BAD ACTORS ~ 罪源暴食 しゃべりだすひき肉 ~
子どものころ、学校から帰ってくるとやっていた古畑任三郎の再放送が好きでした。
それをきっかけに刑事コロンボも見るようになり、すっかり倒叙ものの虜に。
倒叙ものが好き過ぎて、この小説を書き始めました。
社長室に据え付けられた無数のモニターの一つに廊下の角を小走りで曲がる工場長の姿が映った。
あと数十秒後に、社長室のドアがノックされ、小太りの工場長が禿げ上がった顔を出すに違いない。
工場長の言いそうなことはわかっている。
もしも、言うことが一言一句予想道理なら思わず笑ってしまうかもしれない。
皮張りの椅子に深々と腰かけ、モニターを眺めながら社長のリチャード・オベロンはそう思った。
社長室のドアがノックされたので、リチャードはドアの向こうの工場長に入りたまえと声をかけた。
すると小太りで見るからに気の弱そうな初老の男がハンカチで額に浮かんだ汗を拭きながら、社長室に入ってきた。
工場長は見るからに緊張した様子だった。
さっきから額に浮かんだ汗をせわしなく拭いていたし、肩は小刻みに震えていた。
「しゃ、社長に、改めてお話があります!」
工場長はうわずった調子で言った。
「そんなに改まってなんだい?工場長?」
リチャードはモニターから目を離すと座ったまま工場長の方を向いた。
リチャードの声はガチガチに緊張した工場長とは対照的に余裕が感じられた。
工場長は興奮した様子で言った。
「マイケル、ご存じでしょ?」
リチャードはぴくりと眉を動かした。
「第2ラインの班長の!あいつに問い詰めたんです!そしたら全部社長の指示だと!」
リチャードは何も言わずただ両手を擦り合わせて黙って話を聞いていた。
「そりゃ、社長に意見するなんて生意気と思われてもしかたがないと思いますし、先代のことを引き合いに出す私を目の上のたんこぶとお思いでしょ?でも、いくらなんでもこんな報復あんまりですよ!」
工場長は話している内にさらに興奮したように唾を飛ばしながらまくしたてた。
「前にも言いましたがこんなやり方、私はもう耐えられません!」
工場長は絞り出すように言った。
今にもその場にへたり込んで泣き出しそうな勢いだ。
「お客さんたちを騙して、従業員から搾り取るようなやり方は先代の築き上げてきた信頼に泥を塗るようで、もう我慢できんのです!」
熱く語る工場長とは対照的にリチャードは手を擦り合わせながら涼しい顔でいる。
工場長は、社長と言ってリチャードをまっすぐに見据えた。
「考えを改めていただけないのなら今度こそ、今度こそ私はこの工場のすべてを世間に公表させていただきます!クビにでもなんでもどうぞしてください!」
工場長は言いたいことを言い切ったらしく。真っ赤な顔になっていた。工場長は肩で息をしていた。
一方、リチャードは話を聞き終えて突然腹を抱えて笑い出した。
工場長は突然笑い出した目の前の社長を呆気にとられたような目で見ていた。
しばらく社長室にリチャードの笑い声がこだまする。
「すまない。工場長」
リチャードは笑い過ぎて目じりにたまった涙を指で拭いなら言った。
「どうやら、君は私のことを血も涙もない暴君か独裁者か何かだと誤解してるみたいだから、それがおかしくてね」
リチャードはそう言うと椅子から立ち上がり工場長に歩み寄った。
そして、工場長に深々と頭を下げた。
「本当にすまない」
工場長は呆気にとられ口をぽかんと開けてしまった。
「認めようマイケルの言うことは本当だ。亡くなった父とことあるごとに比較され、ついカッとなって子どもじみた意地悪を君にしてしまったんだ。まさか君がここまで追い詰められていたとは、本当にすまなかった」
工場長は目の前の社長の行動を予想だにしていなかったらしく慌てふためいた。
「そんな社長!頭を上げてください!」
リチャードは頭を上げると両手で工場長の肩を強く掴みすがりつくように言った。
「だが、理解してほしい。父のような優れた経営者の跡を継ぐ重圧を!たった一つ舵取りを間違えただけで、君たち従業員を路頭に迷わせてしまう責任の重さを!私は追い詰められて神経質になっていたんだ!」
リチャードはやや芝居がかった調子でそう言うと工場長の肩から手を放し、自分の顔を両手で覆った。
「まったくおっしゃる通りです。お察しいたします」
工場長は社長を慰めるように言った。
「君の言う通りだ。正直今日まで君のことを小うるさい目の上のたんこぶだと思い、憎んでいた。しかし、今さっき必死な君の姿を見て、目が覚める思いだ。どうかいままでのことを許してほしい」
工場長は社長の言葉を半ば呆気にとられながら聞いていた。
「見ていたまえ、今日からわが社は生まれ変わる」
リチャードはそういうと机に備え付けられたマイクのスイッチを入れた。
「全社員に告ぐ。全社員に告ぐ。社長のリチャードだが、作業中に大変申し訳ない」
無数のモニターに様々なフロアの従業員たちが皆、何が始まったのかと顔を上げ、放送に耳を傾けている様子が映し出される。
「本日は5時にタイムカードを押したら、全員が速やかに退社すること!仕事が残っていても本日は結構!残業は私が許さない。今日はみんな家族と晩御飯を食べてあげなさい。以上!」
リチャードはマイクの電源をOFFにするとふうとため息をついた。
そして次の瞬間ぎょっとした。
なぜなら工場長が床にうずくまり頭を床にぶつけながらおいおい泣いていたからだ。
「どうしたんだ?工場長?」
リチャードは怪訝そうに工場長を眺め、膝をつくとうずくまって泣いている工場長の背中をさすってやった。
工場長は懸命に何か言おうとしているようだったが、その度にしゃくりあげてまともに会話できそうにない有様だった。
しばらくして工場長は落ち着いたらしく手にしたハンカチで鼻水と涙でべたべたになった顔を拭くとしゃべりはじめた。
「社長。お見苦しいところをお見せして申し訳ございませんでした。社長にわかっていただける日が来たと思うとわたくしもう嬉しくて感極まってしまったのです!」
工場長は、ハンカチでくしゃくしゃと顔をぬぐうと言葉を続けた。
「同時に、社長も悩んでいらっしゃることも考えずに疑い、無礼な言葉を吐いた自分が恥ずかしくてしょうがなくなりました。度重なる非礼をどうかお許しください!」
「何を言うんだ。君が我が身を省みず厳しいことを言ってくれたおかげで、私の目が覚めたんだ。これからも我が社の発展のためにぜひ協力してほしい」
リチャードは工場長の肩を優しくポンポンと叩いた。
「まったくもって、勿体ないお言葉です。こんなことならもっと早く腹を割ってお話しするべきでした。本当に社長を疑い恥じ入るばかりです」
工場長は眉間に皺を寄せると言った。
「さて、謝るのはもうやめた前。工場長。それより、生まれ変わる我が社の門出を祝って乾杯しよう」
リチャードは部屋の隅の小さなワインセラーからボトルを取り出すと机の上にグラスを二つ並べ、注ぎ始めた。
工場長は慌てたように言った。
「社長。私が下戸なことご存じでしょ?それにそんな高級なワイン、私などのために勿体ない」
工場長は両手を前に出すと遠慮して勧めれた酒を断ろうとした。
「まぁそう言わず。一杯だけ。ジュースみたいなもんさ。もしや毒殺でもされるかと心配してるのかね?」
リチャードはそういうといたずらっぽく舌をべっと出すと、工場長に笑いかけた。
「社長。ご冗談を」
工場長は勧められたグラスを断りきれずに受け取った。
「それでは工場長の健康に」
リチャードはそう言うとグラスを傾けた。
「社長の成功と我が社のさらなる発展に」
二人は乾杯と言ってグラスをぶつけ合いグラスのワインを飲み干した。
リチャードは、遠慮する工場長のグラスに酒を絶えず注いいで行く。
しばらくすると工場長は酒がまわり、すっかりできあがっていた。
「あすじゃ、だーめですかねー、社長?」
一杯のつもりが勧められるままについつい何杯もおかわりしてしまった工場長は呂律の回らない口調で言った。
「だめだめ。確か。君、この第2ラインの缶詰を作る機械のどれかを早く改善してほしいって言ってただろ?どれだったか?」
従業員たちが帰宅して誰もいなくなった精肉工場の鉄の足場の上を工場長とリチャードは歩いていた。
工場長はリチャードに導かれるままにふらふらした足取りで足場の上を進む。
静まり返った工場の中に靴が鉄の足場を踏みしめる乾いた音が響く。
「そう!そうなんです!よくぞ言ってくれました!」
工場長は突然興奮した様に言った。
「あそこ!あそこですよ!」
工場長が指さした先には巨大な鉄の漏斗とタンクを合わせたような機械があった。
まるでそれは鋼鉄の蟻地獄のようだ。
「あれのどこを改善した方がいいんだっけ?」
工場長とリチャードは機械に近づく。
「このミキサーなんですけど、従業員がブレンドするための肉とか調味料を放り込むための足場に柵をつけてほしいんです」
工場長を先頭に二人は巨大ミキサーの細い足場をまるで平均台を渡るようにそろそろと進んでいく。二人の下には巨大な鋼鉄の蟻地獄。
機械の底には真っ黒な大穴が開いていて、見えないがその先には鋭利な無数の刃が並んでいる。
「ね?社長?おっかないでしょ?現場としては、だれか肉の缶詰になっちまう前に対策をとりたいわけですよ」
工場長は笑いながら背後に立っている社長に言った。
だが、工場長は知らなかった。背後に立っている社長が口元を三日月のように裂けんばかりに笑っていたことを。
次の瞬間、工場長の体は力いっぱい突き飛ばされて、鋼鉄の蟻地獄の中に真っ逆さまに落ちて行った。
工場長は体をしたたかに打ちつけてぎゃっと悲鳴を上げた。
「しゃ、社長!なんの冗談ですか!冗談にしても、突き飛ばすなんて、ひどいじゃないですか?」
社長からの返事は帰ってこない。工場長は自力で鋼鉄の上戸を上って這い出そうとするがつるつる滑って思うように上ることができない。
しばらくすると機械全体が小刻みに振動しだした。機械が起動したのだろう。
そして、天井から吊り下げられたパイプから工場長の頭の上に桃色のひき肉が滝のように降ってくる。工場長は振ってきたひき肉に足を取られる。
「社長。早く機械を止めてください!」
工場長が叫んでも社長からの返事は返ってこない。
「嫌だ!このままじゃ!死んでしまう!」
すっかり酔いがさめた工場長は半狂乱になって鋼鉄の蟻地獄の中で暴れる。しかし、降り注ぐ肉の雨に足を取られ脱出はできない。どんどん頭上から降ってくるひき肉に体が埋まっていく。
