が、住む世界が違い過ぎる。ましてや俺は派遣先の上席だ。その立場からやって良いこと、悪いことの分別も付かないなんて、俺だけで無く会社自体が疑われかねない。それにこれ以上、大井さんに隠し事を増やすワケにはいかない。
『お世話になっております。お手紙拝見致しました。ささやかなんてとんでもない事です。頂戴いたします。ありがとうございます』
…なんだかんだで封印しなくちゃいけない気持ちもある。そう、大人なんだから。考えればわかること。ただ、それを嘆くよりも暖かい気持ちで見つめられるようになれ。それも大人なんだ。そう思いメッセージを送信する。
俺はただ歳を重ねるだけで、優と大して変わらない事に気がついちまった。
缶コーヒーはすっかり冷めていた。




