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「透子!!」
思わず家に戻ろうとした紅霞の行く手を、小さな光がまわり込んで邪魔する。
「駄目ですわ」
花麗の冷ややかな声。
ふりかえると、彼女の隣に若い侍女が立っている。
紅霞の行く手を阻む《四気神》は、この侍女が使役しているのだろう。
一般に《四気神》は憑いている女の守護者だ。男からの暴力はもちろん、物が落ちてくる、ぶつかりそうになる、といった、病をのぞく物理的な災いに絶大な威力を発揮する一方、その行動は基本的には制御できないとされている。
勝手に女を守り、勝手に災いをはねつけるのだ。
しかし一部の女達は、己の《四気神》を自身の意思で制御することができる。
たとえば紅霞の母は、本来、母以外は守らないはずの《四気神》に、「母の近くにいる間だけ」「母の血を継ぐ実子だけ」という条件付きではあったが、四種のうち二種の《四気神》に我が子を守らせることができた。
この技に幼い頃の紅霞は何度も助けられたのだ。
とにかく、女の中には《四気神》を自在に操れる者がいる。
そしてそういう者は重宝され、貴人の側用人に雇われることもしばしばだった。目の前の侍女もその類だろう。
「見つけましたわ、お嬢様」
家の向こうから複数の男女が姿を現す。
見覚えある花麗の乳母と、梅家の私兵達。
そして私兵に左右の腕をつかまれ、引きずられるように歩かされている透子。
頭が埃で茶色く染まり、顔も埃だらけだった。
「透子…………!」
紅霞は己を殴り飛ばしたい気分だった。
何故、気づかなかったのだろう。おそらく、はじめからこのつもりだったのだ。
紅霞が花麗との会話に気をとられている隙に、乳母に家の中をさぐられた。
乳母も侍女同様、《四気神》の制御が可能な女だったのだ。
他人の家を勝手に家探しする花麗と梅家のやり方に、紅霞はもう何度、腹が立ったか数えるのも馬鹿らしいほど、怒りを煽られる。
花麗は連れて来られた透子を一目見て柳眉をつりあげた。
「どういうことですの!? 女だなんて!!」
紅霞は再度、自分を殴りたくなる。
帰宅したために透子は男装を解き、紅霞の母の遺した衣装を着て、髪も母の髪紐を使って結っている。胸のふくらみも明らかだ。
花麗はくってかかってきた。
「どういうことですの、紅霞! 翠柳の遠縁とやらは、少年と聞いておりましたのよ!? まさか、この女がその遠縁ですの!?」
「だったら、どうなんだ」
「女と暮らしているなんて…………!」
「馬鹿馬鹿しい。俺は、女は受けつけない男だ。だったら、女が俺と暮らしても危険はないだろ。俺と暮らして危険なのは、男の場合だ」
紅霞はわざとつまらなさそうに言い捨てる。
今はこの理論で「透子とはなんでもない」と押し切るしかない。
「それは…………」
花麗は怯む。
「透子を放せ! そして、さっさと帰れ! これ以上、居座るなら、治療費を請求するぞ!!」
紅霞は透子に駆け寄ろうとした。が、白い光――――《四気神》が邪魔する。
ほぼ同時に左右から太い手が突き出されて、梅家の私兵達が紅霞を捕えた。
「紅霞さん!!」
「放せ! どういうつもりだ!!」
身をよじって抗議する紅霞を無視して、乳母が透子の隣に立つ。左側に。
「お嬢様、こちらをご覧ください」
「いたっ…………」
乳母は、私兵に拘束された透子の左手首をつかんで引っぱり、手の甲を灯りにさらした。
その場に居合わせた者全員の視線が、透子の左の手の甲に集中する。
「《印》が…………ない!」
「《無印》…………?」
「《無印》だ! 《世界樹》に見捨てられた女…………!」
私兵達が、花麗の夫達がざわつく。
強力な《四貴神》を使役する《四姫神》たる花麗も、袖で口もとをおおって数歩後退した。
「《無印》だなんて…………! 《世界樹》に拒まれるような汚らわしい存在が、どうしてここに…………!」
