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 すべてが悪夢のようだった。

 めちゃくちゃになった結婚式のあと、謙人と愛美はしばらく姿を消した。

 透子はむろん、謙人の両親が息子のスマホに電話をしてもメールを送っても、まったく応答がない。

 かわりに、参列していた謙人の後輩から、永井愛美について多少の情報を知った。

 永井愛美は二十二歳。謙人と同じ大学の三年生で、高校時代は読者モデルをしており、希望する会社に勤める大学OBに話を聞きに行って、謙人と知り合ったらしい。


「よく連絡をとっているみたいでしたけど…………てっきり、就活の相談だと…………永井さんは、工藤先輩に婚約者がいることを知ってたはずなんですけど…………」


 後輩を通じて、永井愛美の親にも事態を知らせる連絡が届く。

 永井愛美の両親はどちらも事情を知らなかったようで、話を聞くとすっとんきょうな声をあげたそうだ。

 謙人の両親と透子の父が永井愛美の両親と直に会い、詳細な説明と確認を行う。

 永井愛美の両親もまた、娘と連絡がとれずにいた。

 けっきょく、謙人達から連絡があったのは結婚式の翌々日の夜だった。

『愛美も一緒』『ホテルにこもっていた』

 それが謙人の返事だった。

『とにかく戻ってこい』という父親との電話に、謙人も『わかった』と応じる。

 翌日の昼過ぎ。

 謙人は永井愛美を伴って、実家に戻ってきた。

 工藤家では謙人の両親のみならず、透子と透子の両親と姉の凜子、そして永井愛美の両親まで、すでにリビングで待機していた。


「謙人! 無事だったのね! 良かった…………!」


 玄関から、三日ぶりの息子の帰宅を涙ぐんで喜ぶ謙人の母親の声が聞こえる。

 謙人は愛美と共にリビングに入ってきたが、ソファにずらりと並んだ顔ぶれを見ると、愛美の肩を抱き寄せた。まるで姫を守る騎士ナイトの顔つきで。

 その反応と表情に、少なからず透子は傷を負う。

 その位置にいるのは自分(透子)のはずなのに、なぜの別の女をかばうのか。


「みなさん、お待ちかねで…………でも謙人、お腹空いていない? 体は大丈夫? みなさんには申し訳ないけど、少し時間を休ませていただいてから…………」


「そんな場合ではないのでは…………!?」


 いそいそと三日間ぶりの息子の世話を焼こうとする謙人の母の言葉を、透子の父がさえぎる。

 怒りを堪えているのが明らかな声音に、謙人の母はびくりと肩をふるわせ、「そうさせてもらおうかな」と言い出しそうだった謙人も表情をあらためる。


「謙人…………っ」


 愛美が怯えた顔つきで、豊かな胸を押しつけるように謙人にすがりつき、謙人は愛美の肩を抱いて「大丈夫だ」と笑いかける。

 二人の様子に謙人の両親は困惑し、水瀬一家は怒りが頂点に達しかけ、永井夫妻も疑惑が確信に変わる。

 謙人は愛美の肩を抱いたまま、リビングにいる人間達に訴えだした。


「みんなに迷惑をかけたことは謝る。心配をかけたことも謝罪する。けど、わかってほしい。俺は愛美を愛している。透子とは結婚できない」


「いい加減にしたまえ!!」


 透子の父が声を荒げた。


「そんな言い訳が通用すると思っているのか!? 役所に婚姻届を提出し、式まで挙げておきながら、他の女を愛しているだと!? 君は人を馬鹿にしているのか!!」


「馬鹿にしてはいません。ただ、自分の気持ちに嘘はつけないと…………」


「仮に、本当に愛するのがそちらの女性なら、何故もっと早くに話をして、式を中止するなりなんなり、しなかったんだ!! 娘が、透子が、どれほど楽しみにしていたと思っている!! あんな形で裏切るのが君の誠意か!!」


「裏切るつもりはありませんでした。ただ…………」


「うっ」と愛美が大きな瞳を潤ませ、謙人にすがりつく。「怖い」という声が、愛美の近くに座っていた透子と凜子の耳に届いた。愛美は謙人の背中に隠れるようにして大人達に訴える。


