藁のベッドは寝やすいと気づいたが手遅れだった
意外と、藁のベッドは柔らかいし、敷いてあるシーツは洗い立てなのか手触りが良い。
このまま埋もれて眠ってしまえばきっと良い夢が見られるに違いない。
そう、今この空間に漂っている、まるで「山菜をよく煮込んだにおい」に釣られて、さしずめ山菜の天ぷらを食べる夢。
「って、違ーう!!」
いきなり暴れて枕を叩いた涼太に、先ほどまで老婆の姿をしていた「涼太の姉」は目をぱちくりさせた。
年齢さえ言わなければ、容姿と言動と仕草だけで妹に勘違いされる、涼太の姉、明日香。
老婆の姿から一転、涼太より少し幼い雰囲気の女性に変身してしまった姉に、まだ涼太の頭は追いついていなかった。
明日香は、「ふぅん?」と何故か感慨深そうにため息をつくと、ロッキングチェアのひじ掛けに頬杖をつく。
腰まで伸ばした長い黒髪が揺れ、こちらをじっと見てくるのは、異様に真っ黒な瞳。
この黒い瞳が、涼太は苦手だった。いや、きっと小さい頃は憧れていた。
涼太の母親はどちらかというと色素が薄く、地毛も瞳の色も栗色に近い茶色で、涼太はそれをしっかりと受け継いでいた。
父親は、肌が白いという以外は、いたって普通の純日本人らしい、黒に近い茶色い髪と、日差しに当たれば茶色い瞳を持っていた。
なのに何故か姉は、日差しさえ吸い込むような真っ黒な髪と、外にあっても真っ黒な瞳をしていた。
最初は憧れていたが、涼太が虐められていた現場に乗り込んだ姉が、黙ったままいじめっ子を見つめていただけで、怯えて泣きながら走り去ったのを見て、「姉の目は普通じゃない」と思い込んだのが始まりだったと思う。
勿論、それは両親に相談したが、無駄に懐の広い両親は「個性があって素敵!」と、まとめてしまった。
それからは、涼太は諦めて、せめて姉に見つめられることだけは避けてきたつもりだったが…。
やらかした。
今現在。
枕を、2、3発殴って、いきなり奇声を上げれば、きっと姉じゃなくても誰でも見てくる。
どんどんと赤くなっていく顔を姉から背けて、涼太は改めてぽつりと言った。
「どういうことなんだよ、姉貴…。ここ、日本じゃないのか…?」
部屋、というか、小屋の中をぐるりと見回した後、涼太は改めて、元老婆今姉を見た。
右側に深いスリットが入った長いスカートをローブ状に着て、首から下がったネックレスの先には、紺碧の雫型の宝石がぶら下がり、明日香が微かに動く度にキラキラと陽の光を反射して煌めいている。
その上から黒に近い紺色のローブを羽織り、靴はヒールが高めの、こちらも真っ黒な革のブーツを履いている。
長い黒髪に真っ黒な瞳、そして白い肌は、本当に『魔女』そのものだ。
ていうか、さっき魔法と思われるものを使いやがった。
涼太はベッドに座り直して用意された服に着替えると、明日香に向き合った。
「説明、頼むわ。」
心なしか声が沈んでいる。
涼太の言葉に頷いた後、明日香はロッキングチェアに座ったまま、足を組み直した。
「悪い情報しか提供出来ないけど、良い?」
そう聞かれても、涼太は頷くしか無い。
「そう。じゃあ、ビビりなアンタの為に包み隠さず話すわ。」
話の内容が矛盾しているが、『弟をいぢりたい』姉らしい言い方だ。
「アンタの高校の終業式が終わりそうな夕方の4時頃、家に強盗が入った。」
書店を出た時に見た消防車と救急車が、走馬灯のように駆け巡る。
拭いきれなかった嫌な予感は、当たっていたようだ。
失いかけていた記憶が甦ってきたが、表情に出さないようにして、涼太は続きを促す。
「……で?」
微かに震える涼太の声に目を細めてから、明日香は続けた。
「親父が最初に遭遇したらしくて、強盗と揉み合いになった。その騒ぎに気付いて、母が警察に電話した。」
まるであらかじめ書かれていた文章を読むように淡々と続ける。
「親父が最初に強盗が持っていた包丁で刺されたみたいで、母の悲鳴で私は部屋から飛び出して玄関に行った。」
明日香の視線が上を向いてから、ゆっくりと瞳が閉じられた。思い出しているのだろう。
「血溜まりに倒れて呻く親父に、母と祖母が駆けつけていて、阿鼻叫喚だ。」
聞きたくない。知りたくない。
聞きたい。知りたい。
感情がない交ぜになる。
「強盗は祖母の髪を掴んで親父から放すと、慣れた手つきで首を掻き切った。逃げようとする母を追いかけようとしたから、私は咄嗟に母を庇って立ち塞がった。それから、邪魔だと怒鳴られて、右下腹から左肩にかけて熱いものが走った。」
後は分からない、と、明日香は喋るのを止めた。両手が微かに震えている。
涼太は、ただただ静かに、今は居ない強盗に向けた殺意と憎悪が沸き上がるのを、必死に堪えていた。
「…で?お前は?」
思考が暴走していた涼太は、一瞬何を言われたか分からなかった。
いつの間に瞳を開けたのか、じっと明日香がこちらを見ている。
「あー……。」
頭を切り替えて、必死に記憶を探る。
書店から出て、救急車と消防車が通り過ぎて。ゆっくりと思い出していく光景。
そして、届いた、母からの最後のメール。
『かえつてくるなあふない』
『帰ってくるな危ない』
じわりと目頭が熱くなって鼻腔がツンと痛む。
自分の危機を察した母からの、本当の最後のメッセージだった。
涙ぐむのを見られたくなくて、涼太は明日香に背を向けた。
明日香の話が真実だとしたら、家族はもう、皆死んでしまったかもしれない。
母は、自分にメールを打ち込んでいる最中に、襲われたかもしれない。
死んだかもしれない。
………ん? 死んだ?
