【短編】彼女が他の男と寝てたけど、それでも僕は愛し続ける
凍えるような風が吹き付ける冬の夜。この厳しい寒さを少しでも凌ぐために、マフラーを口元まで覆い厚手のコートを纏った体を縮めながら歩を進める。
今日は彼女と出会ってから3年の記念日。こういうことに疎い彼女は覚えてるか分からないけど、お祝いをするために仕事を早く終わらせて彼女の家に向かっているところだ。
でも彼女には今日家に行くことは伝えていない。それに彼女も予定があるらしくてまだ家に居ないかもしれないんだよね。つまり僕にとっては珍しく、サプライズをしようとしてるってことだ。
本当は一言伝えておくつもりだったけど、どうせなら彼女が驚く姿を見たくなってこうすることにしたんだ。
びっくりして目を丸くする彼女の表情を想い描く。少しだけ足取りが軽くなって鼓動が跳ねた。そんな僕の革製の手袋を着けた手が突っ込まれたポケットからは、彼女に渡すために選んだプレゼントの感触が返ってくる。
僕たちも出会ってから大分経ったし、そろそろ結婚を考え始める時期だから奮発して指輪を用意した。サプライズでプロポーズなんて僕に似合ってないし賛否両論かもしれないけど、記念日くらい何か特別な事がしたいんだ。
僕と彼女の出会いは何の変哲も無いモノだった。3年前仕事の都合でここに引っ越してきた僕は、初めての土地を色々と見てみようと散歩をしていた。でも家にスマホを忘れてしまって、気付いた時には迷子になっていた。いい歳した大人が情けないけど、その時の僕は本当に困っていた。
そんな時、一人の女性が僕の様子を見て声をかけてくれたんだ。綺麗めの美人といった風の彼女の親切を受けた僕は、そこで恋をしてしまった。我ながら単純すぎるな、と思わず苦笑いが漏れてしまう。
その後はどうにか彼女に近付けないかと試行錯誤して、何とか今の関係にまで進むことができた。僕にしてはよく頑張った。自分を褒めてやりたい気分だよ。
おっと、そろそろ彼女の家に着きそうだ。もう見慣れた風景になったここも、最初はドキドキしながら通ったものだなあ。
思い出に浸りながら人気の無い暗い道を真っ直ぐに進み、一般的なマンションに辿り着く。意外とセキュリティのしっかりしたところだから、入る時に鍵を使うかインターホンを鳴らさないといけないのが手間なんだよね。彼女の安全を思えばこの程度は大したことじゃないけどさ。
手慣れた動作で合鍵を取り出し、彼女の部屋に向かう。静寂が包む空間に僕が歩く靴音だけが響き、自分の息遣いが鮮明に耳に残る。
ここに来る度に思うけど、部屋の壁が厚いのかマンション内だというのに全く音がしないのが少しおかしく感じてしまう。なんだか不気味だし、幽霊が出そうに思えて心なしか早足になりながら移動すること数分。
彼女の部屋の玄関扉。そこで一度深呼吸をして心を落ち着ける。大丈夫。今日は珍しく髪をセットしたし、服だってこの日のために買った。それにプレゼントがあるんだ。だから絶対に上手くいく。
そうやって自分に言い聞かせて、無理矢理に覚悟を決めていく。意気地無しの僕は緊張すると脚が震えて動けなくなってしまうから、大事な時や不足の事態が起こった時にはこうして自分を勇気づけるんだ。
そんな一種のルーティーンを終えた僕は、意を決して扉に鍵を差し込んで捻る。
カチャリ
僕の気持ちとは反対の少し軽い解錠音が響く。
彼女がいた場合に備えてゆっくりと扉を開けて中を伺えば、明かりの点いていない真っ暗な部屋が見える。良かった、まだ帰ってきていないみたいだ。
これでサプライズ計画の第一段階はクリアだな。そう思って玄関に体を滑り込ませた僕は、ふと違和感を覚えて動きを止める。何かがおかしい…?
