#87 : 気持ちを伝えたくて
今日は聖バレンタインの日だ。
相変わらず信仰に関係無く祝い事が好きなこの国は、殉教の日だとも知らずに、菓子メーカーによって後から作られた”チョコレートと愛を送る日”を老若男女で楽しんでいる。
昨今では女性同士の友情のために送り合う風習も見受けるが、今日を一大イベントと捉える男女は少なからず存在している。気持ちも一緒に伝えるかどうかは別として。
「た、食べすぎて天国が見える…」
「大丈夫かっ!?お前は誰にも貰って無いんだ!」
「ち、中毒でも起こしたんスかね…?」
現実を受け止められず幻覚を見る和田に寄り添う小畠。この師弟コンビは課は違くなったが今でも健在だ。周りはアホとしか見ていないが。
和田を慰めた後にトイレから戻ろうとしたら、待っていたのか美希に声をかけられる。
「コレ…、いつもの感謝の気持ちです!」
顔を真っ赤にしながら手渡してきたのは、ピンクのリボンが巻かれた四角い包みだ。
「あ、ありがとう。感謝だなんて」
釣られたのか彼も赤くなる。二人が赤くなる理由は二人しか知らないが、給湯室なら誰にも咎められないだろう。
「改めて、お花もありがとうございました!」
二人きりで話したのは大雪の後くらいだから、かれこれ三週間近くまともな会話をしていない。小畠が送った花のお礼はまだ不安なのもあって、敢えて課の皆んながいる前で伝えた。無下な扱いをされたく無かったから。美希の行動で、新卒の誕生日に花を送る風習が出来てしまった。
お互いに距離感がわからなくなっているが、あの日のように拒絶された態度でないことから、美希は優しい小畠に戻ってくれたことが嬉しかった。
そんな気持ちを察してか、自然と話せていたのに意識してしまい上手く話せなくなる小畠。気まずさから美希に紅茶を、自分にコーヒーを自販機で買ってデスクに戻る。美希はそのまま店舗へと向かっていった。
小畠のデスクには大小それぞれのチョコが所狭しと置かれている。彼自身の人気もあるが、課長と言う役職もあり九割以上が義理だ。嬉しく思う反面、お返しに毎年悩んでいる。
『ヴヴッ…』
業務端末がメッセージが届いたと現実に引き戻す。
『どこにいるの?』
…瑠海からだった。
奈央の店で三行半を突きつけられて以来、こちらもずっと会話も顔も合わせていない。
『見つけた。少し外に出られるかしら?』
デスクに戻ったところを確認されている。と言う事は彼女も社内にいるはずだ。キョロキョロと見渡すが見つからない。
上着を羽織りながら入って来たばかりのドアをまた出て行く。部下達は忙しそうにしている彼を見て、課長にばかり負担をかけてはいけない、と盛大に勘違いをして業務に取り組んでいた。
エレベーターを降りて外に出る。
『少し歩いたカフェに居るわ』
メッセージと共にGPSのマップ画面が送られてくる。火曜会のカフェではないか。少し早歩きで向かう。
「いらっしゃいませ!お久しぶりですね!」
いつものコが元気よく挨拶をしてくる。
「この前はありがとう。助かったよ」
「いえいえ!いつでもお待ちしていますね!」
淹れたてのコーヒーと笑顔を渡される。
「…貴方って人は性別が女なら誰でも良いのね」
久しぶりに会ったと言うのにつれないご挨拶だ。
「ひ、久しぶり。ここで良く研修してるから、憶えられてるだけだよ」
事実を言ったまでだが、言い訳がましく聞こえてしまう。
「まあ良いわ。こないだ沙埜と飲んでたでしょう?」
どうしていつもこんなに鋭いのか。そして睨まれた蛙になってしまうのか。今回は美希の時とは違う。そう自分に言い聞かせて返事をする。
「ああ。二人とも誘ったけど断られたってね」
悪びれる様子もなく事実を伝える。
「その様子だと沙埜に同情して、と言うワケでは無さそうね」
「…一つの賭けをした。来るか、来ないか」
音を立てずにカップをソーサーへと置く。瑠海は彼のこう言うところが好きだった。自信があるのにひけらかさない。同席者を不快にさせない自然な気配りが彼と言う人物を物語っている。
「…勝敗は?」
「ドロー、だ」
俯きながら哀しそうに笑う彼を見て、瑠海は心が締め付けられた。
「俺も破れ被れで予定が空いている、とだけ返事をしたんだ。瑠海が来てもどうして良いかわからないクセに。まんまと逃げられたけどね」
「それでどうしてドローなの?」
彼の眼差しはカップに揺れるコーヒーの水面を見つめている。
「そこまでだったら俺の負け。その後に俺は気付かされたんだ。なお君のトコで言われたことを」
ス…っと視線を上げて瑠海を見つめる。あの日とは違って芯に火が灯っている。ああ、私が愛した瞳。
「瑠海、四ツ谷、沙埜ちゃん。皆んなから向けられる気持ちがわからなくて、俺はおかしくなりそうだった」
哀しみは残れど、強い眼差しで瑠海を見つめる。
「ワケもわからなくなって、知らぬ間に泣いていたんだ」
彼の瞳から哀しみが一際に増す。冬の曇り空のように。
「自分の気持ちもわからないのに、ヒトの気持ちまでわかれるかって。思い切って縛り付けていた鎖を断ち切った。開放感でいっぱいだった」
照れ臭そうにカップに視線を戻す彼は、本当に涙したのだろう。
「…これは瑠海に言われなかったら気づけなかった。俺だけの力で成長できたのではない。瑠海が教えてくれたから」
上ずりながら彼女を見つめる。
「ありがとう。瑠海がいなかったらあの頃のままだった」
彼の言葉を聞いて、彼女はベージュのバッグから紙袋を取り出す。
「良かった。私の好きな貴方に戻れて」
テーブルにスッと紙袋を置く。
「あの日のままだったら本当にサヨナラをするつもりだったけど、安心して渡せるわ」
「へ?」
「意外と野暮よね。貴方って」
これまた鋭いことを言われる。粋で鯔背を自負していたつもりだが、瑠海からしたら野暮天なのか。
「…今回のことはお互いに悲しい思いをした。私も、貴方も。でももう責めない。蒸し返さない。貴方が変わろうと努力してくれたのだから、私も変わる」
そう言うと音を立てずに席を立つ。
「仕事に戻るわ。貴重な時間をありがとう」
「あ、ありがとう。いただくよ!」
背中に声をかける。瑠海からの返事のように、いつもの香りが彼を優しく包み込む。
瑠海も気持ちを伝えてくれた。それを受け止めれた。糾弾された夜から意識改革が行われている。瑠海のおかげでもあり、美希の、沙埜の力でもある。美希の影に弟子である和田がいることは知らないが。




