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 翌日、透子は「離婚届を出してくる」と久々に外出した。

 母は「ついていく」と言ったが「一人で大丈夫」と透子は笑って家を出た。

 笑えていた、と信じたい。

 まず銀行で通帳を受け取る。

 通帳には「0」が並んだ数字が印字されていた。


「…………夢じゃない…………」


 透子はうめく。

『高額当選した時から読む本』という冊子を行員からもらって、銀行を出た。


(本当に…………三億円、当たっていた…………現実よね?)


 心なしか胃に痛みを感じる。

 けれど、これで両親や姉に心臓の治療の話ができるようになった。

 今までは「もし、なにかの間違いだったら」という疑いが消えず、「実際に三億円を受け取ってから」と黙っていたが、入金が確認できた以上、今夜にでも三人に話したほうがいい。


「次は…………」


 透子はバス停にむかう。

 スマホで調べると「離婚届の提出先は、夫婦の本籍地か所在地にある役場」とさだめられていたため、バスで役場に向かう。

 バスを降りると、潮の香りと波の音に包まれた。

 透子の家からは見えないが、ここまでくると海が目と鼻の先だ。

 透子は少し遠回りをして、海岸に沿って伸びる歩道を歩いて役所にむかう。

 波が陽光を反射し、千の欠片、万の欠片を散らしたようだった。

 こんな日に限って、どうして憎らしいほどの晴天なのだろう。


(結婚式の前、謙人とここに来たのは、ほんの二ヶ月前なのに…………)


 透子は涙をぬぐった。

 忘れろ、と自分に自分で命じる。

 この晴天もきっと「前を向け」という、神様のお告げの一環。

 謙人とは、もうこれきりだ。

 役場で離婚届を提出したら、謙人にメールで伝える。そしてすぐに謙人の名前をアドレス帳から消去して、メールも電話もすべてブロックするのだ。


(仕事のことも考えないと。最悪の場合は転職も視野に…………)


 あれこれ考えていると、ふいに透子は大きな影の中に入った。

(あれ?)と顔をあげた時には、大きなトラックの大きなフロントガラスが迫っている。

 フロントガラスの中で、ドライバーがハンドルを放してスマホをいじっているのが見えた。

 透子の体は大きく飛んで、歩道脇の海へと投げ出された。






 潮水に飛び込んだ感触が知覚できたか、どうか。

 透子の意識は急激に遠ざかっていく。


(このまま…………死ぬの?)


 前を向こう、そう決意した矢先に。


(それも…………いいかもしれない――――)


 決意はしたものの、やはりそれはとても長い道のりに思える。

 ここで終わることができるなら、それはそれでいいではないか。

 事故なら、透子が自ら人生を捨てた、と非難されることもない。


(お母さん…………お父さん…………)


 先立つ不孝を謝ろうとして、はたと思い出した。


(――――三億円! まだ、お母さん達に渡してない!!)


 あの三億円を渡さなければ、母も颯太も手術ができない。


(私が死んだら…………あの三億は…………)


 透子の脳裏に悪夢のような予想がひらめいた。


(あの三億円…………謙人に!?)


 透子はまだ離婚届を提出していない。法律上は、まだ謙人と『夫婦』のはずだ。

 ということは、透子が死ねば、あの三億円は『夫』の謙人が『相続』してしまうのではないか?

 それは駄目だ、と心から痛烈に思った。

 現世を離れかけていた魂が、肉体にとどまろうと手を伸ばす。

 冗談ではなかった。

 謙人は今、透子を傷つけ捨てて、新しい女と幸せな人生を歩もうとしている。

 そんな彼に、どうして大金まで譲らなければならないのだ(むしろ透子が彼から慰謝料をもらう立場である)。

 仮に、謙人があの三億円を手に入れたとして。

 母や颯太の治療に使ってくれるだろうか?

 ただ愛美との結婚生活に費やすだけではないか?


(駄目…………死ねない…………まだ死ねない…………っ!)


 意識が途切れた。






『――――死にたくないか――――?』


 一途に(死にたくない)とくりかえす魂に、応えの声が響く。


(誰――――?)


『私は×××。お前の知識と知能で理解できる表現をするなら、お前の生きる世界とは異なる世界を司る、『神』と呼ばれる存在。異世界の女神だ――――』


(異世界の…………女神…………?)