するとひょっこりとリチャードが顔を出した。
「あははは、大人しく缶詰になってろ!工場長!」
リチャードは工場長に向かって言った。
「親父がくたばって、会社を自由にできるかと思ったら、やることなすこと口出ししてきやがって、うっとおしくてしかたがないんだよ!」
その言葉を聞いて工場長の目には悔しさのあまり涙があふれて来た。
「この悪魔!今に見ていなさい!」
工場長は憎しみのこもった眼で自分をはめた社長を睨み付けた。
「すぐにすべての悪事は暴かれて!直に天罰が下るぞ!」
工場長はリチャードを呪う言葉を吐いた。苦し紛れか、ひき肉をまるめた肉団子を次々とリチャードめがけて放り投げた。
「バーカ!そんなもん当たるか」
肉団子は社長にかすることすらもなく、次々にミキサーの外の床にベチャベチャと落ちていった。
工場長の体はずぶずぶとひき肉の山の中に埋もれていく。
哀れな工場長は悲鳴を上げることもできず鋭利な刃物が回転するミキサーの中へと吸い込まれていった。
しばらくして、機械から缶詰が次々と吐き出される。物を言わない缶詰となった工場長をリチャードは見下ろした。ほかの缶詰と混ざって異物混入騒動にでもなったら面倒だ。
リチャードは工場長の缶詰を台車に乗せると産業廃棄物を捨てるためのダストシュートに一気に放り込んだ。缶詰は奈落の底へと落ちて行く。ここなら見つかるはずはないだろう。
邪魔な工場長を消す仕上げにリチャードは監視カメラのフィルムが置いてあるモニタールームへ行った。リチャードは第2ラインの缶詰ミキサー周辺を記録したフィルムを抜き出すと万一だれかに見られることがないようにその場でフィルムにライターで火をつけた。
火をつけられたフィルムはまるで熱さに苦しみ身をよじるようにしながら灰になった。
これで自分の犯行を示す証拠はすべて消え去った。
リチャードは思わず、口の端を緩めてにやけてしまった。
リチャードは社長室に戻ると革張りの椅子に深々と腰かけて自分以外誰もいなくなった部屋の中で一人グラスを傾けた。
「主人がもう3日も家に帰らないんです。職場の方にも顔を出していないんですよね?社長さん?」
リチャードは革張りの椅子に腰かけながら工場長夫人の問いかけにええと答えた。
「もしかして、ご主人は最近何か悩んでいる様子はありませんでしたか?」
リチャードの問いかけにはっとなったように工場長夫人は言った。
「そうなんです。何か職場の人が自分の指示通りに動いてくれないことが多いようでやきもきしているようでした。ご存じのとおり主人は、ぱっとしないし、気が弱くて人様の上に立つタイプではないですから」
工場長夫人はそこで言葉を切った。
「でも、うちの人は真面目なことだけが取り柄みたいな人だから、さぼったり投げ出したりというのはありえないと思うんです。だから、何か事故にでも巻き込まれたんじゃないかと、私もう心配で!心配で!」
工場長夫人はハンカチを取り出すとあふれて来た涙をぬぐった。
「申し訳ない!奥さん!すべて私の責任だ!」
リチャードはそういうと右手で額を抑えた。
突然大声を出した社長の姿に工場長夫人は面食らったらしい。
「正直にお話しましょう。私がいけないのです」
工場長夫人はわけがわかないという風に怪訝そうな目でリチャードを見た。
「ご主人が職場に来なかった日の前日、実は私は彼から現場での対人関係を相談されていたのです。私は彼に自分のいたらなさを詫びました。その後は、彼と今後の会社の方針について意気投合しましてね。それでつい嬉しくなってしまい彼がお酒が飲めないのを知っていながらワインを勧めてしまったのです。かなり酔いが回っているみたいで足元もおぼつかなかったから、帰り道で何かあったのかもしれない」
リチャードはああ私のせいだといって頭を抱えた。
その姿を見て、工場長夫人は涙ぐみ、そんなにご自分を責めないで下さい。社長さんは全く悪くありませんと何度も言った。
リチャードは困ったことがあったら、遠慮なく言ってください。彼を見つける為なら協力を惜しみませんと温かい言葉をかけると社長室の扉から夫人を送り出した。
扉をバタンと閉じるとリチャードは椅子に腰かけて、両足を机に投げ出した。
そして、椅子の背もたれに寄りかかると監視モニターを見た。
モニターの一つには工場長夫人が廊下を歩いているのが映っていた。
「昔から彼女のことは好きだよ。こういうちょろいところがさ」
リチャードは口元を緩めにやにや笑いを浮かべて言った。
モニターを見ているとキャスケット帽を被った青年が廊下の角から飛び出してきて、工場長夫人とぶつかったのが見えた。
机に備え付けられたスピーカーから秘書の声が聞こえてきた。
「社長。雑誌記者の方が取材のためにいらっしゃいました」
リチャードはわかったと答えると机の引き出しから適当な紙を取り出しペンで「退屈、退屈、退屈、退屈」と書きだした。
何もかもが自分の計画した通りに進んで拍子抜けだ。まったくもって張り合いがない。
数十秒後、社長室のドアがノックされる。リチャードは、紙に顔を落とし、退屈と書き続けながら、ドアの向こうの相手にどうぞと声をかけた。
「すいませーん。遅れました!お忙しいところ本当に申し訳ありませーん」
ドアを開けてあたふたとキャスケット帽を被った青年が入ってきた。
リチャードは頭を下げたまま上目づかいで青年の姿を盗み見た。
見るからに人のよさそうで頼りない感じの青年だ。
「災難だったね。君」
リチャードは顔を下げたまま言った。
青年は怪訝そうに社長を見て首を傾げた。
「今さっき、廊下でご婦人とぶつかったろ?」
青年は明らかにどきりとしたらしかった。
「すごい!なんでわかったんですか?まるで探偵だ」
青年はなぜわかったのかと不思議そうに自分の体を眺め回して言った。
リチャードは小さく笑うと顔を上げた。
「いや。からかってすまない。こいつで見ていたんだよ」
リチャードはそういうと背後のモニターを指さした。
青年はモニターを眺めて目を丸くしたようだった。
「いや~、す~ご~いな~。お恥ずかしい限りです。こんな風に見張られたら、さぼったり、悪さできませんね」
青年記者は感心したように言った。
「怠け者の尻をひっぱたくのが経営者の仕事でね」
リチャードは腕組みをすると話を進めた。
「話は聞いているよ。雑誌記者の新人くんが来るってね。それにしても彼は災難だったね」
「ええ、先輩はちょっとケンカに巻き込まれまして、今は入院しています。物騒な世の中です」
「ああ、まったくだ。彼は我が社のことを以前から好意的に記事に書いてくれてね。気が合ったのに会えないのが残念だよ。しかし、彼の後輩なら歓迎だ。なんでも聞いてくれたまえ。ただしお手柔らかに頼むよ」
リチャードが冗談めかして笑った。
新人はそれに対して恐れ入りますと頭を下げた。
「いや、それにしても物騒と言えばさっきのご婦人から聞きましたよ。こちらの工場長さんが三日前から行方不明だとか。大変ですね」
リチャードはふむと頷くと言った。
「そうなんだ。彼は非常にまじめな男でね。二〇年間私の父の代から我が社で働いているが、無断欠勤はおろか、遅刻や早退をしたという話すら聞かない。それが突然三日も顔を出さないなんて、いよいよおかしいぞと思っていたところなんだよ」
「そうなんですか。さきほどのご婦人、言ってましたよ。主人は社長に気にかけてもらって幸せだって。お優しいんですね」
「何、当たり前のことだよ。社員は家族同然だからね」
「いやはや、先輩から聞いてましたが、あなたは経営者の鑑のような方だ」
新人は目を輝かせ、感心したように言った。
やれやれ見た目通りとろくてちょろそうな奴だ。リチャードは心の中で新人にベッと舌を出した。
「お褒めに預かり光栄だね。君も何か有力な情報があれば教えてくれれば助かるよ」
新人はわかりましたと言って頷いた。
「あっ、そうそう。さっきから気になってたんですけど」
新人は何か思い出したように言った。
「そこのモニターに映ってる人たちずっとさぼっておしゃべりしてません?」
新人はモニターを指さして言った。
「え?どのモニターだね?」
リチャードは首を傾げて尋ねた。新人が遠くから指さしているせいでどのモニターかわからない。
「これです。このモニター!」
新人はリチャードの隣まで駆けてくるとモニターの一つを指さした。
確かに、二人の従業員がサボっておしゃべりしているようだ。
「まったく、目を離すとすぐこれだ」
リチャードは口を尖らせると言った。
「調度いい。怠け者の尻をひっぱたく経営者の手腕を披露しよう」
リチャードはそういうと机に据え付けられたマイクの電源を入れ、机についたパネルのボタンの一つを押した。
「あー、あー、第2ライン、検品係の二名。口を動かしている暇があるなら、手を動かしたまえ。雑誌記者の方が見えているんだ。私に恥をかかせないでくれよ」
おしゃべりしていた二人はどきりと肩を震わせると慌てたように作業を再開した。
「お恥ずかしいところをお見せしたね」
「いやー、これは痛快ですね」
新人はまた、感心したように言った。
「本当に悪さはできませんね。この机に座ってモニターを眺めていると、下界の人間に天罰を下す神様みたいな気分でしょうね。それにしてもよくできた仕組みだなぁ」
新人は感嘆のため息をもらした。
リチャードは机についたパネルのボタンを指しながら言った。
「このボタンを押すと音声を流すフロアを選択できる」
リチャードは新しく買ったおもちゃを友達に見せびらかす少年のように自慢げに言った。
「ここに一つだけ四角い大きなボタンがありますけど、これはなんです?」
「それは全フロアに音声を一斉に流すためのボタンだよ。社員全員に連絡事項がある時に使うんだ」
新人は繰り返し、本当に良く出来てると口にしていた。
「まぁ、立ち話もなんだからそこの椅子に腰かけたまえ」
リチャードは新人に椅子に座るように勧めた。
それでは失礼してと言うと新人はふかふかした椅子に腰かけた。
「あっ、そうだ。ボイスレコーダーを使わせていただいてもよろしいですか?」
新人は思い出したように上着の裾からボイスレコーダーを取り出すと尋ねた。
「構わんよ」
新人はリチャードから許可を得たのでボイスレコーダーのスイッチを入れてポケットに戻した。
新人は社長室を改めて見回すと思わず感嘆のため息をもらした。
「これは取材とは関係ないんですが、それにしても立派なお部屋ですね。僕、虎の敷き革なんてテレビ以外で初めて見ます」
