20
吐く息が白い。
こちらに来て、はや半年。
今となっては、透子はすっかりあの自称・女神をあてにしていなかった。
あきらめたと言っても過言ではない。
「とにかく仕事…………収入ですよ…………」
呪いのように呟きながら、ダイニングのテーブルで色紙をカットしていく。
日本のネット小説を参考に、五百枚の原稿を完成させて投稿してから、三ヶ月ちかく。
今、透子は紅霞に紹介された内職を細々とこなしていた。
「チュン」
「牡丹の花です。富貴の象徴で、お祝いの席に用いるそうですよ」
透子はテーブルの端で米粒をつつく茶色い小鳥に説明する。
紅霞が持って来てくれたのは、日本風に言うと『切り絵』の仕事だった。
色紙を鉛筆の線に沿って小刀でカットし、花や鳥の形にくりぬく。図案はおめでたいものや安息を願うもので、祝いの席や葬儀の場で用いられる。
この切り絵を部屋中に貼ったり撒いたり、あるいは棺に詰めたりと、使い道は様々だが、とにかく「あればあるほど良い」という代物なので、庶民でも必要な時には山ほど用意する。そのため内職としても一般的である…………と紅霞が教えてくれた。
「昔は木製だったらしいぜ。金持ちは金や銀で作ったんだと。けど、製紙と染色技術が向上して、色のきれいな紙が安価で出回るようになったんで、庶民は紙で大量に作るようになったらしい。今は紙が一般的だな。金や銀は金持ちだけだ」
初めて色紙の束を持って帰ってきた夜、紅霞はそう透子に説明した。
自分は細かい作業は苦手なので、こういう仕事はやらない、とも。
「翠柳は小銭稼ぎに、よくこれをやってたんだ。あいつは手先が器用で、複雑な模様もそこそこ作ったから、依頼側にも重宝されてたんだ」
色紙を見つめながら、懐かしそうに紅霞は語った。
「チュン」
「もう少し待ってください、すずさん。これが終わったら昼食にするので、お米をあげます」
透子は小刀から目を離さずにスズメに語る。
職人技とはいかないが、透子もそれなりに器用なので、この切り絵作業にはすぐ慣れた。二ヶ月が過ぎた今では、中の下くらいのレベルの図案が送られてくるようになっている。むろん、一枚の値段は図案の複雑さに比例する。
正直、割りのいい仕事ではない。
これで食べていけるとしたら、神業を仕上げられる一握りの上級職人だけだ。
だが外に出られない以上、仕事は限られるし、安くても収入になるなら、文句は言わないと決めていた。
せっせと彫刻刀のような小刀を動かして、牡丹の花びらを一枚一枚、切り抜いていく。
最近では空き時間はずっとこの作業だ。昼食をはさんでひたすら小刀を動かしつづけ、日が暮れだすとテーブルの上を片付けて、夕食の支度にとりかかる。
この日も、小さな友人が米粒をくわえて林に戻るのを見届けてから、野菜を切り刻んで鍋に入れていると、いつもより早い時間帯に玄関が騒がしくなった。
「透子!! どこだ!?」
紅霞の声だ。焦るような大声。
透子は竈の火を確認して、小走りに玄関に向かう。
(また何かあったの? まさか《四姫神》さんがらみで、また…………!)
