23
丘の上の一軒家にたどり着いた時、空はもう夕焼け色だった。
「…………全部、済みましたね?」
「ああ。済んだ」
紅霞は玄関横の柳の木を見あげる。
《四姫神》の乳母に切り倒されたこの木は見事に復活し、半年経った今では、前より少し高くなっていた。
出発は明日の朝早く。夜明け前に起きてこの家を出て、まっすぐ夕蓮の街を出る予定だ。紅霞の仕事も昨日で辞めている。
紅霞は家の周りをまわって最後の点検をし、透子も男物の服を着替えて、夕食の用意にとりかかる。今夜はすべて買ってきた惣菜だ。明日の出発のため、食材はすでに使いきっている。
相変わらず紅霞の好物の饅頭を温め直し、戻って来た紅霞と二人で夕食をとった。
「明日は早いですから、今夜は早く休みましょう」
「ああ」
二人で洗い物をしながら、そんなことを話していると、透子が気づいた。
「…………なにか音がしませんか?」
紅霞も耳を澄ます。すぐに彼も気づいた。
早い拍子の、重そうな音がどんどん近づいてくる。
「馬蹄の音…………騎馬の集団か?」
紅霞は真っ暗に塗り潰れた窓の外に目を凝らし、顔色を変えた。
「隠れろ、透子!」
透子も事態を察する。
「物置に…………!」
透子は台所を飛び出す。
前回は、大勢の徒歩の使用人を引き連れた優雅な移動だったため、たいした速度は出ていなかった。しかし今回は騎乗した少人数で駆けてきたため、宵闇の中で相手の正体を判別できるほど接近した時には、先頭の一頭が玄関に到達していた。
どんどん、と激しく玄関の扉が叩かれる。
「今、出る!!」
紅霞は透子が物置に走るのを視認しつつ、玄関へと怒鳴る。
止まる様子もなく扉を叩く音に辟易しながら、「もう夜だぞ!!」と扉を開けると、まぶしいくらいの光が射し込んできた。騎馬の集団の一部が灯りをいくつも掲げているのだ。
「紅霞!!」
飛んできた予想通りの可憐な声に、紅霞はとうとう堪忍袋の緒がぶち切れる。
「陽が沈んでるだろうが!! 他人の家に突然、押しかける時間じゃないだろ!!」
まったくだ、と前回同様に物置で耳を澄ませていた透子もうなずいた。
(旦那さん達も止めればいいのに…………)
前回といい今回といい、《四姫神》は紅霞の都合を無視しすぎだ。
そういう態度も悪印象を強めていると、本人は気づかないのだろうか。
「チュン」
「すずさん!?」
採光用の小窓の縁に、茶色い小鳥がとまっている。
「鳥目じゃないんですか!? 今、夜ですよ!? いえ、それより…………!」
困ったことになった、と透子は痛烈に焦った。とんだ誤算だ。
《四姫神》は今日、州都城で東州長官が催す出産祝いの宴に招待されていた。紅霞の借金完済の報告は帰宅後、場合によっては明日以降。
むろん《四姫神》は驚くだろうし、おそらくは事情の説明を求めて紅霞の家に押しかけるだろう。しかし、それは早くても明日以降。
こちらはその前に家を出て、《四姫神》が来訪する頃にはこの街を出ている。
そういう計画だったが、《四姫神》の行動の早さは透子達の予想を上回っていた。
今夜一晩、なんとか《四姫神》をごまかして、この場を乗りきる他ない。
(紅霞さん…………!)
