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「原稿用紙?」
「はい。買ってきていただけますか?」
いつもより遅い夕食の時間。透子は向かいに座る紅霞に頼む。
紅霞は忙しく箸を動かしながら、なんでもないように答えた。
「買わなくていい。家に山ほどある。あとでやるよ」
「原稿用紙が、ですか? どうして…………」
「次兄(二人目の兄)が買い込んだ。『働かないなら出て行け、と太父に言われた』とかで、一時期ここに居候していた時に。で、出て行く時に持っていかなかった」
「お兄様は作家だったんですか?」
「作家『志望』だ。原稿用紙だの万年筆だのインクだの、道具ばかりそろえて、肝心の原稿は二、三行書いては放り出して、をくりかえしていた。原稿用紙一枚も埋めたことないんじゃないか?」
(ああ…………)と透子も内心で想像がついてしまう。
「けど、どうするんだ? 原稿用紙なんて。手紙を書くなら、便箋を買って来るぜ?」
「あ、いえ、その…………」
透子は視線をそらした。頬が熱くなる。
「ちょうどいい在宅の仕事が見つからないので、小説を書いて一儲けできないかと思ったんです」とは、さすがに口に出しにくい。
「透子も小説を書くのか? 別にかまわないぜ。一人だと暇だろうしな。どんな話を書くんだ?」
「…………」
弁解する間もなく図星を刺され、透子はますます顔が熱くなる。
「恋愛物…………でしょうか。私の国で流行っていた話を、アレンジして書いてみようと思うんです。たぶん、こちらではあまりないタイプの話だと思うので」
「へえ。どんな?」
「こちらで流行の未来っぽい世界に主人公が偶然、行ってしまう話です。そこで世界を救う旅に出るんですけれど…………登場人物を少し工夫しようと思います」
「どんな?」
「そこは企業秘密で」
透子は口に人差し指をあてた
食後、食器の片づけを終えてから、透子は紅霞に次兄が使っていたという部屋に案内された。紅霞は次兄の机の引き出しを開けていく。引き出しにはみっちり、様々なメーカーの原稿用紙が詰まっていた。
「すごい量ですね…………」
「しょっちゅう買い足していたからな。紙もタダじゃないってのに、『こんな安っぽい紙じゃ傑作は書けない』『集中できないのは万年筆が安物のせいだ』とか言って、新しい物を買っては投げ出していた。こっちは万年筆や鉛筆、消しゴムだ。こっちは万年筆のインク…………あらためて見ると、こんだけ買い込んでいたから、あの次兄は金を持ってなかったんだな…………」
紅霞は呆れたようにため息をつく。
万年筆は種類にもよるが、日本でも高価な部類に入る。まして近世らしいこの世界では、紙も日本ほど安くはあるまい。
次兄にどれほどの収入があったかは知らないが、たしかにこれだけの量を買っていては、小金が貯まるはずもなかった。
「好きなのを使っていいぜ。品物はいいはずだしな」
自分の物でないせいか紅霞は気前がいい。
「鉛筆と消しゴムは大量にある。万年筆だけは安物だ。高価なやつは全部、次兄が出て行く時に質に入れたんだ。気に入ったやつはあるか?」
『安物』と紅霞は言ったが、透子の目には残された数本はどれも、ちょっとした贈り物にできる程度には上等な品物に見えた。これ以上の物を何本も購入していたというなら、どれほどの額をつぎ込んでいたのか。
透子は構想メモらしき紙切れの端に試し書きをして、手にしっくりくる太さの一本を選ぶ。書き癖はほとんどなく、それが暗にもとの持ち主の使用回数を主張していた。
「これをお借りしますね」
「全部、持って行っていいぜ? どうせ俺は使わねぇし」
「いえ、この一本で充分です。紅霞さんは万年筆を使わないんですか?」
「翠柳が気に入って使っていたやつが一本あるんで、それを使ってる。けど、家でも仕事でも、ほとんど使う機会がないな。透子はずいぶん細いのを選ぶんだな。書けるのか?」
「細いほうがいいんです。私、人より手が小さいせいか、細いほうが持ちやすくて」
「そういうもんか?」
首をかしげる紅霞の鼻先に「ほら」と透子は片手の平をひろげる。
すると当たり前のように紅霞が自分の手の平を合わせてきた。
「あ、たしかに小さいな。というより、小さすぎないか? これで物を持てるのか?」
驚きながらも心配する紅霞に、透子は真っ赤になる。
「ギギギ」という擬音でも響きそうな動きで視線をそらす。
紅霞は透子の動揺には気づかなかったようで、引き出しから次々原稿用紙をとり出しては、机の上に重ねていく。大作が四、五本、書けそうな枚数だった。さらには、原稿を送るためと思しき大型の封筒が何枚も。
「本当に、どんだけ買っていたんだ、あの次兄…………」
紅霞は本気で呆れたようだし、透子も目を丸くする。
「まあ、ここにある物は好きに使っていい。机も使っていいぜ。透子が寝ている客室には置いてないしな。ちなみに、どれくらいの長さを書くんだ?」
「規定では『五百枚』となっていたので、そこを目指します」
「長いな。それだけの量を手で書くなんて、大変だな」
「慣れればそうでも…………手?」
透子は、はたと気がついた。あるいは耳を疑った。
「…………手で書くんですか?」
「? 他に、どんな書き方があるんだ? 足で書くのか?」
背に嫌な汗が流れる。恐ろしい想像が脳裏によぎった。
「あの…………念のためお聞きしますが…………こちらには『文章を書く機械』は存在するんでしょうか…………?」
「文章を書く機械?」
「こう…………文字が書かれたボタンが並んでいて、そのボタンを押すと、画面に文字が書かれるというか…………」
「ボタン…………?」
紅霞は首をひねったが、ふいに「あ!」と声をあげた。
「ありますか!?」
「タイプライターか!」
(タイプライターかあ…………)と透子は涙と共に気が遠くなった。
そこはせめて、ワープロを出して欲しかった。
けっきょく、透子は五百枚の原稿を一枚残らず、すべて自分の手で書き上げた。それ以外の方法はなかった。
しかも『五百枚、書けば終わり』というわけではない。
推敲の過程がある。
パソコンならキー一つで終わる文字や文章の直しも、原稿用紙ではいちいち手で書き直さなければならない。
透子はまず、下書きとして鉛筆で原稿用紙四百八十二枚を書きあげ、それを推敲し、もう一度、今度は新しい原稿用紙に万年筆で清書する羽目になった。
つまり単純計算で九百八十二枚を書いたわけだが(清書の段階で足りない十八枚分をきっちり足した。この手の調整は透子は苦ではない)、推敲の段階で何カ所も消しては書き直しているので、それを加算すれば千枚に達していたかもしれない。
透子は痙攣をこらえて原稿用紙の束を封筒に詰め、封をして紅霞に差し出した。
「お手数ですが…………明日にでも出して来てください…………」
「直接、出版社に持って行ってやるよ。仕事場の近くだしな。絶対、届けてやるから、透子はちゃんと寝ろ。いいな?」
「すみません…………ありがとうございます…………」
寝不足がつづいてぼろぼろになった年頃の娘(肉体上は二十歳だから、この表現は間違いではない)の肩に優しく手を置き、紅霞はさとす。
透子はへろへろになった姿を見られる羞恥を味わいながらも、重い荷物をおろした開放感と共に客室に戻り、寝台に飛び込んだのだった。
翌朝、あやうく紅霞を朝食抜きで仕事に行かせかける。




