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「チュン」
「ああ、すずさん」
甲高い鳴き声を聞いて、透子は台所の窓の縁にとまった茶色い小鳥の存在に気づいた。
あらかじめ用意していた米粒を三、四粒、スズメに与える。スズメは人間を恐れる様子もなく、平然と米粒をつつく。
最近、『すず』と名付けたこの人懐っこいスズメに、余った米粒を少し与えるのが午前の習慣だった。
透子が異世界に連れて来られてから八日間、お金を工面できてから五日間が過ぎた。
透子はずっと紅霞の家に泊めてもらっており、あの自称・女神が迎えに来る気配はない。
(考えが甘かった)
朝食が済んで、仕事に出た紅霞を見送ったあと。
皿を洗い、テーブルを拭きながら、透子は認めざるをえなかった。
なんとなく、待っていればあの自称・女神が透子を探し当てるだろうと思っていた。自称とはいえ『世界を司る女神』なら、その程度の能力はあるだろう、と。
しかし透子にとっても、おそらくは女神にとっても不本意かつ予定外の形で別れてから、早八日間。どう考えても考え方を修正というか、根本から改めざるをえない。
自称・女神が、なぜ透子を捜しに来ないのか。故意なのか、不本意なのか。
そこは女神本人に訊くしかない部分なので、その点については、透子はもう悩まないことにしている。どちらにせよ『来ない』という事実と現実には変わりない。
透子は、女神が来ないことを前提に動くしかないのだ。
どうせ透子には、自称・女神が大事にする《種》が宿っている。《仮枝》の役目は二年間の約束だから、最悪最長でも二年後には一度は透子のもとに来ざるをえないはずだ。
問題は、その二年後までどうやってしのぐか、という点だった。
必然的に、
「仕事があればなぁ…………」
の一言に行きつく。
(最悪、二年間、待たされるとして。その間、ずっと紅霞さんのお世話になるわけにはいかない。新しい、信用できる安全な滞在場所が欲しい…………でも、そのためにはお金が必要で…………髪と衣を売って、当座の資金は工面できたけれど…………残りの百十万少しで二年間、暮らすのは無理…………)
仮にこの家に泊めつづけてもらったとしても、今の滞在費では二年を待たずに手持ちが尽きる。かといって、安直に滞在費を値切るのも抵抗がある。
紅霞にしてみれば、透子はあくまでも昨日今日、出会ったばかりの『他人』。その他人を何日も自宅に泊めつづけるのは抵抗があるはずだ。
第一、滞在費だけで済む確証があるわけでもない。
「怪我とか病気とか…………いざという時のことを考えれば、貯金も欲しいし…………」
まったく、世間ではお金以上に重要で汎用性があるものはなかなか見当たらない。
問題は『どんな仕事に就くか』『どんな仕事があるのか』だ。
(こちらは、女性が《四気神》に守られている。男性が女性を求めても、《四気神》のおかげで危険な目に遭うことはない。でも私は《四気神》がいない…………となると、もし《無印》とばれた場合…………)
どんな騒ぎになるのか、どんな扱いをうけるのか。
それを考えると、安直に外に働きに出て行くこともためらわれる。
(となると、在宅での仕事…………内職とか? こちらでは、家でできる仕事はどんなのがあるんだろう?)