社長室の天井には煌びやかなシャンデリア、床には虎の毛皮が敷いてある。
壁には立派な角をした鹿やライオンの頭の剥製が飾られ、部屋の隅には小さなワインセラーまである。
「君はお目が高いね。その敷き革は休暇の時に私が仕留めたんだ。引き金をひいて、森の王者の体が傾き、倒した時の興奮は今でも忘れられないよ」
リチャードは興奮したように言った。
新人はそれを聞いてなるほどと言った。
「それでは、取材に入らせていただきます。リチャード社長の率いる会社の今後の展望はいかがですか?」
「そうだね。長く我が社は地域に根差した経営をしてきた。しかし今後は海外の開発後進国に大きなビジネスチャンスがあると私は考えているから、今まで培ってきた食品加工ビジネスのノウハウを足掛かりにして世界進出に挑戦していきたい。ゆくゆくは世界一の企業にしたいと言ったら笑われるだろうか?」
「いえいえ、素晴らしい夢だと思います。なるほど今まで育ててきた缶詰食品作りなどの知識や技術を海外のマーケットで生かしていく計画があるわけですね」
「その通り。さっき話題に出したジャングルの虎狩りを金持ちの道楽と思われるかもしれんが、これも現地に工場を立てるため足を運んで行う立派な調査の一環なわけだよ」
「なるほど。少し聞きづらいないようになりますが、近年環境保全に対して関心が高まり、大規模な工場建設による森林伐採、大気汚染、水質汚濁などに少なからず批判的な意見がありますが、それについてはどうお考えですか?」
いままで滑らかに質疑応答していたリチャードの顔が一瞬だけ曇った。
リチャードは無意識のうちに両手をこすり合わせながら言った。
「新人くん。今日朝ご飯は食べたかね?」
「はい。食べました」
突然の質問に新人は少しきょとんとした顔をして答えた。
「では、昨日の晩は?」
新人は同じく食べたと答えた。
「それに対して罪悪感を感じたことはあるかね?」
「いいえ」
「会社も人間と同じではないだろうか。人間が肉や魚を食うように生き残るために山や川を食わなければならない時もある。多かれ少なかれ犠牲は必要だ。犠牲を払ったとしても現地に新たな働く場所を提供し、暮らしの発展に役立つのが企業の社会貢献ではないのかな?」
「なるほど。雇用の創造や地域社会の発展のためには多少の犠牲はやもおえないということですか」
「もちろん。行き過ぎた環境破壊は慎むべきだと思うがね」
「よくわかりました。雇用について話がでましたので、お聞きしたいのですが、最近過剰労働や劣悪な環境での労働が一部の企業で問題視されていますが、それについてはどうお考えですか?」
またリチャードの顔が一瞬曇ったが、すぐに涼しげな顔に戻って話し始めた。
「正直言って、対岸の火事だね。我が社には関係ない話だと思っているよ」
「といいますと?」
「我が社は全社員が朝九時と夕方の五時にタイムカードを押しているから労働時間になんの問題もないし、この後見学してもらえば納得してもらえると思うが、食品を扱うわけだから労働の環境には気を使っている。何もやましいことはないよ」
「そうですか。工場の中がどうなっているか非常に興味深いのでぜひ見学させてください」
「ああ、いいとも。本当なら私が案内したいんだが、生憎午後から出張があってね。私の秘書に案内させよう」
「恐れ入ります」
新人はぺこりと頭を下げた。
「ほかに、聞きたいことはあるかね?」
「いいえ、今のところは」
「何かあれば、また遠慮なく何でも聞いてくれたまえ」
リチャードはそういうとマイクの電源を入れ秘書を呼んだ。
「記者の方に工場の案内をしてくれ。くれぐれも失礼のないように」
新人は社長室に入ってきた女性秘書に連れだって社長室から出て行った。
リチャードは社長の椅子に座りなおすと大きく伸びをした。
新人は上下の白衣に着替え。髪の毛がすっぽりと収まる帽子とマスクをつけさせられた。靴も長靴に履き替える。そして、手を入念に石鹸で洗い、その後ゴム手袋をつける。全身を秘書にブラッシングされた後、工場内へと案内された。
「体に着いた埃や細菌を徹底的に落とすためにこの部屋に入ってください」
新人と同じ格好に着替えた女性秘書がマスクをつけたくぐもった声で言った。
新人は秘書に小さな部屋に放り込まれる。小部屋には天井と壁に穴が開いていて勢いよく風が吹きつけてきた。
「我が社ではこのような最新鋭の除菌システムを導入しております」
女性秘書はいたって事務的な感情のこもらない口調で言った。
「なるほど、衛生管理は万全なわけですね」
女性秘書はええとそっけない口調で答える。
「ここから先第一ラインです。しっかりとついてきてください。あと勝手に機械に触れたり、くれぐれも私から離れない様に」
秘書はそういうとたんたんと新人の前を歩いて行った。
新人ははいと答えるとまるで鶏についていくひよこのようにちょこちょこ女性秘書の後ろをついて歩いた。
「いや~、工場見学なんて、学生以来でなんかわくわくしちゃいますよ。懐かしいな~。ところであのごつい機械はなんですか?」
新人は目に入る機械すべてが興味津々のようで、先生に質問する学生のように尋ねた。
「そうですか。あれは業務用フライヤーです」
女性秘書は相変わらず無感動な調子で言った。
「あの、すみません。何か怒ってらっしゃいます?」
新人があまりに秘書の態度が冷たいのでおずおずと尋ねた。
秘書は相変わらずの鉄仮面で無感情な調子で別にと言った。
「あっ!このピコピコ光ってビービ―なってる機械はなんですか?」
「それも業務用フライヤーです」
女性秘書の声はやはり冷たかった。
新人は第一ラインを見て回った。壁も床もどこもかしこも清潔な様子だった。社長の話は本当らしい。
工場の中はパイプやベルトコンベヤーが所狭しと広がり、上下白衣で帽子を被り、マスクをつけた従業員たちが持ち場で黙々と作業していた。
機械の中からジャガイモがマシンガンのように飛び出して来たり、ベルトコンベアを流れていく様子を眺めているのはいつまで見ていても飽きない気がした。
工場見学の最後に秘書ができたてのポテトチップスをつまみ食いさせてくれた。
「いや、普段何気なく食べてるポテチがこんな風に作られているとは知りませんでしたよ。いや、業務用フライヤーについても分かったし、大変勉強になりました」
鉄仮面の秘書は相変わらずそっけなくそうですかと言った。
「ところで、第1ラインがあるってことは、第2、第3ラインとかもあるんですよね?そこでは何を食べさせてもらえる……じゃなくて、何をどうやって作っているんですかね?」
「第2ラインは精肉、缶詰、第3ラインは業務用の冷凍食品を扱っています。しかし、残念ながら、そちらは工場見学は行っておりません」
女性秘書は冷たい調子で言った。
「そんな、せっかくなので見せていただくことはできないですか?」
「いたしかねます」
女性秘書は新人の提案にそっけなく言った。
「そこをなんとか」
新人は手を合わせて懇願した。
「規則ですから」
「いや、ほんのちょっとでいいですから」
新人が言い終わるか終らないうちに秘書は甲高い声を上げて言った。
「無理だと言っているでしょう!わからない人ですね!」
いままで無感情だった女性秘書が突然声を荒らげたので、新人は思わずすくみ上った。
「あの、すみません。でも、なんだでダメなんですか?」
新人はおそるおそる秘書に尋ねた。
「企業秘密だからに決まっているでしょ。わかったら、お帰りください」
女性秘書はプリプリ怒りながら、新人に背を向けてどこかへ行ってしまった。
「そんなに怒らなくても……」
新人はそういうとため息をついた。
しばらくして新人は重要なことに気が付いた。
どこが出口なのか、着て来た服を脱いだ更衣室がどこなのかさっぱりわからなくなってしまった。
工場の中は入り組んで、どこも同じような外見をしている。いくつ階段を上がったかとか、どこのドアをくぐったかなんてさっぱり覚えていない。
新人は秘書についていけばなんとかなると高をくくっていたから、さっぱり帰り道がわからなくなった。
頼みの綱の秘書は足早に歩き去り、もう影も形もない。
どこまでも続くがらんとした廊下に取り残されて新人は急に心細くなった。
とりあえずおぼろげな記憶を頼りに秘書の歩き去った方向に進んでみることにした。
すると白衣を着た数人の男たちが向こうから歩いてくるのが見えた。
助かったあの人たちに更衣室がどこか聞こう。
新人はそう思って駆け寄ると男たちに声をかけた。
「すみません。更衣室にはどう行けばいいですか?」
男たちはじろりと新人を見下ろした。
「見かけねぇ奴だな?班長が言ってた新入りか?それとももっと前からいたか?最近の若い奴は俺が顔を覚える前にすぐ嫌になって辞めちまうからわっかんねぇな?」
男の一人が首を傾げた。
もう一人の男が新人の背中をばんと叩いた。
「忘れ物か何か知らねぇが、休憩終わりぎりぎりで、面倒なこと言うなや新入り!早く機械を動かさねぇと社長に俺らまでどやされらぁ」
「ええと、更衣室に行きたいのは、忘れ物ってわけじゃなくて」
新人がなんとか説明しようとあたふたしているうちに、いいから来いと両脇を男たちに捕まれてしまった。
新人を連れて男たちは第2ラインと書かれた重たそうな鉄の扉を押し開けて中に入っていく。
新人は第2ラインの中に入った瞬間、むせかえるような熱気と鼻を突くようなにおいが顔面に叩きつけられ咳き込んだ。
壁や床は第1ラインと同じ色だったのだろうが、黒ずんだり、カビの生えたひき肉が飛び散ったままのせいで黄ばんでいた。新人は見ているだけで喉の奥に不快なすっぱいものがこみ上げてきた。
こんな環境では無理もないだろうが、従業員たちは自分たちに割り振られて仕事をこなしているものの、士気が明らかに低い気がした。
疲れているのかうつらうつら船をこぎながら仕事している者もいれば、二人のおばちゃんはマスクを外してぺちゃくちゃおしゃべりしている有様だ。
「なんだこれ……」
正直、新人は見ているだけで気分が悪くなってきた。
この有様は企業秘密に違いない。女性秘書が見せたがらなかったことも頷ける。
もしも外部にバレたら会社の信用が失墜すること間違いなしだろう。
新人は静かに怒りがこみ上げ今すぐに自分が記者であることを暴露してやりたい衝動に駆られた。だが、なんとか踏みとどまった。
せっかく都合よく従業員と勘違いしてくれているんだ。こうなったら、とことん情報収集してやろう。正体を明かすのはそれからでも遅くはない。