そこまで考えて思考が止まった。
先ほど明日香は、まるで『自分が殺されたように』教えてくれた。
「ふふ、自分の中で片づける前に教えてくれ。」
まるで涼太の中身を見透かしたかのように明日香が目を細めて笑う。
「お前は、どうしてたんだ?」
その目に悲しみは無い。
涼太は頭を振ると、霞んでいた記憶を辿り始めた。
「俺、は……」
小説を言われた通りに買い占めて書店を出たこと。
しばらくはこの書店に出入り出来ないと、こっそり母と姉を恨んだこと。
ずっしりと荷物を持って外に出たら、救急車と消防車の激しいサイレンが耳をつんざいたこと。
メガホンで叫んでいた誰かの声のこと。
コートのポケットに届いた、母の、最期のメールのこと。
耐えられずに、荷物を放り投げて、コートを投げ捨てて走り出したこと。
燃え上がる家。群がる人たち。叫んでいる、仲良かった向かいのおばちゃんの声。
警察に止められながら必死で伸ばした手。
轟音がひときわ強く鳴ったかと思ったら、押し寄せてきた熱い爆風と、硬い衝撃。
痛み。それより大きく強い耳鳴りと、遠のいた意識。
すべてを話し終えて、涼太は自分が少し過呼吸を起こして息切れになっていることに気づいた。
「いけない。休んで」
明日香が片手をひらりと一振りすると、体が勝手に動いてベッドに潜り込んだ。
ああ、藁のにおいが、なんだか、好きだ。
小さい頃に嗅いだ、座敷の畳のにおいと似ている。
気を失うようにまた眠った涼太を見て、明日香はふと目を閉じると、大きく円を描いた。
光の粉が舞い散って、次の瞬間に現れたのは、なんとなく寝ている涼太と似ている青年だ。
「…なんだ。泣けるんじゃないか。」
小さく笑って、寝ながら泣いている涼太の目元をハンカチで拭いてやる。
すっかり男声になっているが、それでも声色は優しいままだ。
涼太は、いつでも、何があっても、涙を見せない子に育っていった。小さい時は泣き虫だったのに。
いつから人前で泣かなくなったのか、明日香は知っていた。
「…リキが…死んでからだな。」
ぽつりと呟いたのは、生まれずに亡くなった明日香と涼太の弟の名前だ。
7ヵ月と少しで母親の胎内で亡くなってしまったが、それを看取ったのは父親と、小学生だった涼太だと聞いている。
普通分娩で出産され、産声をあげなかったリキの顔は、涼太に似ていたという。
その時、涼太は、壁を見上げて、肩を震わせ、けっして泣き声を出さなかったと父親が言っていた。
幼い息子が泣き声をあげずに震えているのに、抱きしめてあげられなかったと、顔をくしゃくしゃにしていたっけか。
それ以来だ。
長年飼っていた愛猫が死んだ時も、祖父が自宅で亡くなった時も、人前でけっして泣いていない。
知らない親戚は、涼太のことを「冷たい奴だ」と言っていたが、それは違う。
自分が泣いたら、つられて誰かも泣いてしまうから、亡くなった猫や祖父が悲しむから、涼太は泣かない。
人前ではけっして、絶対に態度を崩さない。
すべてが終わってから、風呂や自分の部屋で泣くような、そんな子なのだ。
次々と溢れてくる涼太の涙を拭いてやりながら、明日香は優しく小さく微笑んだ。
「安心しろ。…会わせてやる。」
後半の言葉には、どこか、意を決した力が込められていた。