日本にあった在宅ワークをあれこれ思い出しながら、透子は桶に汲んだ水で雑巾を洗う。
「手作業って…………大変…………」
中世より発達した近世っぼい世界とはいえ、日本の便利さを知っている身には、この世界の不便さがあれこれ目についてしまう。
掃除は雑巾とハタキとタワシ。ル○バはもちろん、掃除機もク○ックルワ○パーもコロコロもない。冷蔵庫がないので食材はその都度、買いに行かなければならないし、洗濯機も乾燥機もないので、全部手で洗って庭に干す。電子レンジや炊飯器やガスコンロがないため、食事も食べるたびに食べる分を作る必要があった。
(冷蔵庫も洗濯機も電子レンジも、便利なだけじゃなくて、時短やコストカットでもあったんだ。電気代を多少払えば、食材を無駄にせず、毎日買い物に出る手間も省けるすばらしい道具だったのよ…………)
ため息をつきながら納得する。
「特に、水道よね…………」
透子は木の桶を持って、裏庭に出る。
裏庭には、日本では『手押しポンプ』と呼ばれていた物があり、水を必要とするたびにこのポンプを手で押して、汲みあげられた水を桶に注いで家の中の水瓶に運ぶ。
井戸ではなかったとはいえ、家庭で使う分だけでも、水汲みはかなりの重労働だった。
「チュン?」
「昔はお風呂が贅沢なはずですよ。水道代さえ払えば、台所でも洗面所でもお風呂でも好きなだけ湯水を使えるって、偉大なことだったんです。こちらに来て、ガスや電気や水道のありがたみが…………いえ、日本の便利さが本当に実感できました」
「チュン」
透子はすずさんにぼやくが、むろん、すずさんは理解してしないだろう。
ネット小説の異世界転生物だと、現代技術や魔法で便利に済ませてしまうことも多いが、あいにく透子は魔法を使えないし、技術関連も疎い。
地道に水を運ぶしかなかった。
救いは、時間だけはあることか。
家事以外にすることのない透子は、一人きりということもあって、紅霞が仕事に行ったあとは自分のペースで作業に専念することができた。
掃除を終えた透子は道具をしまい、水瓶に水を足して夕食の支度にとりかかる。
竈の上に鍋を置き、焚き付け用のくしゃくしゃに丸めた新聞を竈に突っ込み、その上に小枝を置き、さらに太い薪を置いてマッチを擦る。最初は紅霞に教わりながらも、なかなかうまくいかなかったこの作業も、今では失敗することもなくなった。
(ピーラーが欲しい)と思いつつ、包丁で野菜の皮を剥くのも慣れてきた。鍋に水を足し、千切りにした野菜を煮込んでいく。
(粉でもキューブでもいいから、コンソメや鶏ガラスープの素があれば…………あれがあるだけで、味が安定すると思うのに…………)
なにかをするたび、無い物が目につき、日本の便利さを思い知らされる。
が、無い物ねだりをしていてもしかたない。
この八日間、透子は試行錯誤を繰り返しながら、ある物だけでどうにか形を整えていた。
日本にいた頃は、謙人との交際がはじまってから本格的に母に料理を習っていた。婚約後も謙人の母親から「謙人の好きな物を教えてあげるから、習いに来なさい」と言われて、彼の好物は一通り作れるようになったし、姉の凜子もいくつかの時短料理を教えてくれた。
その時の知識や技術を総動員して、どうにかこうにか応用していく。
(三万阮を払ってから、今日で五日。泊まれるのは明後日まで。…………新しい宿が見つからない以上、そろそろ延長をお願いしないと…………)
紅霞には迷惑なことだろう。
重い気分でスープに酒やら塩やらを加えていると、その家主が帰ってきた音が聞こえた。
「おかえりなさい」
透子が玄関に行くと、紅霞が「ん」と饅頭の入った紙袋と、市場で買ってきた野菜を渡してくる。透子が一人では買い物に出られないため、明日の食材を買ってくるのは紅霞の役目だ。
紅霞は台所に来て、仕事場から持ち帰った古新聞を竈の脇に置く。
「スープの味はこれでいいですか?」
透子が小皿を差し出と、紅霞は受けとって口をつけた。
「ん。うまい」
「よかった」
透子はスープを椀に注ぎ、紅霞が買ってきた饅頭を皿に並べる。
透子が少しずつ料理を担当するようになっても、紅霞は毎日、饅頭を買ってくる。
どうやら、これは彼の好物らしい。一日に一回は食べないと落ち着かないようだ。
(日本人にとってのお米…………いえ、おにぎりみたいな感覚かな?)
自室で上着を脱いできた紅霞が席につき、透子も席について夕食となった。
夕食は日本にいた頃よりも少し早い。
基本的に灯りが薄暗く、あまり長々と夜を過ごさないからだ。
「なんか、料理がうまくなったな」
「本当ですか?」
「最初の頃は、焦がしたり生煮えだったりしたけど、今は全然違う」
「竈の使い方や、火の燃やし方がわかってきましたから。だいぶん変わったと思いますよ」
気休めでなく、透子は胸をなでおろす。
料理でも掃除でも、褒めてもらえると「ここにいていい」と言われたようで、少し安心した。
「俺も料理はたいして教えられないし。透子が『作る』って言い出した時は、どうしたもんかと正直、不安だったが、今は助かってる。いちいち外で買う手間と金が省けるからな」