違和感の正体を探るために辺りをキョロキョロと見回して、気付いた。
靴だ。
当たり前にある彼女の靴ともう1つ。見知らぬ男物のソレが無造作に並べられていた。
この瞬間、僕は最悪の事態を思い浮かべてしまった。まさか彼女に限ってそんなことがあるのか?今までこんなことは一度もなかったはず。きっと、勘違いだよな。そんなことあるはずないじゃないか。
先程と同じように繰り返される深呼吸。しかし、その意味は全く逆で。一つの真実から目を逸らそうとしていた僕に追い討ちをかけるように、今度は誰かの声のような音が聞こえてきた。
跳ねる心臓は急速に激しく鼓動し始め、全身から汗が吹き出す。本当に彼女がいないなら、この防音性の高い部屋では聞こえるはずのない声。
どうか勘違いであってくれ。そう願う僕は恐る恐る玄関から足を踏み出し、音の発生源の方向に進む。
荒い息を無理矢理に抑えながら、廊下を越えてリビングに入る。すると更に奥の部屋から明かりが漏れているのが見えた。確かあそこは寝室だったはず…。
ダメだ、ダメだ、これ以上進んだら取り返しのつかない事になるぞ。今すぐ戻らないと…。そう囁いてくる本能に逆らうように、徐々に大きくなる彼女の艷声に僕は引き寄せられる。
そして既に誤魔化しの効かないほどハッキリと、情事の音が目の前の扉から響いてくる。僕の体は震えて痙攣寸前で、今にも倒れそうな朦朧とした意識で、諦めの気持ちと共に扉を開いた。そして静かにそこを覗き込む。
柔らかい明かりに照らされた部屋の大きめのベッドの上。彼女が、僕ではない男と身体を重ねていた。そして二人は激しく愛を囁き合う。
込み上げてくる吐き気と崩れ落ちる身体。何とか彼女に気付かれないために、這うようにその場を離れる。
どうして。どうして。どうして。
何とか辿り着いたトイレの中で自問自答を繰り返す。頭にフラッシュバックしてくる先程の光景。止まることの無い吐き気。
僕の何がいけなかったんだ。彼女があんなことをするなんて今でも信じられない。でも今なお聞こえてくる彼女の声が事実を僕に突きつけてきて。僕はいったいどうすればいいんだ。
全ての思いを込み上げてくる胃液と共に吐き出す。口の中に広がる気分の悪い酸味と、血の味。あぁ、いつの間にか唇を噛みきっていたのか。彼女の浮気現場を目撃したというのに、こんな場所で独り涙を流す自分がとてつもなく情けない。
胃の中が空っぽになる頃には幾分か落ち着いてきた。荒い息を鎮める為に深呼吸を繰り返す。大丈夫。まだ平気だ。
混乱して纏まらない思考と力の入らない身体。まずは一回頭をスッキリさせないとだめだ。そう思ってキッチンに向かって顔を洗う。そして、あることを思い付いた。
そうだ。分からないんだったら、彼女に直接聞けばいいじゃないか。彼女にだって何か理由があったのかもしれないし、話を聞かずに独りで自問自答し続けるなんて無意味すぎる。
まずは話し合いだ。僕らは人間なんだか分かり合えるはず。そうだよね?
いまだにハッキリとしない思考のまま、僕は思い切り扉を開く。目を丸くして驚く彼女の珍しい姿。計らずもこんな形で見ることになるなんてな。本当に見たかった筈なのに、こんなに嬉しく無いとは僕がビックリだよ。
これは僕たちの問題。だから取り敢えず、彼女の隣にいる五月蝿い男を黙らせる。こんなに激しく怒ったことなんて無いから、彼女も顔をひきつらせている。ごめんね、僕だって初めての事に戸惑ってるんだ。
そんな僕の剣幕に、彼も僕たちの邪魔をしないように大人しく退場してくれたようだ。願わくば二度と戻ってこないで欲しいものだね。
僕は改めて、その場に座り込む彼女に向き直りその姿を見つめる。僕の視線から逃げるように後退り布団で身体を隠す彼女は、イヤイヤと首を振りながら涙を流す。
さぁ何でこんなことをしたのか教えてごらん。絶対に怒らないから安心していいよ。だから正直に話して欲しいんだ。僕に悪い所があったのなら直すし、君の為なら何だってする。
そうやって出来る限り優しく語りかけるが。彼女は泣きながらうわ言のように謝罪の言葉を繰り返すばかりで、まともな話し合いにならない。
これは彼女が落ち着くまで待ってあげた方がいいかな。そう思った僕は彼女に服を被せてから、隣に座ってその身体を優しく擦って宥めてあげる。震えながら涙を流す彼女は、それだけで僕の心を奪う程美しくて。さっきまでの怒気やモヤモヤが徐々に晴れていくのを感じる。
あぁ、そうだ。僕は本当に彼女の事を愛しているんだ。出会ったあの日から、僕は彼女の事だけを想って生きてきた。だから一度の浮気で、この三年間育んできた想いまで一瞬で無くなるわけないじゃないか。まだ何とかなる筈だ。きっと僕達はやり直せる。
彼女の様子を見るとまだ落ち着くには時間がかかりそうだから、今のうちに後片付けをしよう。それが終わったらなるべく早く僕の家に移るか。
さっきまで他の男がいたベッドで一緒に寝たくはないからね。ちゃんと落ち着ける場所に行った方が、彼女の為にもなるだろう。
そうして彼女を見守りながら、暫くその場に留まった後。
僕達は凍えるような風から身を守るように、二人で身体を寄せあって静寂が包む夜の中へと消えた。
◇
あの人生最悪の日から1週間が経った。
いまだに暖房が必須な肌寒い日々が続いているが、彼女がいるお陰で心は冷え込まずに済んでいる。やっぱり同棲って良いものだな。独りだと寂しいだけの食事や睡眠だって、彼女がいるだけで楽しくなるし心がぽかぽかするんだ。
そんな彼女は僕の家に来てからも精神的に不安定だったが、最近は大分落ち着いてきたみたいでひと安心だ。
あの件に関しては頃合いを見て詳しく話を聞こうとしてはいるのだが、どうも僕に何か原因があった訳ではないらしく今でも謝るばかりだ。
確かに僕は精一杯彼女を愛してたと思っているが、それでも一切原因がないなんて事は無いんじゃないかな。二人の問題なのだからお互いに話し合って足りないところを補うのは、これからも一緒にいる上で大切なことだ。
どうすれば彼女は素直に話してくれるのだろうか。朝食の後のコーヒーを嗜みながら、そうやって静かに物思いに耽っていると。玄関の方からインターホンが鳴る音が聞こえてきた。
こんな早朝に誰だろうか?