透子の胸に不安がわいたその時、透子は、がばっ! と大きな影に正面からおおいかぶさられた。
「こっ、紅霞さん…………!?」
紅霞が抱きついてきたのだ。両腕を大きくひろげて。
透子が『控えてほしい』と告げて以来、スキンシップは遠慮するようになっていたのに。
真っ赤になって目を回す透子に、紅霞が早口で伝えてきた。
「すごいな、透子! 大賞だぜ!? 本当に小説で稼いだんだ、やったな!!」
「えっ…………えっ…………」
「なに、ぼーっとしてんだ! 大賞だぞ、大賞!! 一位!! 嬉しくないのか!?」
「えっ、あの…………なんの大賞ですか…………?」
「小説に決まってんだろ!? 透子が書いた小説!! あれが大賞をとったんだ!! 今日、仕事場にあの出版社の知り合いが直接、来て、伝言していったんだ! あとで色々相談したいって! 本も置いていった!」
紅霞は透子の肩をつかんで、がくがくとゆさぶる。
透子は恥じらいだけが原因ではなく、意識が遠のきかける。
「本、とは…………」
「これだ。店頭に並ぶのは明日だけど、見本を置いていったんだ」
紅霞は愛用の仕事用の袋から一冊の雑誌をとり出し、端が折られたページを開いてくれる。
「ほら、ここ」
『第八回長編新人賞 大賞『死んだら聖なる泉にいて勇者と呼ばれ、最終的に後宮を抱える皇帝となった男の話』 透湖』と、でかでか載っている。
透子は目を疑った。
ページに印刷された題名や筆名には、たしかに覚えがあるけれど。
(でも私、ネット小説サイトに細々と投稿していただけで、受賞経験は一度もない素人なのに…………)
「これ…………本物ですか?」
「本物に決まってるだろ、わざわざ偽物を刷ってなんの得があるんだ」
「手違いじゃないんですか? 受賞者の名前をとり違えたとか…………」
「それはないだろ。わざわざ俺の所にまで持ってきたんだ」
「本当に…………本物ですか?」
「本物だって。なにをそんなに疑ってるんだ」
「夢じゃないですよね!?」
「これが夢に見えるか?」
紅霞は、ぺちん! と両手で透子の頬をはさんだ。叩かれた、というほどの強さではないが、確かに痛みを感じた。
「…………夢じゃない…………」
ゆるゆると脳に情報が届いて分析される。
「本当に…………私が…………」
ぐん、と突然、体が浮いた。足の裏が床から離れる。
「きゃ…………!」
「三ヶ月間、苦労した甲斐があったな!! 透子はやっぱり、すごい女だ!!」
紅霞が両手を透子の脇にすべり込ませて「高い高い」のポーズで抱きあげたかと思うと、ぐるぐる回りはじめる。
「こ、紅霞さん…………!」
危なっかしさに透子が思わず紅霞の肩にすがりつくと、紅霞は「ははっ」と笑った。
よく笑うようになった最近の中でも、特に明るい輝くような笑顔だった。
台所で薪を足されない鍋の火が、危うく消えかける。
それから三日後。透子は紅霞の休日を利用して、例の出版社に来ていた。
ここに来る前には一悶着あった。
「紅霞さんが行ってくれませんか? できれば、作者という体で」
透子はこちらの人間ではないし、《四気神》のいない《無印》なので、可能な限り外の人間とは関わりたくない。皆が皆、紅霞のように理解ある人間ばかりではないはずだ。
だが、この提案は即座に却下された。
「無理だろ。俺は透子の書いた原稿の内容を全然、知らないんだぜ? 内容について質問されたら、すぐばれる。俺が手伝ったのなんて、原稿を出しに行ったのと、透子の筆名と登場人物の名前を考えた時くらいだぜ?」
もっともな意見だった。
けっきょく話し合いの結果、やはり男装したうえで透子自身が行くことになった。
《印》のない手の甲には包帯を巻いて隠す。
ちなみに出版社の知人には透子のことを「翠柳の遠縁の少年。仕事を探して夕蓮に来たので、部屋を貸している」と説明しているらしい。
万一、女とばれた時には「実は由緒ある家柄の令嬢で、実家が小説を書くことを許さないので、今回、家族に内緒で応募した」とごまかすことになった。
透子には理解しがたい感覚だが、こちらでは小説は『下等な娯楽』らしい。『文学』は高尚だが、小説は『無学で無教養な大衆向けの下世話な娯楽』なのだそうだ。
(そういえば、今でこそ『クールジャパン』と言われる日本の漫画やアニメも、昔は『子供向け』、『大人が見るものじゃない』って言われていたとかなんとか…………)
たどりついた出版社は小さなビルだった。いや、ビルと形容していいのか。
木造の、見るからに古い三階建ての建物は、日本の鉄筋のビルを見慣れた身には、踏み入れるのに勇気を必要とする。
「いや、とんでもない売れ行きですよ!!」
玄関で来社を告げると、ばたばたと『編集長』を名乗る男がやって来て「お待ちしておりました!」と満面の笑みで迎えられる。
応接室に案内され、勧められて長椅子に紅霞と腰をおろした途端、向かいに座った編集長がしゃべり出す。
「受賞原稿を掲載した今月号が店頭に並んで、今日でまだ三日目ですよ!? なのに、あちこちの本屋から売り切れの連絡が次々届くんです! こんなことはめったにありません!! 小さな書店まで、じき在庫がつきそうだと連絡がくるくらいで!!」
編集長は、今にも透子の肩や背中をばしばし叩きそうだ。
「ジリリリン!!」とベル音が響いて、居合わせた編集者が音源となる機械の一部を手にとる。
「はい、はい。少々、お待ちを。編集長ー、まーた在庫確認っすー。二十部追加でー」
「二十も回せん! 他の所からも注文が来てるんだ! 八部と言っとけ!!」
「もしもーし? 聞いたとおりっすー、八部っすねー」
軽薄な口調で若い編集者が機械に話している。
透子はちょっと驚いていた。
(電話はあるんだ。そういえば、絵で見た昔の電話が、あんな感じだったかも?)
