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翌日。透子は朝食を終えると、まず紅霞に髪を切ってもらった。運よく、今日は紅霞は仕事が休みだ。透子の髪をすくい、確認してくる。
「本当にいいのか?」
「はい。このままだと長すぎて、手間がかかるので」
「もったいねぇな」と紅霞は呟きつつも手を動かしていく。ハサミではなく小刀だ。
膝の下まで伸びていた髪が肩甲骨の下までの長さになる。
透子としてはさらに短くしたかったが、これ以上短くすると「出家した尼か、罪人だ」と言われて断念した。
紅霞が彼の少年時代の上下を貸してくれる。切ったばかりの髪もうしろで一つに結んだ。こちらの男性は基本的に髪は一つに結び、長い髪をそのまま垂らすのは未婚女性の証だという。
つまり透子は『男装』したのだ。
「女を連れていると、それだけで目立つ」と紅霞に言われてのことだった。
透子としては「これだけで男というのは無理があるのでは?」という出来栄えだったが、紅霞に言わせると「女は珍しいから、左手の甲に《印》がなくて、恰好が男なら、『女顔の男』でごまかせる」とのことだ。
切った髪を一つにまとめて包み、戸締りを確認して玄関を出る。
「もともとは小金持ちの別荘」というだけあって、家の外は景色が良かった。
丘の上にあるため、林と、その中にある夕蓮湖が見渡せる
林を横切るように道が伸びていて、道の先に街を囲む城壁が見えた。
体感だが、街までは徒歩で小一時間だろうか。
「紅霞さんの仕事場って、街中ですか?」
「ああ。西地区寄りだな」
ということは、毎日、往復二時間かけて通勤しているということか。
(通勤だけで二時間って…………大きい…………そもそも徒歩だし…………)
車や電車に慣れた日本人には、なかなかの運動量である。
街に入ると、景色は一変した。
大通りは三車線分の幅はあり、等間隔に柱が建ってその間をロープがつなぎ、ロープは等間隔に赤や白の提灯を吊るしている。道の左右にはテーブルを並べた店が連なり、おいしそうな匂いがただよって、籠をさげた行商だの半裸の大工だのが行き交っていた。
(本当に男の人ばかりだ…………)
女性もいないわけではないが、数えるほどしか見当たらない。
「こっちだ」
透子はまず鬘屋に案内してもらった。
紅霞に交渉してもらい、切って二時間と経っていない髪の束を売る。
昨夜、ヒロインが髪を切ってお金に替える物語を思い出し、思いついた方法だった。
幸い、この世界には人工の毛髪はないらしく、五万阮が手に入った。
「五万阮って、どのくらいの金額ですか?」
「俺だと、一ヶ月分の家賃と食料一週間分だな」
紅霞の家の家賃は格安だと言っていたことも考慮すると、『五万阮』はひとまず『五万円くらい』と仮定しておけばいいだろうか。
次に古着屋に連れて行ってもらった。
昨日、新聞を読んでいた時に広告を見つけたのだ。
売るのは、この世界に来た時に例の女神からもらった、緑の衣と黒の帯である。
「いいのか? たぶん高級品だろ? 大事な服じゃないのか?」
店主に見せる前に、紅霞は透子に確認してきたが、透子の意思は変わらない。
「他に私の持ち物はありませんし。宿をさがすにせよ食事をするにせよ、とにかく先立つ物がないと、どうにもなりません」
紅霞の家に初めて泊めてもらった晩から、考えつづけていたことだ。
とにかく金銭が欲しい
あの女神といつ再会できるか見当さえつかない以上、先立つ物は必要不可欠だった。
むろん、衣装は借り物だから、勝手に売ってしまうことに抵抗はある。
しかし透子には他に手放せるものがない。そして、命の危機という、人の最大の弱みに付け込んで取引を持ちかけた挙句、人を危険にさらして、いまだ迎えに来る気配すらないあの自称(もう『自称』でいい)・女神には、多少の恨みというか反発がある。
高級品だとしても、服の一枚くらいは売ってしまっても良心の呵責は少なかった。
『放置していた女神が悪い』、その一言で済まさせてもらおう。
そう結論づけて、衣を差し出したのだが。
「こりゃあ、上等の絹だ。刺繍はないし、縁取りも最低限だが、新品だし、染色も深くてきれいな色が出ている。これなら百万は出せるよ」
年配の店主が布地を見るなり、感嘆の声を出した。
「ひゃ…………!」
頭の中に流れ込んできた数字に透子は息を呑んだ。
「帯も地味だが、質のいい布だ。こっちは五十万ってところだな」
「ご…………っ」
めまいがした。
成人式に着た振袖よりも、結婚式に着たウェディングドレスよりも、はるかに値のはる代物だ。そんな物を普通に着て、湖に落ちたなんて。
「アンタ…………いいとこのお嬢様だったのか…………」
隣で紅霞も目を丸くする。
「違います、違います」
透子は慌てて否定しながらも、躊躇せざるをえなかった。
必要に迫られ「売ってしまえ」と思った衣だが、百万円もする高級品を勝手に手放して、あとで弁償を求められたら。
それに。
よもや、この服が『発信機』の可能性はないだろうか?