詳細を聞くと、伴侶が亡くなって以来、紅霞は三食すべて買って済ませていたらしい。「自分一人では作らないし、作る時間もないから」というのが、その理由だ。伴侶がいた頃は、彼が三食を作って弁当も持たせてくれていたそうだ。
その理由は透子にも理解することができた。
電子レンジもガスコンロもない。まず竈に火をつけるところからはじまる。こちらの世界の料理は面倒だ。毎食、それもたった一人が食べるために火を熾して食材を切って…………なんて、時間もお金も、もったいなさすぎる。
特に、火を熾すための薪はガスよりも高価だった。食材の値段に薪の値段を考慮すれば、一人暮らしなら外で買って食べるか店に入るほうが安上がりだ。
「でも毎食作ると、食材も薪代もかかりますし。作る、と言ったのは私ですけれど、お金がかかるなら、やめます。自分で言うのもなんですが、私がいるせいで食費が増えているんですし…………」
「二人分、一気に作るなら、買うより安い。透子が作ってくれるなら、そのほうがありがたい。つうか、ちゃんと宿代払っているのに遠慮しなくていい」
「あの金額で足りますか?」
「充分だ。俺だって、透子が昼間に家のことをやってくれるおかげで、前より長く仕事に集中できるようになったんだ。――――なんか、透子は心配しすぎじゃねぇか?」
「そう…………ですか?」
家の主でありながら、紅霞は透子が失敗しても責めたり咎めたりすることはなかった。無茶な要求をしてくることもない。
だからこそ逆に、これ以上の迷惑も負担もかけたくなかった。
慎重になるのはいたしかたない、と自分では思っている。
「あ、そうだ」
透子は昼間、考えていたことを思い出す。
「こちらで、なにか初心者にもできるような仕事はありませんか? 家の中でできるものがいいんですけれど…………」
「内職か? え? やるつもりなのか?」
「はい。迎えがあてになりませんし、先立つ物が欲しいですから」
「内職…………どんなのがあったか…………?」
首をひねる紅霞に、透子は思いついて訊ねてみる。
「紅霞さんの伴侶の方は、どんなお仕事をなさっていたんですか?」
それとも専業主夫だろうか。
紅霞が答える。
「あいつも外の仕事だ。街のでかい食堂で料理人として雇われてて、よく余り物をもらって帰って来てたんだ。料理が上手かったからな。店主にも重宝されてたんだぜ?」
目を細めた紅霞の表情は誇らしげで、それだけで彼の心がまだ亡き伴侶のもとにあることが、ありありと伝わってくる。
正直、透子は(羨ましい)と思った。
紅霞は、伴侶が亡くなって四年が経つ今も、伴侶を愛している。
彼との結婚生活はたった二年間だったらしいが、その二年間は紅霞の人生の中でもっとも幸せな二年間だったろう。
(私とは大違い)
透子の結婚生活は一日もなかった。
夫となった男性は結婚式当日に別の女と逃げ、離婚の話し合いをした時以外、顔を合わせることもなかった。
仮に、透子が日本に戻らず死んだことになっても、謙人は透子のことを思い出しはすまい。
ましてや死後も想いつづけるなんて。
たとえ男同士という違いはあっても、透子は、自分が死んだあとも紅霞に愛されつづけている翠柳という男性が羨ましく感じられた。
(少し翠柳さんのことを訊いてみたいけれど…………まだ迷惑かな…………?)
透子のうかがうような視線に気づかず、紅霞は言う。
「とりあえず、内職については俺が調べてみる。けど、根は詰めるなよ? 透子はちゃんと宿代を払ってるんだ、遠慮しすぎなくていい」
「宿代だけではなくて、なにかあった時のためにも、少し貯めておきたいんです」
「あいつもそんなことを言って、『もう少しだけ』『もう少しだけ』ってくりかえして、気づいたらどうにもならない状態になっていたんだよ」
「…………っ」
透子は言葉に詰まった。
「翠柳さんは…………その、病気で…………?」
「流行り病だ。薬は手に入ったし、入院もできたが、それまでの不摂生というか、根を詰めていたのが仇になった。職場でも頼まれると断れなかったようだし…………寝不足やらで、体力が落ちていたんだ」
紅霞の箸がとまる。
「――――気づけなかった」
ぽつりとこぼされた一言。
「紅霞さん」
紅霞は立ちあがった。
「悪い。今日はもう寝る。残りは明日の朝に食べるから、とっておいてくれ」
言い終わる前に背をむけ、ダイニングを出て行ってしまう。
「あ、はい。おやすみなさい…………」
透子はそれだけ言うので、せいいっぱいだった。
「つらいことを思い出させてしまって、ごめんなさい」と謝る暇もない。
(失敗した…………)
一瞬でも「こんなに想われて羨ましい」と思った、それすら恥ずかしく思えた。
紅霞の心には本当に、伴侶の存在が深く深く根付いているのだ。
それはそのまま、失った哀しみの深さでもある。
そこに安易に触れてはならない。
透子はただ、行くあてがないのを、親切で拾ってもらっただけ。
その距離感を忘れてはならない。
(明日、謝らないと)
宿泊の延長の件も話す必要がある。
透子はすっかり食欲が失せ、箸を置いて片付けにとりかかった。