「謙人を叱らないで…………っ、全部、あたしが悪いの…………っ。あたしが勝手なことをしたから…………謙人は悪くない、悪いのは…………あたし…………っ」


 ぼろほろと涙を流し、頬を真っ赤に染めて訴える。


「泣いて許されるのは、小さな子供だけよ。あなた、もう二十二でしょ? 子供じゃないのよ? 大人らしく毅然とふるまったら? あなたが子供っぽい態度をとるほど、あなたを選んだ男の見る目や判断力が疑われるんだって、理解したら?」


 冷ややかな凜子の台詞に謙人が、ぎろり、と彼女をにらんだが、凜子は平然としたものだ。


「いい加減にしなさいっ!! 泣けば済むとでも思っているのっ!?」


 愛美の母親が立ちあがり、ずかずかと寄ってきて謙人の背に隠れる娘を引きずり出すように肩をつかむ。目尻に涙をにじませ、娘の肩をゆさぶった。


「こんな大騒ぎを起こして!! いったい、どれだけ心配したと思っているの!? あなたが他人様の夫を盗んだって聞いて、お母さんがどれだけ恥ずかしかったか!! 不倫とか浮気とか、他人様のものに手を出すのだけは許されないって、あんなに口を酸っぱくして言ったのに…………!!」


「だって! だって、愛しているんだもん! 謙人を愛しているの!! 誰にも渡したくなかったのよ、お母さんだって、女ならわかるでしょ!?」


「この馬鹿!! 『愛してるから』で済むなら、誰も傷つかないわよ!! あんたって子は、母親の私が、あんたの父親の浮気が原因で離婚したって知っているのに、私の苦しみを知っているはずなのに、どうして、どうしてあの女と同じ真似が…………!!」


 愛美の母親は半泣きで娘を殴りはじめる。「いたぁい」と愛美は悲鳴をあげてますます泣きわめき、愛美の継父と謙人が二人を引き離そうとする。


「お母さん、やめてください、愛美は悪くない!」


「あなたの『お母さん』じゃないわ!!」


 愛美の母は謙人に怒鳴った。


「初めて会うけれど、あなたは愛美の父親に、別れた夫にそっくり。あの人も、十年近く連れ添った私の前に不倫相手を連れてきた時、今のあなたと同じ顔をしていたわ。『自分はなにも悪くない』『ただ愛しただけだ』、そう信じて疑わない目で…………あの女も、そう! どれだけまわりに迷惑をかけても、傷つけても、『これは純愛だから、私達は悪くない』、そう主張して、ろくな謝罪も無かった…………! 愛美は…………愛美だけは、あんな恥知らずな人間には育てるまいと…………!!」


 涙をこらえる母親に、さすがの娘も謝罪する。


「ごめんなさい、お母さん…………お母さんを傷つけて悪かったと思ってる。でもあたし、謙人を愛しているの。婚約者がいるってわかっていても、とめられなかったの! お母さんを傷つけちゃったけど、あたし、世界中の誰を傷つけても、非難されても、謙人と結ばれたい。あたし達、本当に愛し合っているの。あたし達のほうが正しい愛なの!」


「『正しい』愛って、なに!?」


 透子は耐えきれず、声をあげて立ちあがっていた。


「婚姻届を出したあとに、結婚式を投げ出して『別の人を愛している』と言うのが、『正しい』愛なの!? お父さんの言うとおり、もっと早くに言うこともできたのに、どうしてわざわざ、あの日なの!? 私は…………私は本当に、あの日、幸せだったのに…………謙人と結婚できるって、信じていたのに…………っ」