「すみませーん。なんせ入ったばかりなんで、何をやったらいいかわからなくて、何かお手伝いできることはありますか?」
新人は近くを通りかかった男に尋ねた。
「おっ!新入りか?ちょうどいい掃除する人間がいなくて困ってたところだ。あそこに立てかけてあるデッキブラシやらバケツやら自由に使っていいから、掃除してくれ」
新人ははいと答えるとデッキブラシとバケツを持って掃除を始めた。
これは好都合だ。この部屋で汚れていないところを見つける方が難しい。
デッキブラシで床を磨きながら従業員たちの会話に聞き耳を立てるとしよう。
新人がデッキブラシで黒ずんだ床を擦っていると二人の女の会話が耳に入ってきた。
「今日も工場長来なかったね。女でもどこかに作ったのかしらん?」
「ないない。あの人にそんな度胸ありゃしないよ」
新人が声のした方を見て見ると缶詰の検品を適当にやりながら、おばさん二人組が世間話をしていた。
新人にはこの二人に見覚えがあった。社長がマイクを使って注意した二人組に違いない。
懲りずに二人はまたおしゃべりして適当な仕事をしているようだ。
「どうせ、仕事が嫌になって逃げだしたのさ。そう考えた方が普通だろ?」
「確かにね。来なくなる前の日、班長のマイケルに詰め寄ってたみたいだし」
「それ本当かい?あの人、そんな度胸あったんだね」
おばちゃんは心底驚いているようだった。
「あたしも聞いてびっくりだよ、ところでさ……」
おばさん二人組が隣の家の住人の悪口を言い始めたので、新人はそろそろと掃除する場所を変えることにした。
「聞いたんですけど工場長さんがいなくなっちゃって、大変でしょ?」
新人はデッキブラシをかけながらバインダーを熱心に見ている作業員に声をかけた。
「別に」
バインダーに眼を落としながら男はそっけない調子で言った。
「え?別にって、全然困ってないんですか?」
相変わらず新人のことは眼中にないようで男は言った。
「ああ、業務にまったく支障はでてないね」
「ウソでしょ?工場の責任者がいなくなったのに?」
新人は信じられないという調子で男に言った。
「工場長なんていっても、全然権限なくてさ。だれも命令聞かないし、機械にも触らせてもらえなかったからな。あの人」
男は肩をすくめた。
「みんなのやりたがらない掃除とか雑用ばっかやってたし、何の支障も出てないね」
「工場長の命令なのに、みなさん無視してたんですか?あなたも?」
男は肩をバインダーを持ったまま言った。
「別に俺だって、あの人が憎くてやってたわけじゃねぇよ。でも、班長のマイケルがそうしろって言うからさ。実質ここの現場を仕切ってるのはあいつだし。言うこと聞くしかねぇだろ?」
男はあまり新人がしつこく声をかけてくるので顔に苛立ちを浮かべはじめた。
「俺は忙しいんだ!あっち行きな!新入り!何度数えても製造した缶詰の在庫の数がリストと合わないから俺はイライラしてんだ!1個数が合わなくても社長にどやされるのに、30個も合わないんだぞ!30個!何を言われるか!」
新人は男の拳骨が自分の頭に振って来る前に男の前から消えることにした。
「このミキサーってのは、おっかないですね。人が落ちたらとか想像するとゾッとしてぶるっちゃいますよ」
新人は第2ラインの中央にある巨大な鉄の漏斗とタンクを組み合わせたような巨大なミキサーを見上げて、鉄の足場で働いている作業員に向かって言った。
「そりゃあ、間違ってこの中に入ったら、ミキサーの刃で粉々になって、もう何の肉だかもわかんなくなっちまうだろうね」
新人はその言葉を聞いて自分の体が鋭利なミキサーで切り刻まれるのを想像して思わず身震いした。
「もしかして、だれか落ちたこととかあるんですか?」
新人は恐る恐る聞いてみた。
「あはは、そりゃあないだろ?」
作業員はそんなことはありえないという調子で笑い飛ばすように言った。
「もしもそんなことあったらとっくに営業停止になってるよ」
「確かにそれもそうですね」
「そんなことより、お前。阿呆な想像してないで、しっかり掃除してくれよ。このミキサーの周りはひき肉が飛び散って特に汚いんだから」
新人ははーいと答えるとミキサーの周りの掃除を始めた。
ミキサーの周りには何日か経って変色したひき肉が山になっていた。
とても1日やそこらで片づけられるような量ではない。
その様を見ただけで新人は頭がくらくらした。ひき肉の山に近づくとマスク越しにすっぱい臭いが鼻を突き、思わず朝食べた物を戻しそうになって手で口を抑えた。
食道の辺りがぞわぞわして収まらない。しかし、新人は拭い去れない不快感を押し殺して、ひき肉の山を引きちぎってはバケツの中に放り込んで行った。
ひき肉を引きちぎる度に上がるぐちゃぐちゃという音はますます新人を滅入らせる。
さすがにやれと言われたミキサーの周りの掃除を途中で放り出したら咎められるので、鼻を突くような臭いに悪戦苦闘しながら、新人はバケツにひき肉を放り込んでいった。バケツが一杯になると燃えるごみを捨てるダストシュートにバケツの中のひき肉をどしゃどしゃと放り込んでいく。
新人は額に汗をぐっしょりためながら、ひき肉を捨てる作業を何往復もした。
汗で口の周りのマスクはひっついて息苦しさを感じる。
新人は腐ったひき肉の処理にくたびれてきて、少し手を休めた。
ひき肉を詰めたバケツを運び過ぎて手が痛い。
新人は膝に手をついて上を見上げた。新人はその時に見てしまった。
鉄板の足場で作業している男が黒い斑点の浮かび上がった腐った肉を巨大なミキサーの巨大な漏斗の部分に放り込んで言うところを。
新人はあまりのショックに一瞬言葉を失った。
眼の前で唸り声を上げて動いているミキサーは悪魔の機械だと新人は思った。
この悪魔の機械はカビの生えた腐った肉もそれを放り込む人のくたびれて使い物にならなくなった良心も飲み込んでしまうのだ。
偽装の証拠は鋭利なミキサーの刃がすべてぐちゃぐちゃに切り刻んで何が入っているかわからないものに変えてしまう。
最後には、すべて見た目は上品なピカピカの缶詰の中に押し込められて消費者を欺くのだ。
そんなことを新人が考えていると時計が五時を指し就業のベルがけたたましく鳴った。
その音を聞いて、新人は我に返った。
悪夢のような時間は終わったやっと解放されるのだ。
「やった。五時だ!やっと帰れますね。もう僕くたくたです」
思わず新人の口から思っていた言葉が口をついて出てしまう。
それを聞いた男は笑い出した。
新人はあっけにとられて男を見た。
「新入り?お前五時に帰れると思ってるのか?」
「え?五時にタイムカードを皆さん押すんでしょ?」
「新入り、お前、ほんっとにここのこと何も知らねぇんだな?確かにタイムカードは押すよ午後五時きっかりにな。でも、押すのおれらじゃねぇ。女秘書が毎日勝手に押すのさ。午後の五時に帰れるのは帰って晩飯を作らにゃならんおばはんバイト連中だけ。社員も男のパート連中もそこから生産数が足りなきゃラインを動かすし、生産のノルマがクリアできても設備のメンテナンスで仕事終わりは大概早くて11時だな」
新人は目の前が真っ暗になる気がした。
「そのうちまじで死人がでるぞ。五時にすんなり帰れたことなんて、俺の覚えてる限りただの一度もないからな」
男はため息交じりに言った。
「あっ、そうでもないか?三日前は珍しく五時に帰れたな。社長が放送を流して、帰れって、あれはどういう風の吹き回しだったのかね?よっぽどいい事でもあったのか?」
「社長はこのことを御存じなんですか?」
新人はうつむきながら力なく尋ねた。
「そりゃ、社長だぞ。知らんわけあるまい。あの監視カメラでいつもサボってないかって監視してやがるんだから」
男は顎で天井に設置された監視カメラを指した。
「わかったら、お前も持ち場に戻りな。映像は全部記録されてんだからな。サボってたらどやされちまうぞ」
新人は心の中で叫んだ。もう限界だ。もうここから逃げ出そう。これ以上ここにいたら胸の辺りにつまったむかむかした気分でどうかなりそうだ。原因は熱風や鼻をつくような臭いのせいだけじゃない。この工場は狂っている。
新入りの後ろで男が怒鳴る声がした気がしたが、新人はその声を耳の中から締め出して第2ラインから一目散に逃げ出した。
その後ことは正直よく覚えていない。なんとか、巨大な工場の中から自分の服を脱いだ更衣室を見つけ出して着替え、工場の正面玄関から出た時に我に返った。
外はすっかり日が傾いて空が茜色に染まっていた。
新人は澄んだ空気を胸いっぱいに吸い込んだ。
自分が先ほど飛び出してきた厳めしい石造りの正面玄関は巨大な化物の口か、人外魔境へとつながる地獄の門のように思えた。
新人が工場から立ち去ろうとした時に、見覚えのある女性が立っていることに気が付いた。
「こんばんは。あなたは今朝の記者さんですね」
そこに立っていたのは新人が今朝工場の角でぶつかった工場長の奥さんだった。
奥さんは肩からかけた深緑色のショールを自分の肩にかけなおすと、力なく微笑んでぺこりと頭を下げた。
「ああ、今朝はどうもすみませんでした」
新人は奥さんに駆け寄ると被っていたキャスケット帽を脱いで頭を下げた。
「主人は、仕事人間でしたから、家で待っているよりもここに来るような気がして、ずっと待っていたんですが、だめですね」
奥さんはまた力なく微笑んだ。
「奥さん、元気を出してください」
新人は元気をすっかり失った目の前の奥さんを少しでも励ます言葉を必死に探した。
「僕で良ければ、ぜひ相談に乗らせてください。なにかお力添えができると思うんです」
奥さんの顔が少しだけほころんだので新人は少しだけほっとした。
「そうですか。お心遣いありがとうございます。そうですね。お話を聞いていただくだけでも少し気がまぎれるかもしれません」
もうすぐ日が暮れそうで、立ち話もなんなので新人は奥さんの家にお邪魔することになった。
奥さんの住まいは村の一角にある小さなアパートの一室だ。アパートの外観は白い外壁があちこち剥がれ肌が見えて、老朽化していることがありありとわかったが、部屋の中は小奇麗だった。きっと奥さんが几帳面な性格なのだろう。ストーブの横に二つの座椅子が並べられていた。その片方に奥さんがちょこんと腰かけた。ペアになった座椅子は片方の使い手の不在で寂しく影を落としていた。
座椅子に腰かけている奥さんは膝の上で手を組み合わせていた。
その手の薬指にはめられた銀色のリングが部屋の電球の淡い光で美しく光った。