「いやもう、ご覧のとおりです!」
編集長の声も顔もほくほくして、今にももみ手せんばかりだ。
透子はまだ夢見心地だが、紅霞は「すごいな」と、なんだか透子以上に嬉しそうに顔をほころばせて、瞳をきらきらさせている。そうしていると艶っぽい雰囲気が薄れて、少年のような屈託ない印象になった。何故か編集長が、それをきょとんと見つめる。
「いや、透湖先生の斬新な発想には驚かされました! 正直なところ、審査員の先生方の間では『文章が低俗すぎる』『こんな文章では受賞に値しない』という意見が多数だったんですが」
「低俗、ですか…………」
透子はちょっとショックをうける。
読みやすくてわかりやすい文章は、透子の原稿の数少ない長所と自負していたのだ。
編集長は慌てて弁解する。
「いえ、低俗といっても、平易すぎるという意味です。私自身は読みやすくて、場面が目の前に浮かぶようないい文章と思うのですが、なにぶん、作家の方々は教養に裏打ちされた比喩だの暗喩だの寓意だのが、お好きで…………ですが、なんといっても設定は群を抜く斬新さです! 事故で死んだと思われた冴えない主人公が、新しい世界に行く!! そこは美女美少女にあふれた世界!! 目覚める勇者の力!! 主人公を迎えてくれる心優しい娘達に、支えとなる頼りがいのある大人の女性達!! 最後には『誰も悲しませたくないから』と全員を妃に迎えて、大円団!! いやあ、久々に底抜けに楽しみました! あそこまで惹きつけられた原稿は何年かぶりですよ! 本当にすばらしい!! ちなみに、私のお気に入りは侍女の愛蓮ですな。あの健気さ! 世に、こんないじらしい女性がいたのかと…………!」
腕をふって力説する編集長に、透子もゆるゆると実感がわいてくる。
(やっぱり、男の人はハーレムが好きなんだなあ。気持ちはわかるけど)
女性だって、程度に差はあれ、魅力的な男性に囲まれる『逆ハーレム』は鉄板だ。透子も「説得力のない安易な逆ハーレムが嫌」というだけで、魅力的なヒロインが複数に慕われる展開は好きだ。
(まあ、紅霞さんは別意見だろうけれど…………)
ちらりとうかがうと、紅霞は熱弁する編集長の話に「ほうほう」と楽しげにうなずいている。
「で、さっそくですが」
編集長は切り出してきた。
「こちらではすでに、今回の受賞作の出版作業に入っています。異例のことではありますが、雑誌の伸びを考えると、できるだけ早くに本で出したほうがいいだろう、と社内の意見が一致しまして。つきましては、透湖先生には是非、続編を依頼したく」
「続編、ですか?」
透子はぎょっとした。
まったくなかった発想だ。
「先生の原稿は今、売れに売れています。本のほうも確実に売れるでしょう。この勢いのまま是非、二巻、三巻を…………!!」
恰幅のいい編集長は、ずい、と身を乗り出してくる。
「いいんじゃねぇか? 書けば」
紅霞が気楽に勧めてくれる。
「簡単に言わないでください…………」
執筆作業自体はともかく、アイデアとなるとそうぽんぽん浮かぶものではない。
「ええと…………それは、同じ系統の話で、ということですよね?」
「できれば、もちろん」
「…………いったん持ち帰って検討させてください」
透子は即答を避けた。
その後、編集長は担当編集者と交代し、今回の原稿についての詳細な批評や、出版に関する約束事などを一通り教えられる。
幸い、印税制度はこちらの世界にも存在しており、透子は胸をなでおろした。
出版部数ではなく販売部数に応じて、という条件付きだが、賞金や原稿料以外にも収入があるのは、ありがたい。編集長の言を信じるならば、本の印税もかなり期待できるだろう。
透子は礼を述べて、紅霞と応接室を出た。
廊下に出た透子は「はあ…………」と頬に手をあて、ため息をつく。
「まだ少し信じられません…………本当に、私の原稿なんですよね?」
「ここまで来て、まだ信じらんねぇのか」
「だって、故郷にいた時は…………賞とかとは無縁でしたから…………」
これまでネット小説サイトに新作を投稿しても、そこそこのPVとポイントが集まるだけで、出版の話が来たり、受賞に至ることはなかった。
今回が、小説で初めてもらった賞である。
とはいえ透子一人の力量ではない。
(やっぱり、アイデアの勝利よね)