 流れ出した涙を見せたくなくて、透子は謙人から顔をそむける。


「透子…………」


 謙人もさすがに気が咎めたように押し黙る。


「でも、謙人が本当に愛しているのは、あたしだもん。あたしと出会って『本当の恋を知った』って、言ってたもの。ね? 謙人」


 口をはさんできた愛美は謙人を見あげ、透子をにらみつける。


「謙人が愛してるのはあたしだし、あたしもあなたより謙人を愛してるし。三十歳じゃ結婚を焦るのはしかたないけど、そんな理由で結婚したって、うまくいかないし、本当の愛じゃないでしょ。謙人のことはあきらめて。あたし、命を懸けてでも謙人は渡さないっ」


「…………っ!」


 この台詞に、本来、温和な透子の怒りは頂点に達したし、透子の両親も凜子も、愛美の継父までもが眉を吊りあげる。


「この馬鹿っ!!」


 愛美の頬に母からの平手打ちが飛んできた。


「この娘は本当に…………っ、なんて馬鹿な失礼なことを…………っ!!」


「痛い! やめて、お母さん!!」


「やめてください、お母さん!!」


 愛美はふたたび母親に叩かれ、謙人がそこに割って入ろうとする。

 透子は蒼白で棒立ちになった。

 人間は心から怒ると言葉は出てこなくなるのだ、と、心底、実感した。

『三十歳じゃ結婚を焦るのはしかたない』?

 この(愛美)は本気で、それが理由だと思っているのか?

 だから平気で、あんな真似ができたというのか?


「…………ふざけないで…………」


 ようよう、声をしぼり出した。


「そんな理由で…………そんな理由だけで、私が謙人と結婚したがっていたと…………本気で()()思っているの!? だから奪っていいとでも!?」


「だって、そうでしょ! 謙人が言っていたもの!! 『透子も三十だから、そろそろおじさん達のプレッシャーが大変なんだ』って!!」


 愛美の母親の手をつかんで押さえた謙人の背後にまわり込んで、愛美が叫んだ。


「!? 謙人!?」


 透子は謙人を見る。

 謙人も「しまった」と動揺の表情になった。


「いや、なんというか一般論として、今年で三十歳だし、ご両親も娘の行く末を心配しているだろうし、透子も親を安心させてやりたいと思っているだろう、と…………三十って、ほら、女性にとっては一つの大台だと…………」


「…………信じられない!」


 透子の両親と凜子が謙人をにらみつけ、透子は叫ぶ。


「じゃあ、あなたは私が親のために…………親を安心させるために、三十前に結婚するために、あなたとの結婚を望んだと思っていたの? 私はあなたに『愛している』と言ったのに、あの言葉は伝わっていなかったの? だから、その娘を選んだの? そこまで、私の言葉は信じられなかったの?」


「そういうわけでは…………」


 透子はつくづく、目の前の男が自分の知る謙人でないことを思い知らされた。

 謙人は優秀な男だった。会社では出世頭で、本人もそれを自覚して、常に堂々とふるまっていた。

 透子の知る謙人なら、こんな無様な弁解はしない。潔く頭を下げて、土下座でもなんでもして『愛美を愛してしまった』と真っ向から許しを請うはずだ。

 だが今、しどろもどろになって言い訳する男は、図体ばかりが大きな子供のようで、ひたすら情けなかった。

 それともこれが謙人の本性なのだろうか。

 自分は謙人の本当の姿を知らず、ただ表面上の虚像を見ていただけなのか。

 謙人の本当の姿を見抜いたのは、永井愛美のほうだとでも――――?

 数分間、誰にとっても、実に気まずい沈黙が流れる。

 透子は母と姉に背中をさすられながら、唇をかみしめて涙と怒りをこらえるのに精一杯だったし、愛美の母親はさめざめと泣いて夫になだめられ、愛美も泣き濡れた顔で謙人にすがりついて、謙人はそんな愛美に「大丈夫だ」とくりかえす。


「心配するな、愛美。愛美は絶対に俺が守る。誰にも傷つけさせない」


 いつの間にそんな台詞を真顔で言うようになったのだろう。

 透子の知る謙人はどちらかと言うと硬派で、そういうドラマや恋愛小説のような台詞は『嘘くさい』と言って、透子が頼んでも口にすることはなかった。


(なのに…………その娘には言うの?)