 青い水の中。

 透子は息苦しさを感じることもなく、その青の中に浮いている。

 目の前に在るのは、圧倒的な力の気配と存在。


『この姿なら、理解しやすいか?』


 青い海の中、金色の光が集まって凝固し、一つの姿が現れた。

 長い髪、しなやかな手足。白く長い、ドレープをきかせたシンプルなドレス。首や腕に重そうな黄金の首飾り(ネックレス)腕飾り(アームレット)を飾り、白い額には大粒の宝石がはまった額飾り(ラリエット)が輝いている。


 女神は少女にも大人にも見えた。少女というには落ち着きと風格があり、女というには初々しい。そういう顔立ちとたたずまいだった。


(どこかで見たような…………)


『この姿は、お前の頭脳に蓄積された情報の中から、お前が持つ『女神』のイメージを基に、即興で作ったものだ。本来の私の姿ではない。一つの世界を司る私が直接、こちらに赴くのは重大な違反行為なのでな。だが人間は顔があったほうが、会話しやすいのだろう?』


 自称『女神』の言葉に、魂は納得した。

 どうりで漫画で見た女神キャラに似ているはずだ。

『本題だ』と女神は言った。


『私と契約しろ。ならば、対価としてお前の命を助けてやろう』


(契約…………?)


『これだ』


 女神は丸い物を持っていた。

 大きな林檎ほどの大きさで、淡い虹色に輝いているが、その輝きはどこかくすんで見える。


『これは我らの世界を支える《世界樹》の《種》。現物は持ってこれないので、これも幻像だが。これがもっと成長して、新たな世界の礎へと変化する。だが』


 女神の声にほんの微量、苛立ちが混じる。


『この《種》は衰弱している。力を蓄える前に、落果してしまったのだ。かの人間の愚行によって』


(かの人間?)


『それは、お前の知る必要のない事柄。お前に求めるのは、この《種》の《枝》となることだ』


(…………《種》の《枝》…………?)


『この《種》は弱っている。本来なら、《世界樹》の枝に戻して回復を待つべきなのだが、今は《世界樹》のほうが傷を負ってしまったので、《種》を戻すことができない。《世界樹》が癒えるまでの、一時的な仮の《枝》。その役割をお前に頼みたいのだ。お前の肉体と霊体は、この《種》を受け容れ、同化できるだけの器と相性を有している』


(器と相性…………私が?)


『弱っているとはいえ、一つの世界を支える神樹、その《種》だ。我が世界には、この《種》を受け容れる素質や実力を備えた生き物は存在しない。故に、他の世界を探したのだ。我が世界には存在せずとも、異なる世界なら我が世界には稀有な生き物が、当たり前のように無数に存在している』


(それが…………私?)


『そう。《種》を受け容れ、かつ、精神的にも肉体的にも安定を保てる素質を有した、肉体と霊体の持ち主。我が世界に連れてきても、拒絶反応を起こさない体質と霊質を持った生き物。その検索結果が、お前だ。といっても、正確には候補の一人だが』


 女神は説明をつづける。


『お前なら《世界樹》の《種》を受け容れても、肉体や精神、霊体に異常をきたすことはない。我が世界で《種》の《仮枝》となるなら、お前の命は保証し、今の時点でのお前の死の回避をこの世界に認めさせよう。この世界とは話がついている』


(待って…………いきなり、そんな…………)


 魂は戸惑う。不思議なことに『思考が追いつかない』という反応は皆無だった。

 まるで脳に直接、多大な情報を入力して解析していくかのように、女神の言葉はすんなりすべり込んで、どんどん理解されていく。

 魂は決断を迫られた動揺があるだけで、事態と事情そのものは完全に理解していた。

 これが『女神の話』というものか?


(あなたの世界『で』ということは…………この世界を離れるの? 家族と…………日本と離れ離れになるの?)


『そうだ。仮にも、一つの世界の礎となる存在。別の世界に置くわけにはいかない。この世界にとっても、深刻な厄災を引き起こす迷惑な行為だ』


(そんな…………それは…………)


『二年間だけだ。二年あれば《世界樹》も回復し、《種》を戻せる。その後、お前をこの世界に戻すと、我が名において確約しよう』


(二年…………その間、私は行方不明になるの…………?)


『お前が望むなら、事故に遭ったこの時点に戻すことも約束しよう。異世界への転移なら、二年後に時間を調整するより、同じ時間座標を目指すほうが容易い。世間には『事故に遭ったが奇跡的に助かった』と判断されるだろう。そのまま望む人生を歩むがいい』


 それなら…………と魂がゆらぐ。

《種》とやらが、どんなものか。本当に透子の体や精神に異常をきたさないのか。女神の言葉は真実か。

 保証はどこにもない。

 だが二年。

 二年間、別の世界でがんばれば、生きて日本に戻ってくることができるのだ。

 三十歳にもなると、二年は短くはないが、特別に長いというほどの期間でもない。


『受け容れるもよし、拒絶するもよし。強制はしない。他に候補はいるしな。断るというなら、別の者に話を持って行くだけだ』


 それは実質的な脅し文句に聞こえた。死を前にして、それを回避する手段をちらつかせられて、取引に応じない人間がどれほど存在するだろう。

 だが、そうとわかっていても。


(私は…………まだ死ねない)


 ただ死ぬだけなら、受け容れてもよかった。

 前へ進もうと決意しても、愛した男性に裏切られた傷は深く痛み、癒えるまでの道のりは途方もなく長い、苦しい道のりに感じられた。終わりにできるなら、それもかまわない。だが。


(ここで私が死んだら…………あの三億円が、謙人のものになってしまうかもしれない。あの三億円で…………お母さんや颯太達の病気を治すまでは…………まだ死ねない…………!)