透子は祈る思いでの小窓から玄関をうかがう。その横で「チュン」と呑気な鳴き声が響く。
紅霞も腕組みして怒気を露わにしながら、懸命に頭を回転させていた。
計画を、ましてや透子の存在を、絶対に《四姫神》達に気取られてはならない。
《四姫神》花麗は夫の一人の馬から、別の夫の手を借りて地面に降りた(彼女は一人では馬に乗れないのだ)。
「大切なお話がありますの、紅霞」
「俺は話すことはない」
「わたくしにはありますわ。あなたは今日、残っていた借金をすべて返済したでしょう。いったいどこから、そんな金額を用意したんですの?」
「どこでもいいだろ」
「良くないですわ。あなた、だまされていますわ」
「は?」
「どこぞの成金女が『借金を肩代わりする』などと都合のいいことを言って、あなたに近づいてきたのでしょう? あなた、だまされていますわ」
紅霞は吹き出しかけた。
どうやら《四姫神》花麗は、紅霞が後援者を見つけて借金を完済した、と疑っているらしい。なるほど、夜に馬を飛ばしてくるわけだ。その『成金女』に紅霞を奪われる、と焦ったのだろう。
「そんな用なら明日にしてくれ。明日の昼に出直したら、いくらでも説明してやる」
言って、紅霞は有無を言わさず扉を閉めようとするが、扉を叩いていた使用人の男に扉をつかまれ、妨害される。
「わたくしは今、説明してほしいのですわ、紅霞。あなたが悪い女にだまされるのを、見過ごすわけにはまいりません。ああ、中に入れてくださいな。屋敷から走って来たので、くたくたですの。夫と使用人は外で待たせますので、わたくしと乳母と侍女だけでけっこうですわ」
「断る。俺はもう寝たいんだ。明日も仕事があるんだ、あんたの相手をしている暇はない」
「女が、《四姫神》がこんな時間に、くたくたになるまで駆けてきたというのに、もてなす気持ちもわきませんの? 無礼にもほどがありますわ」
「それはあんたが勝手にしたことだ。俺が頼んだわけじゃない」
冷ややかな紅霞の拒絶に、花麗は柳眉をつりあげる。
「…………遠縁がいるからですか?」
「あ?」
「今日の返済、少年を同行させていたそうですわね? あの翠柳の遠縁だとか…………翠柳によく似た、華奢で可憐な殿方と聞きました」
「全然、似てねぇよ。細いのは事実だが」
(変な伝わり方をしてないか?)と紅霞は首をかしげた。
あるいは透子を見たあの男が、あることないこと面白おかしく吹き込んだか。
透子と翠柳は身長や肩や頭の形、髪質は似ているが、顔立ちそのものに共通点は少ない。翠柳はぱっと見、少女めいた線の細い顔立ちだったし、透子も女らしい容姿だが、それでも『似ている』と表現するほどの酷似ではなかった。
(どっちも可愛いのは否定しないけどよ)
つい、内心でそんなことを付け加えた紅霞に、《四姫神》はくってかかった。
「その男と再婚するつもりですの!? 紅霞!!」
「は?」
「その男をこの家に泊めているのでしょう!? 今度はその男と結婚するつもりですの!? わたくしはもう、四年間もあなたを愛しつづけているのに…………あなたという男性は、まだ翠柳なんですの!? どうして、わたくしの愛がわからないんですの!?」
花麗は叫んだ。
美女の切なる訴えだったかもしれないが、紅霞は白けた。
見れば、同行している彼女の三人の夫達も、不機嫌そうなうんざりした表情でこちらを見守っている。その姿に、紅霞も呆れをとおりこして腹が立ってきた。
明日には透子とこの街を出る。もう、花麗と顔を合わせることもない。
ならばこの際、言いたいことは言っておくべきか。
「あのな」
紅霞は閉めようとしていた扉から玄関に出て、花麗と向かい合う。
たぶん、ここまで真っ向から彼女と話し合うのは、これが最初で最後だろう。
「あんたは勘違いしている。俺は別に、あんたの気持ちが理解できないわけじゃない。むしろ、あんた自身より、あんたの気持ちを理解していると思うぜ?」
「え?」と花麗が、高い位置にある紅霞の顔を見あげる。
「ひょっとしてあんた、『本気の純粋な愛なら、必ず報われて結ばれる』とか思ってないか? だとしたら、とんだ勘違いだぞ? 本気の愛情だけが実るなら、結婚詐欺や美人局に引っかかる奴がいるわけないだろ。世の中、どんなに本気でも純愛でも、実らない時は実らない。逆に不純でも、愛される時は愛されるんだ」
花麗は当惑したように言葉を失う。
(ぴんと来ないか?)と紅霞は思った。
高貴な血筋と財産に、《四貴神》を使役する高い地位、誰もがうらやむ美貌。
梅家の花麗にとって、なびかぬ男など存在しなかっただろう。
彼女にとって男は『望めば手に入るもの』であり、彼女にとってはそれが『本気で愛したから結ばれた』結末であり、『愛しても手に入らない』という現実は考えたこともないに違いない。
侍女や友人達の失恋話を聞いても「わたくしには関係のないこと」と思ってきたのだろう。
