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それから透子は少し休んだ。実質、野宿なので、寝台はない。外套をはおって大きな木の幹によりかかり、うとうとしただけだ。ちゃんと眠れるのは明日の朝以降だろう。
紅霞は雲翔と騒いでいた。互いに自分の《四貴神》を競わせ、やれどっちが勝ったの負けたの、言い争っている。カードバトルに興奮する日本の小学生のようだ。
『闘鶏ではないのだがな…………』
女神のお電話様がぼそっと、低い声で呟く。
透子はかるく吹き出し、しきりにゆれる長い黒髪の動きを視線でずっと追いながら、先ほどの紅霞の言葉を思い返していた。
『ニホンに帰れ、透子』
真剣な、それだけにくつがえりそうにない声音。
「すずさん…………ちょっといいですか?」
『なんだ。《仮枝》の交代の件か?』
「交代…………できるんですか?」
『すでにお前の中に根づいている以上、推奨はしない。が、地球にはお前以外にも何名か候補がいる。お前が帰国を望むなら、そちらから新たな《仮枝》を探す』
「つまり、可能だと」
透子は理解した。
《世界樹》の《仮枝》としても、透子の存在は代替可能なのだ。
この世界には、どうしても透子でならなければならない意義は、存在しないのかもしれない。
(でも、だったら、だからこそ――――…………)
透子は己の手を見た。
ぐっ、とにぎりしめる。
「もう一つ…………いえ、二つ三つ、確認したいのですが」
「ちゅん?」
透子とスズメの会話は、紅霞達には届かない。
一方、紅霞もまた暴れずにはいられなかった。
透子に告げた言葉は嘘ではない。
嘘ではないが、透子を失うのは、やはりつらい。我が儘を言いたくなる。
一人なら、きっと前言を撤回していた。
気持ちをぶつける手段と相手がいて、本当に良かった。
「お前がいてくれてよかった」
「ん?」
「まさか、お前相手にこんな台詞を言う日が来るなんてな」
「待て、今なんつった!?」
「なにも言ってねぇよ」
「いや、言っただろ! なんて言った!? なんか、すごくいい台詞だった気がする!!」
「言ってねぇ、つってんだろ!!」
「いーや、言った!!」
そこから何度目かの小学生の喧嘩が再開する。
旅人も通らぬ街道の脇で、青年達の怒鳴り声が夜空に吸い込まれていった。
朝。東の空が白みはじめた頃。
透子は「ちゅんちゅん」と、すずさんに頬をついばまれて目を覚ました。
紅霞と雲翔はすでに起き、今日の予定を話し合っている。
「とりあえず、俺達は国境を越えて涼竹国に入る。《四姫神》の件があるんで、当面は艶梅国には戻れない。お前はどうする? 雲翔。涼竹国に行くわけにはいかないだろ? 街の外まで送るか?」
「そうだなぁ。顔は隠してたが、花街の連中を敵に回したし。このまま街を出て、露月にも誰にも何も言わないよう釘を刺したら、夕蓮に戻って担当区域を変更してもらうしかないな」
「言っとくが、お前の《白虎》も透子がいないと使えないからな。街に戻るなら、いったん透子と一緒に…………起きたか、透子」
「おはようございます、紅霞さん、雲翔さん」
荷物から櫛を出して寝乱れた髪を梳いた透子は、紅霞と雲翔のもとに寄った。
「このあとのことなんだが」
そう話し出した紅霞の言葉を「その前に」と手をあげてさえぎり、透子は切り出す。
「少しだけ。私から少しだけ、お話の時間をいただいていいですか? 紅霞さん」
「お、おう」
透子の真剣な表情と口調に、紅霞は少し怯んだようだった。
透子は深呼吸して、背の高い紅霞の顔を見あげる。
「あのですね、紅霞さん」
透子は勢いに任せることにした。
「昨夜一晩、考えたんですけど」