 魂は決意した。


(本当に…………異常はないのね…………?)


『ない。仮にも、一つの世界を司る女神の判断力と計算能力をあなどるなよ?』


(…………わかった)


 魂は宣言した。


(あなたと取引する…………私を――――生きさせて!)


『交渉成立だな』


 女神の長い髪が大きくゆれた。


『お前はこれから二年の間、我が《世界樹》の《種》の《仮枝》となる。その間のお前の命や安全、生活は、この×××が保証しよう。どのみち《種》を宿せば、肉体は自然と健康な状態を維持するだろうが――――』


 女神は白い手をひらりと振った。


『肝心のお前の肉体が、この有様ではな』


 魂は驚愕した。

 海の中、足もとに肉体がある。水瀬透子の肉体が。


(私…………!? どうして…………)


 透子は無残な有様だった。服が大きく裂けて赤く染まり、手足の関節はおかしな方向に曲がって、下半身と上半身が千切れかかっている。

 普段なら間違いなく嘔吐して、一生もののトラウマになっているはずだ。

 女神はさらりと言った。


『自覚なかったのか? お前はすでに魂だけの状態で、妾と話していたのだぞ?』


(魂…………!?)


 透子は己を見おろそうとした。

 けれど肉体の感覚、見おろすべき肉体が見当らない。

 自分はただ、ぼんやりと海の中に浮いている。


(そんな…………これじゃ生き返るなんて…………)


 だが女神は透子の動揺にかまわず、一人で話を進めていく。


『肉体を治療し、魂を戻して《種》を入れればいいと思ったのだが…………肉体の損傷が激しすぎるな。欠損部分も多い。これだと、細胞の分裂を促進させて傷口の再生を促すところから始めなければならないな。再生した箇所もうまく接合しなければならないし、肉も骨も神経も一新する以上、平常どおりに動かせるようになるには訓練リハビリが必要となる…………面倒だな』


 女神は即、別の手段を思いついた。


『一から新しい肉体を産んで、そちらに魂と《種》を宿す。そのほうがてっとり早い。肉体と魂は同一なのだから、体質や霊質に変化が起きることはあるまい。――――うむ』


 女神は指を鳴らした。

 ぼろぼろの透子の肉体が、女神の目の前まで浮き上がる。


『卵子を一つもらうぞ』


 透子の下半身から白い小さな光が抜け出して、女神の手元におさまる。


(卵子…………?)


『初めから人間になるために用意された、お前の遺伝情報を有した細胞だ。一番てっとり早いだ』


 言い終わらぬうちに女神の手の中が輝き、光はどんどん大きくなっていく。

 これが『霊力』とか『神の力』と呼ばれる力だろうか。

 女神の手の中で小さなトカゲのような生き物が生まれ、そのトカゲは人間の赤ん坊になり、赤ん坊は幼児、少女へと成長していく。


『ふむ。《種》を宿す負担を考慮すれば、肉体は最盛期がよいな』


 自分の顔や体を完全な外から見るのは、奇妙な感覚だった。

 染み一つない白い肌の、若い顔の自分が目の前にいる。


『よし』


 女神が満足そうに呟いた時は、透子はすでに捕えられていた。

 新たな肉体の中へ。


「これ…………」


 声帯が動き、喉が震える感触を味わう。

 見おろす感覚があり、自分の手が見え、指が思うとおりに動いた。


「…………生き返ったの?」


『行くぞ』


 女神は驚愕や戸惑いや感慨に浸る暇も与えてくれなかった。

 うながされた時には、透子の肉体はこの世界を離れはじめている。


『二年後、晴れて役目を果たせば、あの世界のあの時点に戻すと約束しよう。すべてはお前の働き次第だ――――』


(二年後――――)


 透子は唇をかんだ。

 絶対に戻ってくる。

 あの三億円を家族に渡すまで、自分は死ぬわけにはいかないのだ。


「待っていて、お母さん、お父さん、お姉ちゃん、お義兄(にい)さん、颯太! 絶対に戻ってくるから――――!」


 叫ぶ声は虚空に呑まれ、視界は一変した。

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[気になる点] エタってるけど、母親と甥が助かるかどうかだけは教えてほしいな…
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