花麗達の反応に透子は半眼になった。
透子は地球の人間なので《四気神》がいないのは当たり前だし、その件であれこれ言われても傷つくこともないが、こちらの世界で生きてきた本物の《無印》の女性だったら、今の台詞はたいそう傷ついたに違いない。
大勢の目の前に無理やりさらす乳母のやり方といい、本当に、梅家の人々は無神経すぎる。
本当に、こんな人間が大勢の上に立つ《四姫神》なのだろうか。
《四姫神》花麗は透子をおぞましそうに見る。
「この夕蓮の街に、《無印》がいたなんて。《四姫神》たるわたくしの住まう州都というのに、外聞が悪すぎますわ。故郷を追い出されて、この家を頼ったのでしょうけれど、こんな女に紅霞に近づく資格はありませんわ。この女は、わたくしが《無印》用の道観に引き渡します」
「やめろ!!」
紅霞が本気の声をあげた。
透子はあとで知ったことだが、『《無印》用の道観』とは《四気神》を持たない女を専門に引きとる施設らしい。
表向きは『罪深さのあまり《世界樹》の祝福を得られなかった女達を集め、祈りと修練の場を与えて生涯を信仰に捧げさせる』場所だが、実態は道観の名を借りた『それ用の店』で、寄付という名目で男達から金銭を巻きあげては、集めた女達に相手をさせているのだ。
「透子を放せ! 透子になにかしたら、《四姫神》だろうが、殴るくらいじゃ済まさねぇぞ!!」
紅霞が怒鳴る。
花麗は強い不快感をにじませ、透子を指さして紅霞に言い募った。
「この女は《無印》ですのよ!? 《世界樹》に見捨てられた、罪人ですわ! 汚れた《無印》など、一刻も早く排除するべきです! それが理解できないわけではないでしょう!?」
「ざけんな!! 透子は汚れていない! 罪人でもない! 透子は誰より…………!」
紅霞は詰まった。
『誰より』――――なんだろう?
『誰より優しい?』『誰よりあたたかい?』
それは間違っていないが、的確な表現とも違う気がした。
優しさとか、あたたかさとか。
紅霞が透子を求めたのは、そういう理由からではない。
たしかに、律儀で根気強くて自分から損をとりにいく人の良さがあって、一緒にいるとあたたかくて気の安らぐ相手ではあるのだけれど。それだけではなくて。
――――紅霞さんは悪くない――――
『紅霞さんは悪くありません。翠柳さんも。どちらも悪くありません、自信を持って――――』
頭から埃をかぶって男達に捕らえられ、それでもひたすら紅霞の心配だけを瞳に浮かべて。
こちらを見つめる透子の姿に、紅霞は切なさに胸がよじれそうになった。
優しいとか《無印》とか、そんな理由ではないのだ。
「紅霞?」
「――――対等だった」
「紅霞さん?」
紅霞はまっすぐに花麗を見つめ、堂々語る。
「透子は俺を見下さなかった! 『女』という理由で『男』の俺を見下さなかったし、『異性を愛せる』という理由で『異性を愛せない』俺を見下すこともなかった! 俺と翠柳を見下すことも蔑むこともなかった! ――――うらやましい、と言ったんだ――――」
「紅霞さん…………」
「透子は俺達を――――俺と翠柳の関係を、おかしいとも不自然だとも言わなかった。ただ俺達のことを、そのまま認めてくれた。それだけだ。それだけで良かった。そんな女は初めてだ。透子は俺を見下さなかった。ただ、同じ人間として見てくれただけだ――――」
「紅霞さん…………っ」
聞いていた透子も胸をしめつけられる。
しぼり出すような吐露は、紅霞のこれまで舐めてきた苦渋を暗に主張している。
「《無印》がなんだ。《四気神》がいないことがなんだ。《世界樹》の祝福がないことがなんだ!」
紅霞は断言した。
「そんなものがなくても、透子には価値がある! 俺は透子が必要だ! 《四気神》や《世界樹》が透子を見捨てても、俺は透子を手放さない! 俺にとっては大事な家族だ! 《世界樹》や《四気神》が透子を守らないなら、俺が透子を守る!! お前らには絶対、傷つけさせない!!」
(――――っ!!)