「おう」
「私、やっぱり帰りません」
「え…………」
「帰らないというか、帰れません。紅霞さんはこんなに大変で生きづらくて、翠柳さんがいなくて、任せられる人もいなくて。それから仕事もないし、私も大した額のお金は残せないし、短気で喧嘩っ早くて大人気なくて、寂しいくせに人の好き嫌いが激しくて」
「…………」
紅霞が本気で傷ついた表情になる。
「ぷっ」と背後で吹き出す声がしたと思ったら、「ちゅんっ」と甲高い声までつづいた。
「でも、私はそういう紅霞さんのそばにいたいんです。紅霞さんの力になって、紅霞さんと一緒に生きていきたい。昨日、さんざん思い知ったんです。私の居場所とか存在理由は、この世界にもあちらの世界にもたいしてなくて、だから私は、私自身の手でしっかりつかまえておかないと、あっという間に失ってしまう。『ここにいてくれ』と、世界に求められるのを待っていたら、一生呼ばれないまま終わってしまうんです。だから私は、私の生きる場所や理由は自分で決めて、自分でつかみたい」
見おろす自分の手は、十歳若返ってはいるけど、やっぱり頼りないまま。
けれどそれは、あきらめる理由にはならなくて。
「だから私は、ここにいます。この世界にいて、紅霞さんと一緒に生きたいんです。いさせてください。だからですね、ええと、つまり…………」
うまい話の着地点が見つからない。言葉がわからない。
「ええと…………」
透子は勢いのままに吐き出した。
「結婚してください、紅霞さん! 結婚しましょう! そうしたら、一緒にいられます!!」
「…………っ」
紅霞が目をみはる。
頬がみるみる紅潮していくのが、明けていく空の下でもわかる。絶対、朝陽の色ではない。
「あ、でも翠柳さんを忘れてほしいとか、そういう意味ではなく、そちらはそちらで覚えていてくださって、全然かまわないのですが…………」
(もう、なにを言ってるのか、自分でわからない…………)
透子は額が汗ばんでいることに気づいて、拭う。
紅霞から返答はない。
お断りだろうか。
おそるおそる顔をあげてみると、紅霞は真っ赤になったまま、嬉しいような困ったような苦しいような、複雑な表情を浮かべていた。
「俺は…………透子を幸せにできるか、わからない」
「紅霞さん」
「金を持っていないとか無職とか、そういうことじゃないんだ。仕事はこれから探せばいい。けど…………俺は透子を抱けるか、わからない」
「試してみるか」と紅霞に言われた夜を思い出す。
「透子が残ってくれても、透子を幸せにできるかわからない。普通の家庭を与えてやれるか、わからない。最悪、俺は透子に『産まず女』の不名誉を負わせることになる」
「別に、子供は他の夫に任せればいいだろ?」
口をはさんだのは雲翔だ。こちらは一妻多夫制なので自然な発想だ。
しかし。
「俺が透子に、他の男に触れてほしくない!!」
叫ぶように紅霞は断言した。
「その…………俺の母だって四人の夫がいたし、父だって母の夫の一人だったし、今の世の中、そういうもんだと、頭では理解している。けど…………俺は翠柳一人で、それが幸せで当たり前と思っていたから…………今さら透子だけ他のやつらと共有なんて、無理なんだよ」
真っ赤な、それでいて泣き出しそうな顔で、紅霞は視線をそらす。
透子は熱で胸がいっぱいになる。
そうだ。本来、紅霞は独占欲の強い人なのだ。
紅霞の自分に対する欲を感じて、透子はめまいのような幸福感に襲われる。
もうこれ以上、どんな言葉も必要ないと思えるほどに。
「いいじゃないですか、紅霞さん。それでも」
透子は自分の出した結論を、大事な人に伝えた。自信を持って。