取り敢えず玄関のカメラから訪ねて来た人物を見る。そこにはスーツ姿の男が一人で立っていた。用件を聞くためにマイクをオンにして、カメラ越しに話しかける。
「はい。どちら様でしょうか」
『どうもこんな時間から申し訳無いのですが、自分はこういう者でして』
そうして男がカメラに見えるように掲げたのは、警察手帳。今まで見たことなんて無いから分からないけど、たぶん本物の警察の方なのだろうか。
『最近この付近で起きた事件についてお伺いしたいことがあるので、出来れば表で話したいのですが…』
何かの調査のために聴き込みをしているのか。うーん、別に知っていることも無さそうだし、わざわざ表に出る必要もないんだけどね。まあここは素直に協力してあげようかな。きっと人相とかを確認する目的もあるのだろうし。
「はーい。今向かいますので、少々お待ちください」
インターホンを切って、玄関に向かう。それにしても事件って何が起こったのだろうか。そして一度深呼吸をしてから、扉を開けて外に出る。男は僕の姿を数秒間じっくりと見た後、口を開いて話を始める。
「ご協力ありがとございます。実は先日この付近で殺人事件が起きまして。被害者は新婚夫婦の男性なのですが、奥様の女性が行方不明になっているのです」
なんだか大変な事が起きてるらしい。
「何か不審な人物を目撃したとか、変な物音を聞いた等の気になったことを教えて貰いたいのですが」
気になったことかぁ…。特に思い当たる事は無いんだよね。それに漠然としすぎて分からないな。
「うーん。特に思い当たらないんですけど、いつ頃の事なのかとかは聞いても大丈夫ですか?」
「そうですね。発覚したのは昨日の事なんですが、事件が発生したのは一週間程前だとされています」
「一週間前ですか…」
さすがにそこまで前の話だと僕も覚えてないよ。
「ここまで聞いといて申し訳ないですけど、一週間前の事までは覚えていなくて…」
本当にごめんなさいね。僕がそこまで言うと、男は一度頷いてもうひとつ僕に質問をしてくる。
「一応お聞きしたいんですが、一週間は何処かに行かれたりはしましたか?」
大丈夫。大丈夫。大丈夫。
「いえ。仕事から真っ直ぐ家に帰ったので、特に何処かに行ったりはしてませんね」
「なるほど。分かりました。私から聞きたい事は以上です。こんな時間から丁寧に対応して下さって助かりました。ご協力ありがとうございました」
「いえいえお勤めご苦労様です」
話が終わると男は深くお辞儀をして、僕の前から去っていった。
気が抜けた僕は、ひとつ大きな溜め息をこぼす。肌寒い朝の空気に僕の白い息が溶けていくのを見届けて、自分の家の中へと戻る。
なんだか少し話しただけなのに、朝からとても疲れた気がする。警察と話すなんて初めてだったから、変に緊張してしまったのかもしれない。
慣れ親しんだ我が家の匂いと暖かい空気に迎えられて、精神を落ち着けた僕はそのまま彼女の元に向かう。そろそろ彼女も起きてくる頃だろうから、さっき用意した朝食も持っていってあげようかな。
静寂が支配する空間に、トレーを持って歩く僕によって軋む廊下の音が響く。そして辿り着いたのは、少し奥まった場所にある一室。厳重に施された鍵を解錠して、扉を開けて中に足を踏み入れる。
そこには僕の愛しい彼女がいる。
ここ数日で随分やつれてしまったけど、どうか美味しいご飯でも食べて元気を出して欲しいな。そしたら、いつか二人で一緒に遊びに行こうか。後は結婚式も挙げたいよね。きっと君には純白のウエディングドレスが良く似合うと思うんだ。
最近の日課となった独り語りだけど、たまに彼女が返事を返してくれるのが堪らなく嬉しいんだ。浮気をしたことは残念だったけど、こうして話せば僕達はまたやり直せる。
だから。
僕が贈った婚約指輪を嵌めた彼女の左手の薬指を撫でながら。
今日も彼女に向けて優しく語りかける。
「何があっても僕は君を愛し続けるからね」
生温い空気が漂う静かな部屋に、彼女のくぐもった声が響いた。
恋は盲目。愛は…
よければポイント、感想を送ってもらえると作者が嬉しくてニコニコします!