 透子には見せなかった顔を見せ、透子には見せなかった執着を愛美には見せるのか。

 謙人は愛美を背に隠してリビングを見渡し、居合わせた面々に堂々、宣言した。


「とにかく、これ以上、自分にも周囲にも嘘はつけない。俺は愛美と結婚する! 俺が愛しているのは愛美なんだ! 透子とは結婚できない!!」


 それは透子にとって最後通牒だった。

 目に見えない巨大な刃が、音もなく透子の胸を刺し貫く。


「式のことは本当に悪かったと、心から思っている。謝罪する。慰謝料も払うし、式場のキャンセル代もすべて、こちらが出す。だから離婚してくれ、透子。結婚は男にとっても、一生を左右する一大事だ。だからこそ、本当に愛する相手を選びたい。俺は愛美と結婚したいんだ! すべての罪は俺にある、だからこれ以上、愛美を責めないでくれ!」


 まるで映画のヒーローのごとく愛美を背に庇う謙人の姿に、愛美は「謙人…………っ」と陶然とした喜びの顔を見せる。

 娘のその反応に、愛美の母親は「もう駄目だ」と肩を大きく落としたし、逆に謙人の母親は「私の息子がこんなに立派になって…………」と言わんばかりに目を輝かせる。


「そういうことなら、しかたない。結婚を認めよう」


 謙人の父が今日はじめて口を開いた。


「はあ!?」


「父さん!?」


「あなた!」


 水瀬一家と永井夫婦が目を丸くし、謙人と謙人の母、そして愛美は表情を明るくする。


「本当に愛しているのは愛美さんのほうなんだろう? だったら、しかたない。愛美さんとの結婚を許そう。愛美さん、謙人をよろしくお願いします」


 謙人の父――――透子の義父にあたる人は、息子の結婚を邪魔した女にかるく頭をさげる。


「え、いえ、そんな、こちらこそ、よろしくお願いしますっ」


 愛美はころりと笑顔になって、はにかむように挨拶する。

 透子の父が声をあげる。


「本気ですか、工藤さん!? 結婚前からの浮気を認めるなんて…………!」


「しかたないでしょう。心はどうにもならない。謙人がここまで言うんだ、透子さんとの結婚は本当に無理なんでしょう。人生は長い。その長い人生を共にする以上、結婚は本当に愛する相手とするべきだ」


「そうね、そうよね。やっぱり、本当に愛し合っている者同士が結ばれるべきだわ」


 謙人の母、透子の義母にあたる人も、夫の意思が明確になるとあからさまに安堵の顔つきになり、うきうきと立ちあがる。


「謙人がここまで言うんだもの。私は謙人に賛成したいわ。あ、もちろん、透子さんもすてきな女性よ? でも謙人がここまで望むからには、愛美さんも魅力的な方なんでしょう。私は二人を応援するわ。よろしくね、愛美さん」


 義母はそそくさと愛美に寄って、手をとって挨拶する。


「お母さん…………」


 愛美は涙ぐみ、謙人も目尻を光らせる。


「父さん…………母さん…………嬉しいよ。俺、てっきり二人には反対されると思った。あんなことになって…………最悪、愛美と二人で出て行くことも覚悟していたのに…………」


「出て行く必要はないわ、謙人は大事な私達の一人息子よ。謙人の選んだ道や相手なら、私達は反対しないわ」


「そうだ、謙人。父さんも母さんも、いつだってお前の味方だ」


「父さん、母さん…………っ」


 なにやら感動的な空気さえただよう。

 透子は自分の見ている光景が信じられなかった。

 透子はもう三年ちかく前から『息子の恋人』として認識され、透子が謙人と二人で結婚を報告した時、「やっとか。待ちくたびれたよ」と笑っていたのは、義父と義母だったのに。

 謙人の父親が、喜びを隠しきれない様子で話を終わらせようと水をむける。


「今回の件は残念だったが、透子さんはいいお嬢さんです。なんでしたら、私のほうで責任もって良い縁談を用意しますので…………」


「けっこうだっ!!」


 透子の父が怒鳴る。


「この息子にしてこの親あり、ね。こんな幼稚な女を選ぶ謙人さんも謙人さんだけど、それを認めてしまう親も親よ。離婚は正解よ、透子。こんな非常識で不誠実な男と家、結婚しても無駄に苦労するだけよ。本性が明らかになって幸いだったじゃない」


