閑話
けっきょく、異国から来たらしい正体不明の女は、もうしばらく紅霞の家に滞在することになった。
彼女が髪と衣装を売って得た百十五万阮のうち、三万阮が十日分の『宿代』として紅霞に渡された。
透子は「半額を渡す」と、だいぶん粘った。
「いや、そんな大した家じゃないし、ろくなもてなしもできねぇし!」
「泊めてくれるだけでいいんです! とにかく、安全な寝場所が欲しいんです! 家事も、できるかぎりお手伝いさせていただきますから、お願いします! なんなら、もう少し金額を上乗せしますから…………!!」
「五十七万阮でも破格だろ!! アンタは金銭感覚が昇天してるのか!!」
紅霞はまず、透子をなだめるところから始めなければならなかった。
「いいか、よく聞け。まあ、宿に関しては…………家にいていい。手入れはいきとどいていないし、お姫様を満足させるようなもてなしはできないが、それでもかまわないなら、アンタの好きにすればいい。ただ、五十七万は渡しすぎだ。いったい何日、泊まる気だ」
最後の一言はむしろ皮肉のつもりだったが、透子は真面目に考える。
「なにぶん、迎えがいつ来るかわからないので、確かなことはなにも言えないんですが…………ひとまず一週間分でいいですか? あ、もちろん、昨日と一昨日の分も払います」
「わかった。とりあえず、今日から七日間。昨日一昨日の分も含めて、一万五千でいい」
透子は戸惑いを見せた。
「いくらなんでも、九日間で一万五千阮は少なすぎませんか? こちらでは、それが相場なんですか? せめて、三万阮は出させてください」
「いや、三万は出しすぎだろ。うちは高級な宿じゃない」
「でも無理を言って、泊めていただくんですから…………」
そんなやりとりの果てに、ひとまず『九日間で二万五千阮』に落ち着いた。
実のところ、紅霞も現状を考慮すれば、収入は少しでも多いほうがありがたかった。
透子はさっそく、手に入れたばかりの百十五万阮から二万五千阮を紅霞に渡す。
その素直な態度に(やっぱり金持ちの家の出だな)と紅霞は確信を深める。
その後、透子に頼まれて女性用の衣服を扱う店に案内し、必要な着替え(主に下着)を購入すると、適当な店で惣菜や饅頭を購入して二人で帰宅した。
店で食べたほうが早かったが、透子の性別がばれた時の危険を考えると、家で食べるのが無難だった。
予定外の臨時収入のおかげでちょっと多めに買えた惣菜に舌鼓を打ち、ひととおり食べ終えて茶を淹れていると、透子が訊ねてくる。
「お世話になるにあたって、なにか約束事とかありますか? ここは入るな、とか、これは触るな、とか。夜は何時までに眠る、とか」
真剣な態度とまなざしで見あげてくる真面目な顔を見てしまうと、これ以上の反対や抵抗や皮肉は無理だった。
翠柳の言葉を借りれば『紅兄は自分では冷血漢ぶっているけれど、実際は優しくて、困っている人を見捨てられないんだよね』ということになる。
どうなることやら、と不安半分緊張半分で、出会ったばかりの、名前くらいしか知らない女との生活がはじまった。
翠柳との思い出のつまる家に完全な赤の他人を滞在させることに対して、抵抗がなかったわけではない。
そのへんの紅霞の心情は、透子のほうも察していたのだろう。
透子は滞在が決まったその日から、積極的に家事を手伝ってきた。
「これ、移動させていいですか?」「これは、どこにしまうんですか?」「これはどうやって使うんでしょう?」「ここを掃除する道具は、どこにしまってあるんですか?」
そんな些細な事柄でも一つ一つ紅霞に確認して、けして勝手に判断しようとしない。
人の家で勝手にくつろぐ友人もいることを考えれば、透子の遠慮深さはちょっと珍しいくらいだった。
(どういう育ちなんだ。金持ちの令嬢じゃないのか?)
紅霞は内心、透子という女の態度というか、存在そのものに衝撃をうけている。
透子はいかにも素直というか終始下手で、要は可愛げがある。
女の数が少なく、《四気神》に守られているこの世界では、総じて女は強気だ。自分の意見をはっきり述べ、場合によってはそれを押し通して、男に押しつけることもいとわない。
特に紅霞は、事情があってそういう女の見本というか集大成のような女を知っている。
なので、なおさら透子という女の態度や反応が珍しかった。
彼女の態度も、紅霞が彼女を泊めると決断させた一因だ。
(透子があれみたいな女だったら、かまわず叩き出していたな)
そんなことを考えつつ、紅霞は透子の質問に答えていくが、しばしば返答に詰まる。
「あー…………こういうことは翠柳に任せていたからな…………」
ちょっとした食器や掃除道具の置き場所。しまう位置。
それがわからなくて適当にその辺に置いて、それが一つ二つと増えて、いつの間にか卓の上に小さな山を作っていたり、腰かけの上を占領していたりするのだが、忙しさにかまけてついつい後回しにした結果、室内全体がとっ散らかってしまっている。
あらためて見ると「よくこの部屋で初対面の人間を迎えようと思ったな」と、自分でも思ってしまった。
「さしつかえなければ、私が片付けておきます。しまう場所さえ決めていただければ、紅霞さんが仕事に行っている間に掃除しておきますけれど…………」
ほぼ初対面の相手にそう申し出られ、さすがにちょっと恥ずかしくなった。
(翠柳…………やっぱり俺はお前がいないと駄目だ…………いろんな意味で…………)
写真立ての中の笑顔に心の中で語りかける。
翠柳が見ていたら、さぞや呆れたことだろう。
『もう、本当に紅兄は。やればできるくせに、やらないんだよね!』
そういって怒り、そして笑う伴侶の顔を、四年経った今でも、まざまざと思い描くことができる。
(翠柳がいたら…………今頃、どんな状況になっていたんだろうな?)
「気の毒だから泊めてあげよう」と言ったろうし、一方で「家事は僕がやる」と譲らなかったろう。家事好きで世話好きな性格だった。
(たぶん、翠柳がいたほうが、あれこれ透子の世話を焼いてうまく回ったんだろうな)
どう考えても、十八歳という伴侶の享年が早すぎたのだ。
(正式な結婚生活は二年かよ…………)
たぶん、どれほど天や神を呪っても、気の済むことはない。
そんな風にいなくなった伴侶の存在を偲びつつ、出会ったばかりの女と互いに手探りで相手の内面や距離感を測りながら、一日一日が過ぎていく。