ネット小説、恐るべし。
けれど、これで透子の小説がヒットすれば、来月再来月からは、どんどん二番煎じ三番煎じの作品が出てくるだろう。
(先頭を走っていられるうちに、できるだけ収入を集めたほうが…………)
思案する透子の様子をどう解釈したのか、紅霞は両腕で透子を抱きしめてきた。
「こ、紅霞さん!?」
「信じろ。これは夢じゃない。透子の努力が報われたんだ、もっと素直に喜べ」
ぽんぽんと背を叩く紅霞の言葉に、透子はちょっと複雑な気分を味わう。
(私一人の努力、とは言い難いんですが…………)
だって、大筋はネット小説を参考にしているし。
「よし、祝いだ! 帰りは、どこかいい店で食べて行こうぜ」
紅霞は嬉しそうに透子の頭をぐしゃぐしゃ、なでる。
「こ、紅霞さん…………っ」
「あ、紅粧さん」
廊下で騒ぐ二人に、第三者の声がかけられた。
さっき電話で応対していた、かるい口調の若い編集者だ。
傍目には抱き合って見える二人に「ああ、なるほど」と、うなずく。
「なにが『なるほど』だ」
「いや、『翠柳さんの遠縁の子を預かった』って聞いて、『ひょっとして』と思ってたんすけど。やっぱり、そういうことなんすね。とにかく翠柳さんなんすね」
紅霞の不機嫌そうな問いにも、編集者はけろりとしたものだ。
彼の言葉に透子は首をかしげ、数拍おいて理解した。
「…………? あ、いえ、そういうわけでは」
「編集長とか泣きますよ。あの人、あれで紅粧さんに惚れてるから、わざわざ見本誌と伝言を届けに行ったりしたのに。仕事場にも紅粧さんの信奉者がたくさんいるんでしょ」
「知るか」
紅霞は吐き捨てたが、透子は心当たりがあった。
(さっき、編集長さんが紅霞さんの笑顔にきょとんとしていたのは…………ひょっとして、見惚れていたの…………?)
「どうして『紅粧』って呼ぶんですか? 『紅霞』さんでしょう?」
「訊かなくていい」
透子が訊ねると、紅霞は嫌そうな顔で若い編集者から透子を離そうとする。
編集者は「知らないんすか?」と説明してきた。
「『紅粧』ってのは、そのままだと『化粧した美人』のことですけどね。ご存じ、《東の守護者》たる《四姫神》をあそこまで惑わす色男ですから。『化粧した美女にも勝る』って意味で、いつの間にか広まったんすよ。むしろ最近では『傾国の美女にも勝る』って、もっぱらの…………」
若い編集者はそれ以上を語れなかった。
紅霞の大きな手による張り手を顔面にくらったからだ。
紅霞は編集者をふりかえらず、「じゃあな」と投げ捨てて透子をうながす。
「すぐに手を出すのは良くないですよ」
「今、聞いたことは忘れろ」
紅霞は不機嫌そうに言った。
透子は同情する。
この世界は女性の数が圧倒的に少ない分、男同士での恋愛や結婚が身近だ。紅霞自身、男の伴侶を持っていた。
この世界では、紅霞のような中性的で飛び抜けた美男子は、女性だけでなく、男性にも目をつけられやすいのだろう。
透子の姉の凜子は、今でこそ出産を経てすっかり『ぽっちゃり』になったが、十代、二十代は『美人が経験する苦労のフルコース』だった。
間近で見てきた妹としては、紅霞の苦労を偲ばざるをえなかった。
けっきょく、そのあとは家に帰った。
紅霞としてはせっかくの機会だし、祝いも兼ねて透子に外食の一つもさせてやりたかった。
しかし、この街では紅霞が有名人らしいことを知ると、大勢の人前で彼と親しげに食事することははばかられる。
万一、透子の存在が《四姫神》花麗の耳に入ったら。
そう考えると、紅霞としても外食の選択肢は外すしかなかった。
せめて、おいしいと評判の店で持ち帰りの惣菜をたくさん買い込む。
「悪いな、せっかくの祝いなのに」
「これで充分、立派なご馳走ですよ。紅霞さんがお祝いしてくれるなら、私はそれで充分です」
嘘偽りない言葉だった。
「…………そうか」
紅霞も気をとりなおし、荷物を持ち直す。
「そっちも持ってやるよ」
「大丈夫です、私も持てます」
「いいから任せとけ。受賞祝いの一環だ」
紅霞は笑って、透子から惣菜の詰まった袋をとりあげる。
帰り道でさらに、少ないがちょっと高級な酒も購入する。
その日の夕食は、この世界に来てから一番豪勢で大量で、一番嬉しいものとなった。