 凜子も吐き捨てるように肩をすくめた。

 工藤一家がそろって凜子をにらみつけるが、凜子は平然としている。


「…………冗談じゃないわ」


「お母さん?」


 リビングに通されて以来、ずっと黙っていた透子の母が初めて口を開いた。


「冗談じゃないわ! こんなこと許されるわけないでしょう!? うちの娘は大勢の前で恥をかかされて、一生に一度の大事な日を台無しにされたのよ!? 私はこんな目に遭わせるために、娘の結婚を許したんじゃない!! 謙人君なら透子を幸せにしてくれると信じたからなのに、それをあんな形で裏切って…………裏切っ…………ううっ!」


「お母さん!」


 拳をにぎって立ちあがった透子の母が、胸を押えてしゃがみ込む。


香子きょうこ! 早く薬を!」


 父が母のポケットをさぐって、ピルケースをとり出す。

 透子は工藤家の台所に飛び込み、グラスをとって水を注いだ。グラスの場所も蛇口の位置も全部、知っている。

 リビングに戻ってグラスを渡すと、母は錠剤を口に含んで水を飲み干した。


「あの、どこか具合が?」


「心臓が少し。大丈夫、薬を飲んだので落ち着きます」


 愛美の継父の問いに、凜子が答える。

 言葉どおり、数分経つと透子の母は顔色こそまだ白いものの、正常な心拍数に戻った。

 そして場の空気も「これ以上つづけてもしかたない」という雰囲気になる。


「今日はもう、お暇しよう。後日、あらためて」


 透子の父の言葉に水瀬一家は玄関に移動し、工藤一家が玄関まで見送る。

 姉と父、父に支えられた母が先に出る。

 透子は最後に、書類上のこととはいえ、法的には新婚三日目の夫をふりかえった。

 静かに訊ねる。


「私は本気で謙人と結婚したいと思ったし、謙人にプロポーズされて、心から嬉しかった。でも謙人は『本当に愛しているのは愛美だ』って言う。じゃあ、どういうつもりで私と婚姻届を出したの? どうして結婚式をあげたの? いったい、なにを考えていたの――――?」


 じっと謙人の瞳を見つめると、さすがに謙人は苦しそうに視線をそらした。


「透子のことは…………最初は愛していた。でも愛美と出会って…………愛美のほうを好きになった。でも、その頃にはお互いの両親への挨拶も済ませていて…………会社の連中も『透子と結婚するもの』と思い込んでいたし、なにより透子が嬉しそうだったから…………言えなかった。傷つけたくなかった。俺が我慢して透子と結婚すれば、誰も傷つかずに済む。結婚すれば、愛美を忘れられると思ったんだ。俺さえ耐えれば、全部うまくいくと…………」


「…………最低」


 透子の唇からその一言が転がり出ていた。

 悔しくてならなかった。

 謙人にとって、自分との結婚は『我慢する』ものでしかなかったのか。

 愛する人を忘れるための道具、それだけでしかなかったのか。

 あのプロポーズはなんだったのだろう。

 将来を話し合った、あの時間は。


「透子」


「お父さんの言うとおり、もっと早くに言ってほしかった。あんな断り方のほうが、はるかに傷ついた。あなたがこんなに不誠実で、周囲が見えない人とは思わなかった! 謙人のその見当違いの気遣いのおかげで、小さくて済む傷が大きくなったのよ!」


「透子!」


「透子さん、謙人は…………!」


「さようなら!!」


 透子は工藤家の玄関を飛び出した。

 そのまま背後をふりかえらずに、門の外で待っていた母と姉に合流する。

 父が駐車場から車を運転してきて、透子達はそれに乗り込んだ。

 エンジン音を吹かして車が発進する。

 わずかに期待していた呼び止める声は、どこからも、最後までかからなかった。

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