「素敵な指輪ですね」
新人は奥さんにぽつりと言った。
奥さんは少し恥ずかしげに笑った。
「ありがとうございます。安物なんですけど、これでも私たちの大切な結婚指輪なんですよ。あの人が給料をためてペアのリングを買ったんです」
奥さんは姿を消した旦那さんのことを思うようにしばらく物思いにふけっていた。
「そうそう。ごめんなさい。写真でしたね」
奥さんは思い出したように言うとこれが主人ですと言い、一枚の写真を新人に渡した。
写真には初老の男性と奥さんが寄り添って笑っている姿が写っていた。
仲睦まじい様子が伝わってくる。
ただ、二人が写っている写真は尋ね人の広告に使うには向いていない様に思えた。
「すみません。できれば、ご主人だけが写った写真はないでしょうか。胸から上の顔が鮮明に写った物があるとなお良いのですが」
奥さんは少し考えてから言った。
「そうですね。主人の書斎にならあるかもしれません」
新人は奥さんの後について工場長の書斎に入った。
部屋の中に入ると床に取扱説明書と箱と通販で買ったであろう様々な機械が積まれていた。
机には埃を被ったタイプライターと取扱説明書がでんと我が物顔で居座っている。
「散らかっていて、恥ずかしいですわ」
奥さんは少し顔を赤くして言った。
「あの人は仕事で帰りがいつも遅かったから、テレビの通販が唯一の楽しみだったんですよ。機械音痴のくせに、最新の機械なんてすぐ買いたがって、どうせ使いこなせないのにね。そこのタイプライターなんて、ほらこうやって両手の人差し指で一個一個押してるんですもの。手で書いた方が早いでしょうに」
奥さんは夫の写真を探し始めた。
その間、新人は部屋の中を見回した。
タイプライターのほかにも、電動ドリル。外国語学習用のCDプレイヤー。ボイスレコーダー。シュレッダーの箱や説明書がいろいろ置いてある。
奥さんはあったと言って声を上げた。その手には写真が握られている。
新人が奥さんから写真を受け取った時、玄関の呼び鈴がピンポーンと鳴るのが聞こえた。
奥さんはちょっとごめんなさいねと言いながら、部屋から出て行った。
新人は元いた居間に戻ることにした。新人が居間で待っていると荷物を抱えた奥さんが段ボールを抱えて戻ってきた。
「ほら、また届いた」
奥さんは少し呆れたように言った。
「あの、奥さん。旦那さんについていくつか教えていただきたいことがあるんですが、いいでしょうか」
新人は胸ポケットからボールペンを取り出すと髪の毛をそれでいじりながら少し改まった調子で尋ねた。
奥さんはええと言った。
「旦那さんは、普段から仕事について、何か例えば愚痴とかこぼしてませんでしたか?」
「ええ。こぼしていました。なんだか、職場の人が思う通りに動いてくれないって。うちの人はあんまり人の上に立つのが向いている人ではありませんでしたから」
「なるほど」
「その失踪する前日、何かいつもと変わった様子はなかったですか?」
「そういえば、今日こそ話をつけてやるとか言ってました。まるで自分に言い聞かせるみたいに」
「だれと話をつける気だったんでしょう?」
「そこまでは言っていませんでした」
「そうですか」
新人はペンをカチカチ鳴らしながら少し物思いにふけるように腕を組んで俯いた。
「それにしても悔やまれますわ」
「何がですか?」
新人が奥さんの言葉に首を傾げた。
「その問題が解決しそうだったのに、こんなことになったのがですわ」
「というと?」
「今朝、リチャード社長が教えてくださったんです。主人に職場の対人関係について相談されたって」
「ほう。そうですか。もっと詳しく教えていただけますか?」
「その後社長は自分の至らなさを詫びて意気投合したって言ってましたわ。主人それがよっぽど嬉しかったんでしょうね。下戸なのにワインをいただいて酔ってたみたいで。それであの人、きっと川にでも落ちて流されたんだわ」
「なるほど、社長がそんなことを」
「社長は、夫を見つける為なら協力を惜しまないって言ってくださって、本当にありがたいことですわ」
「そうですか。それはこちらとしても大変心強いですね」
新人はボールペンをカチカチ激しく鳴らしながらそう言った。
「すいませーん。お忙しいところ、お邪魔してしまって」
社長室にキャスケット帽を脱いであたふたと新人が入ってきた。
「構いませんよ。あなたの訪問は歓迎だ。今日はまた我が社のことを記事に書いてくれるのかね?」
リチャードは革張りの椅子にもたれかかると笑いながら言った。
「いえ、今日は消えた工場長さんの件で来まして」
リチャード社長はほうというと机に肘をつき両手を擦り始めた。
「工場長の奥さんが言ってましたよ。社長はうちの主人のためなら協力を惜しまないって言ってくださったって」
「それはもちろんだよ。社員は家族だ」
「それで、すみません。僕がこの会社の監視モニターの記録を……」
新人が言うのをリチャードは遮るように言った。
「おっと、待ちたまえ。監視モニターの記録を見たいというのなら、それはいたしかねるよ。協力を惜しまないと入ったができることとできないことがあるからね」
「ごめんなさい。いけませんでしたか?」
新人は驚いたように言った。
「ああ、大変申し訳ないがね」
リチャードは額に軽く浮かんだ汗を片手で拭きながら言った。
「いや、僕は社長が協力を惜しまないとおっしゃったそうなので、この会社の監視モニターの記録をもう見せてもらっちゃったんです。そのことを言っておこうと思って」
「なんだと!」
リチャードは思わず大声を上げてしまった。
「勝手なことをしてもらっては困るぞ。君」
リチャードは唾を飛ばしながら言った。
「すみませんでした。しかし、おかげさまで二つの重要なことがわかりました。一つは出入り口の記録を失踪した日から全部チャックしたんですが、工場長さんはこの工場から出て行った様子がないんですよ。工場長さんは今もこの工場のどこかにいるということです」
リチャードは椅子に深く腰掛けなおすと両手を擦り合わせながら、自分の気を落ち着かせるように深く息を吸い込んだ。
新人はリチャードの様子などお構いなしで話を進めた。
「もう一つは、監視カメラの記録テープがほとんどすべてびたっと綺麗に揃ってる中で、なぜか。なぜかですよ。工場長さんが失踪した日の前日の第2ラインのミキサー周辺の記録だけがなくなってるんですよ」
リチャードは少しイライラした調子で言った。
「それは、あれだ。管理不行き届きという奴だよ。よくあることだ。だれかがうっかり失えたんだろう」
「ほかのはすべてそろっているのにですよ。不思議じゃないですか?」
新人は腕を組んで唸った。
「そうだろうか?よくあることだと私は思うがそれくらい。それにね。君」
「はい?」
新人は首を傾げた。
「さっき、出入り口をすべてチェックしたと言ったが、窓とかはどうなんだい?私は彼にワインを勧めてね。彼は相当酔っていたから窓から出て行ったんじゃないのかね?」
「ああ、なるほど。そういう考えがありましたか?」
「そうとも酔っぱらった人間は何をするかわからないからね。わかってくれたかい」
「それなら、出入り口のモニターに映っていなかったことが納得いきますね。なるほど。なるほど」
新人は自分に言い聞かせるように頷いた。
「それでは貴重なお時間を割いていただいて、すみませんでした。また新しいことがわかったらご報告にあがります」
リチャードはああと投げやりな調子で言った。
新人は失礼しましたと言うとばたんと社長室の扉を閉めて出て行った。
リチャードはモニターで去っていく新人の後ろ姿を見て、歯ぎしりした。
あの忌々しい新米新聞記者め。生意気に嗅ぎまわりやがって。何か工場から目を逸らさないと、また勝手なことをやりかねない。なんとかしなくては、リチャードは机の上にタイプライターを置くと、カタカタと文字を打ちだしはじめた。
新人が再びリチャードの前に姿を現したのはそれからしばらくしてのことだった。
「やぁ、探偵さん。そろそろ来るんじゃないかと思っていたよ。今日は新しい証拠でももって、私を尋問に来たのかな?」
リチャードはマホガニーの机に両手をついてもたれかかり、扉から入ってきた新人に言った。
新人はきょとんとした顔でリチャードの顔を見た。
「僕が社長を尋問?そんな滅相もない」
「いいや。とぼけたっていけないさ。君は私を疑ってるんだろ?目の上のタンコブだった工場長を私が亡きものにでもしたという妄想に君は取りつかれてるだ。私は彼に自分の至らなさを詫びて、仲直りしたっていうのに。それを疑うなんて下衆の勘繰りが過ぎるんじゃないかい?」
「そんな誤解ですよ。僕は工場長の奥さんの力になりたくてやってるだけですから」
新人は顔の前で片手をブンブンと横に振って否定した。
「さぁ、どうだか?君たちマスコミはいつでも企業トップのスキャンダルがないか。かぎ回っているからな。でも、おあいにく様、うちの優秀な女秘書が彼の使っていた会社の机から有力な証拠を新たにみつけてね。これを読めば君も少しは目が覚めるだろ」
そういうとリチャードは二つ折りの紙を新人に手渡した。
新人は二つ折りの紙を開くと目を通した。
それはタイプライターで打たれた手紙だった。
「ええと、会社の皆さんへ。長年奉仕してきましたが、部下が私の指示に従ってくれない日々が続き疲れてしまいました。特にマイケル班長は私のあらぬ噂を他の社員に吹聴し、そのうえ私のことを無視するように根回しする始末です。ここで働いていける自信がなくなりました。本当にご迷惑をおかけしますが、もう私のことは探さないでください」
読み終えた新人は、しばらく黙って紙を睨み付けた。
新人はおもむろに懐からボールペンを取り出すとカチカチと鳴らし始めた。
「見ての通りだよ。新人君」
「はい?」
「工場長は、職場に居場所がないことを苦にして姿を消したんだ。この手紙がすべてを物語っているとは思わんかね」
新人はペンをカチカチ鳴らしながら明らかに納得いかないという風に首をひねった。
「うーん。そうでしょうか?僕は余計にわけがわからなくなって今、困っちゃってるところなんですけどね」
「なぜ?」
「まずですね。確かに工場長は対人関係に悩んでいたみたいでした。しかし、工場長は失踪する前日、対人関係を社長にご相談してるんですよね」
「ああ、そうだとも」
「それに気を良くして、普段、飲まないお酒まで飲んだほど上機嫌だったって社長おっしゃいましたよね。そんな人が失踪なんてしますか?」か