女神から与えられた服だ。魔法の一つもかけられていても不思議ではない。
(でも、それにしては男達に襲われかけたし、丸二日が経つのに迎えに来る気配もないし)
迷ったが、決めた。
万一、魔法の道具だった時の用心に、帯は残して衣のほうは売ることにした。
「いいのか? 大丈夫か?」と紅霞が何度も確認してきたが、透子は緑の衣を店主に渡す。
(今は、お金が最優先。これ以上、紅霞さんに迷惑をかけるわけにもいかないし。まあ…………この先、さらにお金に困ることがあれば、帯も手放すかもしれないけれど…………)
その前に、あの自称・女神と再会できることを祈ろう。
店主と紅霞の鬼気迫るやりとりにより、さらに金額が上乗せされ、最終的に透子は百十万阮を手にして古着屋を出た。
「俺の給料の半年分以上だろ…………」
店を出た紅霞が額に手をあててうめく。
透子も働いて稼ぐ社会人として、気持ちは理解できた。
「で? どうすんだ? 金は手に入ったし、どこかのちゃんとした宿にでも泊まるか?」
「それなんですが」
透子は遠慮がちに切り出した。
「ちゃんとした宿に泊まったとして…………《無印》とばれた時、無事でいられると思いますか?」
「あー…………」
紅霞もやや遠い目になる。
「ここは、そんなに治安の悪い街なんですか?」
「どうだろうな? 俺も夕蓮を出たことがないから、断言はできねぇな」
並んで歩きながら、紅霞は推測を話す。
「たぶん、透子に《無印》でない母親とか姉妹がついていれば、安宿でも高級な宿でも、ばれても即どうこうということはないんだろうが…………」
しばし、どちらも無言になる。
「あの…………」
心苦しかったが、透子は口に出さざるをえなかった。
紅霞もなんとなく、彼女が言い出すであろう内容を察していた。
「重ね重ね、ご迷惑をおかけすることは承知しています。でも…………もう少しだけ、紅霞さんのお宅に置いていただけませんか? 迎えが来るまででいいんです。お金は工面できたし、宿代は払いますから! お願いします!」
(やっぱりそうなるのか)と紅霞も唸る。
《四気神》がいない以上、泊まる場所と相手を厳選しなければならない彼女の事情も、理解はできるけれど。
紅霞は透子を『だまされてつれて来られた挙句、不慮の事故で誘拐犯とはぐれた《無印》の女性』と解釈している。怪しい危険な連中に大挙して来られるのは御免だ。
そもそも彼は女性に親切な性格ではない。伴侶に男を選んだことからも、それは自他ともに認める事実だ。おまけに今の紅霞は、無用に女性と関わりたくない理由も抱えている。
駄目もとで提案してみる。
「俺の友人の家とか…………」
「安全な、信用できる方ですか?」
透子は失礼を承知で、単刀直入に訊いた。
事は安全と貞操に関わる。治安の良さで有名な日本でだって、知らない男性の家に一人で泊まることなどありえないのに、ましてや女性が珍しい異世界で、なんて。
透子の真剣なまなざしに、紅霞も返答に詰まる。
信用できる友人がいないわけではない。だが『透子から見て安全か』となると、話は別だ。
友人は紅霞のように男を伴侶に選ぶ性質ではないし、第一『わけあり』とわかっていて押し付けるのも気が引ける。
紅霞は悩んだ。が、答えはもう出ている気がした。
透子の駄目押しが加わる。
「宿代として、衣代の半額をお渡ししますから!」
「いや、それは渡しすぎだろ!!」
結論は出た。