嵐のごとき宣言だった。
透子の体内の血が一気に沸騰し、顔に熱がのぼる。目頭が熱い。
こんな時なのに。
紅霞は翠柳を忘れていない、忘れることはないのに。
(どうしよう)
『家族』と断言されても、「恋人としてではない」とわかっていても。
それでも、痺れるような喜びが透子の全身を駆け巡り、涙があふれそうになった。
「えー…………マジかよ、キモっ…………」
誰かの、ぼそっとした声が聞こえた。花麗の夫達だろうか。周囲を見渡せば私兵達の間にも同じような空気がただよっていて、この世界で《無印》という存在がいかに忌避されているか、異邦人である透子にも察せられる。
花麗は磨かれた爪を立てるように長い袖をにぎりしめた。
ぎりっ、という歯ぎしりの音さえ聞こえた気がする。
「本気ですの? 方便ではなく、本気でこの《無印》をそんな風に…………」
「透子を放せ、そして帰れ! 借金は完済した、もう、あんたの顔はうんざりだ!! 二度と見たくない!!」
今にも唾を吐きつけそうなほど憎しみを露わにした、紅霞の侮蔑と拒絶の顔と言葉だった。
さあっ、と花麗の顔から色が消える。
透子は初めて間近に見たが、薄暗い灯りの中で見ても《四姫神》花麗は美しい少女だった。
いや、もう『少女』という表現は適切ではないかもしれない。彼女はすでに二児の母で、繊麗な容姿も少女のあどけなさを残しつつ、匂うような色香を備えている。
髪型や服装こそ中華風ファンタジーだが、そこを変えれば日本で充分トップアイドルとして通用するだろう。
けれど今、その可憐な顔は感情を失い、瞳に宿る光は氷より冷ややかだった。
「わかりましたわ」
花麗が言った。
「そんなにその女が大事なら…………《無印》ごときをそこまで庇うなら…………いっそ、二人でこの街を出て行けばいいですわ。――――黄泉の国へ」
「!!」
ざわ、と紅霞や透子のみならず私兵達も顔色を変える。
紅霞は気づかなかったが、花麗は単に、彼が己を徹底的に拒絶したことを怒ったのではない。
己が美しさを誇りとする花麗にとって、長年、執着していた男から、その自慢の美貌を「うんざりだ」「二度と見たくない」と罵られたことは、四年越しの執着をくつがえすほどの屈辱だったのである。
花麗は片手をあげた。長い袖がめくれて、白いしなやかな腕が露わになる。
手の先が紅く光ったかと思うと、星のまたたく空に、炎をまとった巨大な紅い鳥が現れた。
「火の鳥…………!?」
透子は目を丸くして頭上を見あげる。
大きな翼、長い冠羽、無数の尾羽。羽根の一本一本が、赤々と燃える炎で織られたかのように、まぶしい。
溶岩でも見つめるかのような圧倒的な《力》。存在感。
「《四貴神》…………!」
「《朱雀》様だ!!」
私兵達がどよめく。
女達を守る四種の気の化身、《四気神》の中でも特に強力な《四貴神》。その一体。
それが透子を見おろす。
「光栄に思いなさい。汚らわしい《無印》ごときが、高貴な《四貴神》の導きで旅立てるのだから」
「やめろ!! 《四姫神》のくせに、無辜の民を襲う気か!?」
「無辜ではありませんわ。《無印》ですもの」
花麗は侮蔑のまなざしで紅霞を見た。
「《無印》ごときのために《四姫神》たるわたくしが罵られるなんて…………もう、あなたは要りませんわ、紅霞。女の価値のわからぬ、愚かな男…………あなたのような男に関わって心底、時間を無駄にしました。そんなにその《無印》が大切なら、その女共々、わたくしの《朱雀》に焼かれてしまえばいい!!」
憎悪の言葉と共に、花麗は腕をふりおろした。
《朱雀》が上空から透子に襲いかかる。
「ひいぃ!」と悲鳴をあげながら、透子を捕えていた私兵達が彼女を突き飛ばして逃げ、紅霞を捕えていた私兵達もそれにつづく。
「透子!」
転んで動けない透子の上に、紅霞の長身がおおいかぶさる。
「紅霞さんっ!!」
熱風が全身を包み、視界が輝く紅で塗り尽くされた。