新人は紙から顔を上げて、上目づかいでリチャードの顔を窺った。
「それは君。いくら私が社長でも、人が腹の中で本当に思っていることなんてわかりゃしないよ。彼は優しい男だったからね。彼は私に相談をしたが、やっぱり工場のことは嫌で嫌でしょうがなくて一刻も早く去りたかったけれど、私の気分を害してはいけないと思って無理に明るく振る舞っていたのかもしれないだろ?酔いが冷めたら急に辛い現実を思い出してしまうこともあるだろうし」
「なるほど。それはあり得る話です。あと人が腹の中でどう思ってるかわからないというのは同感です。しかしですね……」
「まだあるのかい?」
リチャードは少しイライラした調子で言った。
「どうも、この失踪をほのめかす手紙が僕は腑に落ちません」
「そうかね?私はこの手紙を読むと最悪の場合、どこかで自殺してやしないかと心配にすらなってしまうがね」
「そうそこなんです!」
わが意を得たりという風に新人は言った。
「僕は工場長さんが失踪、ましてや自殺を考えていたとは到底考えられないんですよ」
「そりゃ、またなぜ?」
「僕はこないだ工場長さんのお家にうかがいましてね。工場長さんって、テレビの通販が趣味だったみたいなんですが、ご存知でした?」
「いや、知らないな」
「奥さんの話を聞いてたら、宅急便が届きました。何が届けられたかというと。ダイエット器具です。ほら、ご存じないですか?よくテレビでやってる腰に巻いてお腹のお肉に振動を与えるって奴です。僕は失踪や自殺を考えてる人がそんなもの購入するとは思えないんですけどね」
「そんなことはわからないよ、君。ああいう商品を注文して、手元に届くまでは時間がかかるわけだろ。その間に工場長を追い詰めるようなことがあったのかも」
リチャードは両手を擦り合わせながら言った。
額にはうっすらと汗が浮かびだしていた。
「この手紙がタイプライターで書かれていることも納得いきません」
「なぜだい?別に普通だろ」
「奥さんに聞いたんですが、工場長さんは機械音痴でタイプライターを打つのが苦手なようでした。ほらこういう風に両手の人差し指で一つずつ打ってる有様だったって」
新人は両手の人差し指でタイプライターで打つしぐさをしながら言った。
「自殺や失踪をしようかと思いつめてる人がこんな風にタイプライターで手紙書きますか?なんか滑稽じゃないですか?手で書いた方が早いでしょうに、手で普通に書かなかったのはなぜでしょう」
もうリチャードは黙っていた。両手を激しくいじくりながら、ただただ目の前でしゃべっている呪いの眼差しを送っていた。
「あと、手紙が会社に対してはあるのに、奥さんに対してはないのも僕は腑に落ちませんね」
リチャードは新人に詰め寄るとイライラした調子で言った。
「もういい。もう君の推理ごっこに付き合うのはたくさんだ」
突然を荒らげて迫ってきたリチャードに動じる様子もなく新人はきょとんとしていた。
「私は忙しいんだ。せっかく、私が協力しているのに、わけのわからない御託を並べて不愉快だ。もう帰ってくれ!」
「すいません。お忙しいのに貴重なお時間をいただいちゃって、この手紙は奥さんに見せようと思うのでお借りします」
新人はリチャードの怒鳴り声に動じる様子もなく、猫のようにドアの隙間からするすると出て行った。
リチャードは勝手にするがいいとバタンと閉まったドアに怒声を叩きつけた。
時計が夜の11時10分を回り、タイタニア社の工場の前の通りにはもうほとんど通行人の気配はない。
タイタニア社の厳めしい石造りの門から、残業を終えてくたくたになった従業員たちが次々に吐き出されていく。
皆、朝から晩まで働き続け、毎日帰る時には精根尽き果てたような有様だ。
早く家に帰って布団の中にもぐりこみたい。また朝は早いのだから。
この時間に会社から出てくる従業員たちの考えることは皆同じだ。
第2ラインの班長、マイケルもその一人だった。
マイケルが工場のある石造りの大きな通りを曲がり、薄暗い路地を通りかかった時だった。
まるで待ち伏せしたかのように、路地のうす暗がりの中から声をかけられた。
あなたがマイケルさんですね。夜の闇の色と同じ色をしたスーツの青年はそう言った。
マイケルは不意を突かれて思わず飛び上がるかと思った。
青年はそんなマイケルの様子にはお構いなしという様子だった。
スーツの青年は懐から一枚の紙を取り出すとこれがなんだかわかりますかとマイケルにつきつけた。
「あなたの働いている工場の工場長が行方不明になっているのはご存知ですよね?私は彼の奥さんに雇われた弁護士でしてね。この遺書にあなたの名前が書いてあるんですよ。あなたが工場長を追い詰めて、殺したも同然じゃないんですか?」
スーツの青年はいたって物静かな調子で、しかしはっきりとそう言い放って、マイケルを見据えた。
青年の油で塗り固められた黒髪も、鷹のようにするどい目つきも一切の油断を感じさせなかった。
マイケルは目の前の青年の目がまるで自分の罪を見透かし、裁きにきた処刑人の目のように感じて、手に嫌な汗をかき始めた。
「違うんだ。待ってくれ!」
マイケルは青年との間に壁を作るように両手を突き出すと慌てて言った。
「もしも、旦那さんの死体が出てきたら奥さんはあなたに対して裁判も辞さないと言っています。そうなれば、多額の賠償金をあなたに請求するつもりです。あなたが他の従業員に彼を無視するように言った。仕事を取り上げてみんなが嫌がることばかり押し付けた。そうでしょ?もう調べはついてるんですよ」
青年は淡々とした調子で震え上がるマイケルに告げた。
マイケルはそれを聞いて口をパクパクさせてから、やっとのことで言葉を縛り出した。
「誤解だ!誤解なんだ!あの人にも白状したが!俺はやりたくてそんなことしたんじゃないんだ!」
マイケルは額に汗をためながら、必死に弁明した。
「ご・か・い?」
青年は冷たい目でマイケルを見据えながら首を傾げた。
「じゃあ、ほかにだれが命令したっていうんですか?まさか、社長とか言うんじゃないでしょうね?」
マイケルは社長という言葉を聞いた瞬間、藁にもすがる思いという感じで一気にしゃべりだした。
「そうだ!まさにそうなんだよ!信じてくれ!社長に俺は脅されて仕方なくやったんだよ!」
「あのリチャード社長がそんな命令するわけないじゃないですか?理由がありません」
青年は何を言っているんだ馬鹿馬鹿しいと目で語るとマイケルを突き放した。
「あんたは社長のことを何も知らないからそう思うんだよ!社長は自分に職場環境の改善だの口うるさく意見してくるあの人にムカついてたんだ!」
「まさか?彼がいなくなって社長は悲しんでるようでしたよ?」
「とんでもねぇ。目の上のたんこぶがいなくなって今頃、上機嫌さ!」
「やっぱりそうですか。教えてくれてありがとうございます」
スーツの青年は突然厳しい顔を崩してにっこり笑うと、くるりとマイケルに背を向けて歩き出した。
突然雰囲気が変わり自分の前から去っていく青年をマイケルは狐につままれたような顔で見ていた。
スーツの青年は油で塗り固めた髪の毛をくしゃくしゃと元に戻し、首をぎゅうぎゅうと蛇のように締め付けていたネクタイを緩めた。
「やっぱり、スーツなんて普段あまり着ないから肩が凝るな」
新人はそうぼやくとボキボキと首の骨を鳴らした。
さて、予想はしてたけど、動機はわかった。あとは動かぬ証拠を掴むだけだ。そのためにはもう一度あの悪魔の腹の中に潜り込むしか手段はない。
新人は心の中でそんなことを考えながら、月の光を浴びて通りに巨大な影を落とす化物のような工場を見上げた。
リチャードは社長室の皮張りの椅子に深々と腰かけて上機嫌でチョコレートを口の中に放り込んだ。
それにしても気分がいい。あのうるさい蠅のように自分にまとわりついてきた新人新聞記者の姿をここのところ目にしていないからだ。
工場長が姿を消したことをほかのだれもが自分の思い通り自殺や失踪と思い込んでくれているのに、あの生意気な駆け出しの記者だけが、まるで僕はあなたが殺したことをお見通しですよと言わんばかりにさかしらぶってかぎ回っているのだ。
しかし、それも思い過ごしだったらしい。偽の遺書を掴ませた時、なにやら御託を並べて内心ひやひやしたが、それ以降は諦めたのか自分の前に姿を現さない。きっと、もう諦めたのだろう。
まぁ、無理もない。工場長の缶詰はダストシュートに全部捨ててやったし、証拠の監視カメラの映像も間違いなくこの手で燃やしてこの世から消えたのだ。自分が工場長をミキサーの中に突き落としたことなど突きとめられるはずがないのだ。
考えてみれば、自分が隠し事をしていて神経質になっていたから、あんな経験も浅い新米記者が自分の秘密を嗅ぎまわっていると思い込んでいただけで、あんな青二才が真実に気づけるはずがないのだ。
リチャードはそんなことを考えながら、もう一つチョコレートを口の中に放り込んで、歯でバリボリと噛み潰した。
箱の中に綺麗並べられたチョコレートにまた手を伸ばそうとしてふとリチャードの目に一つのモニターの映像が目に留まった。次の瞬間リチャードはモニターの一つに釘付けになった。
第2ラインのミキサーの周辺でマスクと帽子をしていてはっきりと顔は見えないが、見覚えのない従業員がせっせとひき肉の山を穿り返している。
リチャードの頭の中に嫌な予感がよぎり、背中の毛が一瞬全部逆立ったような気がした。
気が付けばリチャードは目の前のマイクを引っ掴み、第2ラインの従業員はそのまま一歩も動くなと怒鳴りつけていた。
リチャードはふつふつとこみ上げてくる怒りに身を震わせた。リチャードは椅子から飛び起きると社長室のドアを乱暴に撥ね退けて一直線に第2ラインへとつながる廊下を大股で歩いて行った。
第2ラインに入るとリチャードは怒鳴り声を上げた。
「そこのお前とお前!ミキサーの周りでひき肉をいじくりまわしてるあのガキを捕まえろ!」
社長の指示を受けた二人の大柄な男はミキサーの近くにいた人物を挟み撃ちにして追い詰めた。その人物はささやかな抵抗のつもりなのか腐ったひき肉をまるめたボールを振りかざして投げつけようとしている。しかし、そんな抵抗もむなしく大柄な男二人にあっという間に肩を掴まれて、膝をつかされて取り押さえられてしまった。
リチャードは大股でその人物に近づくとマスクをはぎ取った。
「やっぱり、君か?新人君?探偵ごっこに飽きたら、今度はスパイ映画のまねごとかね?」