紅霞は言った。
「あんたの愛が本物か偽物かは、どうでもいい。興味もない。俺が断言できるのは、あんたの愛は浮気で長続きしない、ってことだ。そこの、あんたの夫達が証明している」
紅霞は背後の男三人を示す。夫達も表情を変えた。
「俺があんたの話に乗らないのは、あんたの夫達を見てきたからだ」
「――――わたくしの夫が気になりますの? 嫉妬なさっていたの? 心配は無用ですわ、前々から言っているように、紅霞が望むならすぐに離縁しますし…………」
「そうじゃない」
紅霞はいっそ哀れみのまなざしで花麗と、花麗の夫達を見回した。
「あんたは俺の前で、ずいぶん奴等を軽んじるがな。奴等は奴等で、手に入れる前は甘い事をささやいていたんじゃないか? 奴等は政略で迎えた正夫じゃない。あんたの好みで迎えた夫だ。それこそ『誰よりも愛している』だの『ここまで好きになったのは初めて』だの、いくらでもささやいたんだろう。そして、いざ手に入れたら、別の男を追いかけはじめる」
「…………」
「俺が、あんたの愛が長続きしないと言うのは、そういうことだ。あんたはどれほど『真剣だ』と主張しても、手に入れれば、飽いて他の男に目移りする。あんたの『愛している』は全然、信用ならねぇんだ」
「…………っ!」
花麗は紅霞に詰め寄った。
「あなたは特別です、他の男達とは違いますわ。あなただけは本当に――――」
「だから、その言葉も気持ちも信じられねぇんだよ」
紅霞はたたみかける。
「本気で信用を得たい、と思うならな。もっと今いる夫を大事にしろ。それか、全員すっぱり離縁して、正夫一人を大切にしろ。俺があんたのことを嫌なのは、あんたが自分の夫を粗末に扱うからだ。あんたは自分が好きで迎えた夫達の前で、平然と他の男を口説いて、平然と『他の男のために離縁する』なんて言う。方便にしても気遣いがなさすぎる。あんたの夫達は、あんたと結婚したあとの未来の俺の姿だ。あんな無神経な扱いをうけるとわかっていて、結婚したがる男がいるわけないだろうが!」
「!!」
花麗は愕然と、黒目がちの目をみはって立ち尽くした。
今はじめて気がついた、というように。
(全然、気づいてなかったのかよ…………)
紅霞は半ば本気で呆れる。
透子との会話が思い出された。
透子の言ったとおり、この少女は『愛している』と口で言いながら、とても無神経なのだ。
愛している者に対してさえも。
そしてそのことに、完全に無自覚だった。
紅霞は、ずっと彼女を拒絶してきた自分を褒めたい気分になる。
この少女の話を受け容れたところで、一時的に大切にされたあとは、目の前の夫達同様、ぞんざいに扱われて終わっただろう。
「話はそれだけだ。借金は完済した。俺はもう、あんたになんの借りもない。二度と来ないでくれ。今の夫達を大事にしろよ。じゃあな」
言い捨て、紅霞は家の中に戻ろうと扉に手を触れる。
「ま、待って!」
花麗がふるえる声と手で紅霞にすがってきた。見あげる顔が、出会って初めて目にするほど青ざめている。
「違う、違いますわ、あなたは特別なの! あなただけは、特別なの! こんなに胸焦がれたのは、あなたが初めてですわ! だってわたくし、もう四年間も…………!」
「俺がずっと抵抗しているから、意地になっているだけだ。その気持ちを『愛』と表現しているだけだ。手に入ったら、またすぐに気が済む。それだけだ」
紅霞が言いきった、その時だった。
ドカン、という大きな音。そして。
「きゃああああ!!」
悲鳴が聞こえた。
「透子!?」
紅霞は自分の家をふりかえる。
青ざめていた花麗の瞳が、ぎらり、と光をとり戻した。
十数秒前。
透子は物置で耳を澄ませていた。
以前のように木箱に乗り、採光用の小窓から玄関をのぞき見していると、掲げられた灯りの中で《四姫神》の少女が紅霞にすがろうとするのが見える。
(嫌だ)と、とっさに思った。
紅霞に触れてほしくない。
(馬鹿みたい、私…………)
自分はどうせ、日本に帰る予定なのに――――
思わずうつむいた、その顔のまわりを。
ちらちらと小さな光が飛ぶ。
(なに? 蛍…………?)
淡く輝くそれは、物置の闇の中では明瞭に浮びあがって見える。
「クリオネ…………?」
一対の羽根を有した顔や手足のないその形状は、地球で『流氷の天使』と呼ばれる生き物を連想させた。大きさは三、四センチだろうか。
むろん天使ではない。
光るクリオネもどきは、いったん採光用の小窓から外に出る。
透子が思わず窓の外をのぞくと、すぐ真下に女が立っていて、こちらを見あげていた。
女と視線が合う。
「!」
透子は慌てて窓から離れ、木箱から床に飛び降りるが、もう遅い。
ドカン、という轟音と共に、透子がへばりついていた壁が大きく崩れ、大量の埃を舞いあげながら透子に襲いかかった。
「きゃああああ!!」
透子は悲鳴をあげる。