「人には人の数だけ、形があります。私達には、私達だけの形がありますよ、きっと。普通の人達が当たり前に手に入れられるものが、私達には手に入らないかもしれません。でも、かわりに普通の人達が手に入れられないものを、私達は当たり前につかめるはずなんです。私はそれを、紅霞さんとつかみたいんです」
一歩、踏み出す。
紅霞の大きな手を透子の小さな手がとった。
見あげた透子の視線が、紅霞のそれとまっすぐ重なり合う。
「一緒にいてください、紅霞さん。私、紅霞さんが好きです。世界を捨てて新しい世界に行きたくなるほど、あなたと一緒にいたいんです」
「…………っ」
紅霞は声がふるえた。
「透子は、家族がいる。家族のもとに戻って金を手に入れて、母親の病気を治さないといけないのに…………」
「それは昨日、すずさんに調べてもらいました」
「ちゅんっ」
女神の電話が透子の肩で胸をはる。
「簡単に言うと私の場合、子供がいないので遺産の三分の一を両親が、三分の二を夫が相続するそうです。で、さらに調べてもらうと、母と甥の治療費は、その三分の一以内でおさまるそうです。だから私があちらに帰らず、死亡扱いになっても…………母達は助かるんです。私がいなくても…………」
透子はいったんうつむき、唾を飲んで呼吸を整える。
「母達は大丈夫。私の家族は大丈夫なんです」
透子は笑った。泣き笑いの表情だった。
紅霞は喉がふるえた。感激からか罪悪感からか、自分でも区別がつかない。
「透子は…………それでいいのか? あんなに帰りたがっていたのに、本当にそれで…………」
「なんだ、はっきりしない男だなぁ」
いっそ雰囲気をぶち壊すほどあっけらかんとした声音で、雲翔が割り込んだ。
「お前ってやつは本当に、ここぞという時は情けない。翠柳の時もぐだぐだ迷った末に、大事なことは全部あいつに先に言われて、今回も同じくりかえしか。一度くらい、ばしっと自分の意志で決めてみせる度胸はないんか、情けない」
紅霞が灼熱の視線で雲翔をにらみつけるが、雲翔はどこ吹く風。
「ちゅんっ」
すずさんにまで咎めるように鳴かれて、紅霞は透子の肩を恨めし気に見おろした。
が、表情が変わる。
紅霞は透子の肩をつかんだ。すずさんが透子の肩から雲翔の頭に移動する。
「それでいいのか?」
紅霞はまっすぐ透子を見つめてきた。
「もう二度と、家族に会えないかもしれない。俺といても、普通に幸せにはなれないかもしれない。普通の家族も持てないかもしれない。それでも後悔しないか? 帰りたくならないか?」
「帰りたいとは、ずっと考えると思います。これからも、何度も。でもそれ以上に、紅霞さんと一緒に、二人で人生を歩んでいきたいんです」
がばっ、と、おおいかぶさるように紅霞に抱きしめられた。透子は広い胸に閉じ込められて、前が見えなくなる。
「だったら離さない」
紅霞が言いきった。
「二度と、絶対に離さない。『帰れ』と言わない。帰りたくなっても――――帰さない。だから一緒にいてくれ、透子。俺は――――透子が好きなんだ、愛している」
「――――はい」
透子も断言した。
「私も紅霞さんが好きです。愛している」
金色の光が射し込んで、太陽が地平の彼方から姿を現す。
陽光の中に紅霞の、透子の笑顔が照らされ、にじむ涙がきらりと光る。
朝陽の中、気遣って離れる一人と一羽を背に、透子は初めて紅霞と唇を重ねた。
「あ、そうだ」
長い長いキスのあと。
紅霞は「今思い出した」というように、透子に告げた。
「昨日から言おうと思ってたんだ。その服、似合っている。やっぱり女物も可愛いな」
髪はとうに解いて梳き直し、注した紅も薄れていたけれど。
昨日、オークション前に着替えさせられた透子の女物の薄紫色の衣装を見て、紅霞は笑った。