リチャードの額には怒りで青筋が浮かび、言葉はとげとげしかった。
新人は何も言わず黙っていた。
「モニタールームの件もそうだが、こういう出過ぎたまねばかりすると、さすがに温厚な私でも君に対して怒りを感じざる負えないよ」
リチャードは膝をつかされた新人を侮蔑するような眼差しで見ると言った。
「おい!お前たち、こいつの持ち物をすべて取り上げろ!」
新人はポケットに入れていた物をすべて取り上げられてしまった。
新人の白衣のポケットからは小型のカメラ、メモ帳、ボールペンなどが出て来た。
それらが床に並べられる。
「持っていたのは、これだけか?」
男たちははいと答えた。
「この工場を告発するつもりだったんだろうが残念だったね。これは没収させてもらうよ」
リチャードはカメラを拾い上げると新人に見せびらかすように振って見せた。
「私を出し抜けるとでも思ったのかい。私も舐められたものだ。さぁ、さっさとこいつをこの工場からつまみ出せ!」
新人は暴れたが、抵抗もむなしく二人の大柄な男に肩を掴まれて第2ラインから担ぎ出されてしまった。
リチャードには新人は腐った肉団子を悔しさからか強く握りしめているように見えた。新人は恨みのこもった眼差しでドアが閉まりリチャードが見えなくなるまで睨み付けていた。
「まったく、君はどういうつもりだい?私の許可なくモニタールームの映像は覗く!忙しい私を捕まえてわけのわからない推理を展開する!挙句の果てに工場に忍び込み盗撮まがいの行為をして!まったく恥ずかしくないのかい!」
リチャードはお詫びのためのお菓子を持ってきた新人に対して罵声を浴びせかけた。
新人はすいませんでしたと深々と頭を下げている。
リチャードは正直言うと自分の緩んだ口元を怒っているように見せるのに必死だった。
生意気に自分を嗅ぎまわっていた新米新聞記者に自分は完全勝利したのだ。
新人の態度を見れば、ミキサーの周りを調べたところで何も出てこないことが分かる。
奴さんはとうとう自分の秘密を暴く証拠を掴むことはできなかったのだ。
これで自分の秘密を暴こうなどという輩は排除できた。人を煩わせやがって、小賢しい。
さて、目の前の冴えない青年に今度はどんな言葉をぶつけていじめてやろうか。まるで、その時のリチャードは弱ったネズミを前にした猫のような気分だった。
相手を生かすも殺すも自分次第なのだ。徹底的に叩きのめしてもう新聞記者を続けられないようにしてやる。
リチャードの心の中は冷酷で残忍な気持ちで渦巻いていた。
「これは、本当につまらないものですが、どうか受け取ってください」
新人はリチャードが腰かけている椅子のところまで行くとマホガニーの机の上にお菓子の入った箱を置いた。
「なんだ、これは?本当につまらないもの持って来たものだ。君の持ってきたものなんて私はいらないよ。見たくもない」
そう言ってリチャードはわざと怒った風に手でお菓子の箱を払いのけた。
お菓子の箱は叩き落とされて、床にお菓子が散らばった。
新人はその音にびっくりして肩を震わせたようだった。
リチャードはその様子を見て、思わず笑いそうになってしまった。
びびってる。びびってる。ざまあみろ。リチャードは怒った顔を作りながら心の中で新人に対してあっかんべーした。
「君はうわべだけ誠実なふりをして、内心は相手をバカにしてる。浅はかな報道関係者の典型のような男だ。本当に最低だよ。蠅みたいに迷惑を考えず嗅ぎ回ってさ。恥ずかしいと思う常識があるなら、とっとと新聞記者なんて辞めちまいたまえ!わかったら、さっさと出て行ってくれ。私は君の顔をもう見たくないし、君と違って忙しいんだ」
リチャードはそう言うと新人に背を向けた。
肩を落としてとぼとぼと社長室から出て行く新人の姿を想像して噴き出しそうになり、リチャードは思わず口元を手で覆った。
しかし、新人はリチャードの予想した様には行動しなかった。
「たしかに僕が蠅みたいと言うのは的を得ているかもしれませんね。なんせ、この工場は腐ってますからね。だから、周りを飛び回るんですよ」
リチャードは新人の口にした言葉に一瞬耳を疑った。今、背後に立っている駆け出しの新聞記者は自分が何を言ったのかわかっているのか。
リチャードは怒りを通り越して、一瞬呆気にとられてしまった。
「おいおい。君、今何と言ったのかね?私の聞き間違いかな?今君はこの工場を腐っていると言ったのかね?」
新人は顔に満面の笑みを浮かべて、はい、いいましたけど、それが何かと言った。
リチャードの心の中にじんわりと怒りと憎しみの感情が湧き上がってきた。
「そういうところが、人をバカにしているというんだ!すいませんとか申し訳ないとか君はよく口にするがまったくもって誠意が感じられない!何度も言うが君は最低の人間だ!」
「人をバカにして、誠意がなくて、最低の人間。それは社長も同じでしょ。工場長さんに謝ったふりして油断させてミキサーに突き落として殺したんだから」
新人にはっきりと工場長をミキサーに突き落として殺したと言われてリチャードは内心どきりとした。
しかし、それを悟られまいと語気を強めて怒鳴りつけた。
「貴様、なんてこと言うんだ!」
真っ赤になって、声を荒らげているリチャードとは対照的に新人はリチャードの怒鳴り声に動じている様子もなく、朗らかに笑いながら懐からビニールの袋を取り出した。
「これなんだか、わかりますか?」
ビニールの袋の中には指輪が光っていた。
「これはですね。工場長さんの結婚指輪です。奥さんに確認していただいたので間違いありません」
「結婚指輪?」
リチャードは思わずオウム返しに繰り返していた。
「ミキサーの下に飛び散った腐った肉の中から見つけました。僕は想像してみたんです。もしも、あのミキサーの中に落ちて助からないと悟ったら何をするかって。そう考えた時に、自分にとっての宝物だけは守りたいと思うと考えたんです。もしそのままミキサーに巻き込まれたら持ち物はみんなぐちゃぐちゃに切り刻まれて缶詰の中ですからね。それだけは避けたいから。ミキサーの外に放り投げる。だから、肉の中から指輪が出て来た」
「肉の中から指輪が出て来たからなんだと言うんだ。仕事中に落としたかもしれないじゃないか?」
リチャードは内心焦って上ずりそうになる声を必死に悟られまいとする。
「そーれーは、ないでしょう。だって、仕事中なら皆さんすっぽりゴム手袋をはめてますからね。まじめな工場長さんがゴム手袋を現場で外すことなんてまずないでしょう」
「待て待て、君は工場長がミキサーに落ちたことを前提に話を進めているが、なぜそんなことが言える。まさか、モニタールームのテープがあの場所だけ無くなっていたからなどと言わないよな?テープがないのはだれかの過失だ。偶然だよ」
新人はそれを聞いて少し考える風に手で自分の顎を触った。
「えー、第2ラインの資材担当の社員さんが妙なことを言っていましてね。いくらリストに載っている缶詰の数と在庫の缶詰の数を照らし合わせても数が合わないって。普段一個でも在庫とリストが合わないと社長に叱られるから細心の注意を払っているのに、ある日を境に三十個も無くなってるって、そう工場長さんが失踪した前の晩です。これは偶然でしょうか?」
リチャードの顔は赤から血の気が引いて真っ青になって来ていた。
「工場長さんはミキサーに落ちて、缶詰になった。しかし、三十個の缶詰は見当たりませんから、その場にいただれかが、近くにあったダストシュートにでも捨ててしまったんでしょう。幸いダストシュートのゴミはまだゴミ処理場には運ばれずそのままらしいですから、警察が探せばすぐみつかるでしょう。なんせ無傷の缶詰が三十個も捨ててあればいやでも目につきます。最近の警察は藁の山の中から一本の針を見つけ出すほど優秀ですからね」
ちくしょう。ちくしょう。ダストシュートを探すだって冗談じゃない。缶詰を調べられたら、工場長の肉だとばれちまう。
リチャードは自分の気を落ち着かせようと両手を激しくこすり合わせながら、考えをめぐらせた。
「さて、缶詰を隠そうとした人物がいます。それはリチャード・オベロン社長。あなたしかいません。工場長さんが失踪する前の晩、あなたは命令してすべての社員を五時きっかりに帰しましたね。だから、五時以降この工場に残っていたのは、あなたと工場長さんしかいないんですよ」
新人は穏やかな調子で、しかしはっきりした調子でそう言った。
「待ってくれ、あれは事故だったんだ!」
リチャードはいかにも哀れっぽい調子で言った。
「事故?」
新人は首を傾げた。
「確かに、私はその場にいた。君の言う通りだ。それは認めよう。だが、あれは事故だったんだよ。新人君」
リチャードは机に肘をつき、頭を抱えながらしゃべり始めた。
「あの日、工場長と酒を飲んだ私は工場長に改善してほしいところがあると言われて第二ラインのミキサーのところへ行ったんだ。そしたら、酔っぱらった工場長が自分でミキサーのスイッチを入れて、誤ってミキサーの中に転落したんだよ!」
リチャードは自分の髪の毛を手でくしゃくしゃと掻きむしりながら話を続けた。
「私は、彼を助けようとしたが間に合わなかったんだ。もしも、こんな事故が公になれば、この会社の信用は失墜する。それはこの会社を愛してくれた工場長も望まないだろうと私は勝手に判断して、彼が行方不明に見えるように偽装したんだ。私は愚かだった」
新人は神妙な面持ちでリチャードの話を聞いているようだった。
リチャードは下を向いたままいかにも動揺し震えた声で続けた。
「だが、理解してくれ!経営者というのは企業を存続させて、従業員やそれに関わる人々を養っていかなければいけないんだ。その重圧から私は感覚がマヒして愚かなことをしてしまった。想像した前!あの工場は人肉の缶詰を作った殺人企業などという話が広まれば、商品はたちまち売れなくなり、我が社は倒産!従業員たちを路頭に迷わせてしまう。会社の信用を失うことを恐れるあまり、私は工場長の不幸な死の真実を隠そうとしたんだ!」
「………」
新人はリチャードの話を黙って聞いていた。
リチャードはハァハァと荒い息をつきながら話を続けた。
「さっきは君に辛く当たって本当にすまなかった。新人君。私のことを恨みに思っていることだろう。だが、想像してくれ。会社を存続させなくてはいけない責任と良心の呵責の板挟みで私はいらだっていたんだよ。頼む。この通りだ。許してくれ。この会社のためにも!不幸な死を遂げた工場長のためにも!このことは秘密にしておいてくれ!」
「リチャード社長、あなたって人は………」
新人の声を聞いてリチャードは顔を上げた。
新人はリチャードを憐れむような眼差しで見つめている。
「わかってくれるね。新人君」
リチャードは目を潤ませて新人の目をじっとみつめた。
バカな若造め。リチャードは心の中でほくそ笑んだ。こういう優柔不断でお人よしそうな青臭いガキは、こういう心に訴えかけてくるような劇的な展開に弱いもんだ。それにこの新米新聞記者は鋭いところがあるのは認めるが、詰めが甘い。どうやって、俺が工場長を突き落としたと証明できる?この世でたった一つの証拠だった監視カメラのテープは俺がこの手で確かに闇に葬り去ったんだ。俺が殺したと証明できるわけがないんだ。ざまあみろ。リチャードは心の中で思いっきり舌をだした。
新人は目を細めて、にっこりとほほ笑むと爽やかに言った。
「リチャード社長、あなたって人は、本当に救いようのないクズですね」
リチャードは予想もしていなかった言葉に心臓を焼けた手で握られたような感覚を覚えた。
リチャードの背中に嫌な汗が浮かび、心臓がどくどくと脈打つのを感じる。
「そういう泣き脅しはね。工場長さんみたいな心の綺麗な人には通用しても、僕みたいな人間には通用しませんよ。あなた、同じようなことを工場長さんに言って騙しましたね。どうせ心の中で僕にあっかんベーしてるんでしょ?」
リチャードは心の中を見透かされたようで体に寒気が走った。
「何度も言って申し訳ないですけど、あなたは人間のクズですね。リチャード社長。ここまで来ると気持ちがいいくらいです」
新人はリチャードを見下ろしてにっこり笑いながら言った。
「さっきから、君はなんてことを言うんだ!」
「だって、あなたが嘘をついて潔く工場長さんを殺したことを認めようとしないからですよ」
「だから、言ってるだろ!私は殺してない!あれは事故だったんだ!」
「工場長さんは最後にこう言ったでしょうね。あなたに、この悪魔、今に見ていなさい、すぐにすべての悪事が暴かれて、直に天罰が下るぞって」
「何を言って……」
リチャードは何を言っているんだと言いかけた。しかし、どこかで聞いたことがあるセリフをきっかけに頭の中に変な電気のようなものが流れたような違和感を感じた。
なぜか、脳裏に一瞬自分を睨み付けて肉の中に沈んでいく工場長の姿が浮かび上がったが、それを振り払った。
「あなたには山ほど言ってやりたいことがありますけど、まずは二つだけ言っておきます。自分の信用のなさを知った方がいいってことともっと工場をこまめに掃除した方がいいてことです。そうしていれば、僕に殺人がばれずに済んだかもしれません」
「何を偉そうに!」
リチャードは歯をむき出して怒鳴った。
「君はどうやら、よっぽど私を人殺し扱いしたいらしいな!これは私が君を叱りつけた腹いせか!え?そこまで言うなら証拠を見せてみろよ!証拠を!」
リチャードは机を叩き激しく唾を飛ばしながら新人を怒鳴りつけた。
「残念ながら、お見せできる証拠はありません」
「ほら見ろ!何も証拠はないじゃないか!」
リチャードは勝ち誇ったように言い放った。
「でも、聞かせることはできます」
そう言うと新人は懐からボイスレコーダーを取り出して机の上に置いた。
「うちの上司曰く、経営者の評判なんてものは相場良くないと決まってるそうなんですが、あなたの評判は良くないを通り越して最悪です。言ってることとやってることは真逆だし、無言の圧力で無理難題を押し付けてくる。挙句の果てに、約束を守ったためしがないと散々です」
リチャードは机の上に置かれたボイスレコーダーを白い顔で見下ろした。
「工場長さんの部屋を見せてもらった時、僕気づいたことがあったんです。ほら、電化製品とか買って、箱とか説明書とか捨てられない人いるじゃないですか。工場長さんもそういうタイプだったみたいなんですけど、箱はあるのに説明書と本体が部屋にない製品が一つだけあったんです。それがボイスレコーダーでした。それで、もしかしたら工場長さんがだれか信用できない相手と話し合いする時に証拠を残すために、持っていったんじゃないかと思ったんです。僕らもそうですけど、偉い人ってすぐにそんなこと言った覚えがないって言うから信用できないんですよね」
リチャードはまるで幽霊でも見るような目でボイスレコーダーを見下ろしてガタガタ震えだした。
「僕は工場長さんの気持ちになって、ちょっと考えてみました。もしも、自分が誰かにミキサーの中に突き落とされたらどうするかって、もちろんまずは助かりたい。でも、目の前には自分を殺そうと突き落とした相手がいてどうやっても助かりっこない。じゃあ、次はどうするか。なんとか、だれかに自分を殺そうとした犯人を伝えたいと思いました。そこで電源を入れっぱなしにしていたボイスレコーダーのことを思い出す。でも、目の前には自分を殺そうとした相手がいる。もしもそのままボイスレコーダーを投げたら、たちまち見つけられて捨てられてしまうだろう。だから、一か八か、手元のひき肉をハンバーグみたいに固めて、その中にボイスレコーダーを隠して、ミキサーの外に放り投げたんですよ。眼の前の相手には死にぞこないが苦し紛れにやった悪あがきだと映ったことでしょう」
リチャードの脳裏に工場長がハンバーグ大の肉団子をまるめて投げつけて来た時の映像が蘇ってきた。工場長の悪あがきは自分に当たりもしないとバカにしていたが、最初から自分に当てる気などなかったのか。
同時にリチャードの頭の中に新人が第二ラインに潜り込んでミキサーの周りを穿り返している時の映像が蘇ってきた。新人は捕まった時に手にハンバーグくらいの腐ったひき肉をずっと握っていた。あれは、ぶつけるために握っているかと思っていたが、まさかあのひき肉の中にボイスレコーダーが隠されていたなんて。きっとポケットの中のカメラは、ボイスレコーダーを悟らせないための囮だったに違いない。
新人がボイスレコーダーを再生するためのボタンに手をかけた。
リチャードにとってはそれが自分を死に追いやる拳銃の引き金のように思えた。
新人が手を伸ばし、ボイスレコーダーのボタンをカチャリと押した。
ボイスレコーダーのスピーカーからまるで地響きのようなミキサーの稼働する音とかすれた声が聞こえてきた。
「しゃ、社長!なんの冗談ですか!冗談にしても、突き飛ばすなんて、ひどいじゃないですか?」
それは明らかに切羽詰った工場長の声だった。
「社長。早く機械を止めてください!このままじゃ!死んでしまう!」
しばらくして、もう一つの声が流れてきた。それは前の声よりも明らかに若い男の声だった。
「あははは、大人しく缶詰になってろ!工場長」
新人はボイスレコーダーを手に取ると停止ボタンを押して、音声を止めた。
「以上です。これが、あなたが工場長さんをミキサーに突き落として殺した証拠です」
「もう、言い逃れはできないということか」
リチャードは椅子から立ち上がるとがくりとその場に膝をついた。
「君の勝ちだ。私の完敗だよ」
しかし、言葉とは裏腹にリチャードの目には狡猾で冷酷な光が宿っていた。
「社長」
新人は膝をついて肩を落とした社長に歩み寄った。
次の瞬間、リチャードは一瞬隙をついて新人の腕からボイスレコーダーをひったくると、新人を力一杯突き飛ばした。
新人は突き飛ばされて、思い切り尻餅をつく。
新人が立ち上がろうとする間に、リチャードは奪い取ったボイスレコーダーを振り上げた。
新人にはその光景がスローモーションのように見えたことだろう。
次の瞬間には、リチャードがボイスレコーダーを床に叩きつけていた。ボイスレコーダーから破片がこぼれる。それだけではとどまらずリチャードは床に叩きつけたボイスレコーダーを原型をとどめないくらい何度も何度も踏みにじり、ぐしゃぐしゃにしてしまった。
新人はぐしゃぐしゃになっていくボイスレコーダーをただ成すすべもなく見ていることしかできなかった。その顔からは血の気が引いていた。
リチャードは荒くなった息を整えると勝ち誇ったように笑い出した。
「ははははははは、ガキが。調子くれてるからこうなるんだ!これで、証拠は今度こそなくなった。俺の勝ちだ!ざまぁみろ!」
リチャードは品をかなぐり捨てて笑い続けている。
呆然と立ち尽くしている新人にリチャードは勝ち誇ったように言った。
「どうだ!参ったか!駆け出しの新聞記者の分際で調子にのってるからこういう事になるんだ!会社の経営者の言葉とケツの青い新聞記者の妄想、どっちを世間は信じるだろうな!あはははは」
リチャードの高笑いが社長室に木霊した。
「ごめんなさい」
新人はぽつりとつぶやいた。
「謝ったところで、もうすべて手遅れなんだよ!」
リチャードは歯をむき出して言った。
「聞いてるの僕だけじゃないのまだあなたに言ってませんでしたね」
新人は首を振りながら言った。
「え?」
リチャードは新人の言っていることがわからず、ぱかんとしていた。
新人は机についているマイクをコンコンと叩き、以上が真実ですと囁いた。
その瞬間、リチャードは背中に氷水を流されたような寒気を感じた。
モニターを見るとどのモニターに映っている従業員たちも上を向いて、まるで放送に耳を傾けているようだった。
「まさか、お前………」
リチャードは自分の体から血の気が引いて膝がガタガタ震えが止まらなくなり始めた。
「確か、四角の大きなボタンはみんなへの放送でしたね。僕、机にお菓子の箱を置いた時にうっかり押しちゃってたみたいです。黙ってて、すみません」
新人はぺろっと舌を出すと頭を掻いた。
リチャードは全身から力が抜けてきて、うまく言葉が出てこなくなった。
「そうそう。あともう一つ。あなたの壊したボイスレコーダー、できれば弁償してくださいね。あれ本物をダビングした僕のボイスレコーダーですから。本物はとっくの昔に警察に届けました。それでは社長。さようなら」
新人はそう言うといそいそと社長室を後にしようとした。
リチャードはその場にへなへなとへたり込むと絞り出すように言った。
「お前、なんで、こんなこと、するんだよ」
新人は立ち止まると少し考える風にしながら言った。
「うーん。社長がいつかおっしゃったじゃないですか怠け者の尻をひっぱたくのが経営者の仕事だって、それなら人を食い物にする権力者の尻をひっぱたくのが記者の仕事じゃないですか?」
新人はそう言い残すと満腹になって満足した猫のように背を向けて部屋から出て行った。
次回予告
~ 罪原 嫉妬 緑色の目の魔女 ~