Acheron
ロングビーチは、ロングアイランドの西端、マンハッタンにほど近いところにある。
バリア・アイランドと呼ばれる、細長いモレーンの残骸の上に発展した町だ。
大西洋に面したビーチは、有料だが綺麗に整備されていて、都心から地下鉄が通じているので、夏になるとニューヨーカーがこぞって押し寄せる。
だが、まだそんな賑わいには遠い。
傾きかけた西陽に、立ち並ぶコロニアル風の邸宅や店舗が、影を長く伸ばしていた。
南側は、はるか彼方まで海原が広がっているので、絵の風景は北側のレイノルズ海峡の方だろう、と綾乃は判断した。
思ったとおり、ウエスト・パークアヴェニューやベイ・ブールバードを走ってみると、絵とよく似た桟橋やクルーザーの姿が目に付いた。
三百メートルほどの幅の海峡の向かい側には、ビッグ・ハソックと呼ばれる低湿地の草むらが、緑の絨毯のように果てしなく広がっている。
海峡というより、大きな川のようだった。
その風景を眺めながら、やはりな、と綾乃は思う。あの絵は、このあたりで描かれたものだろう。
ジョセフは、ケン・リィアンの行方を知っていただけでなく、絵の場所にも気づいていたにちがいない。そもそも、行方がわからなくなった友人を、探しもせずに放置するような人ではない。じっさい、モントークポイントには、ケンの消息を知る人がいた。しかも、帰り道にロングビーチに寄ってシーフードを食べてくればいい、とも言っていた。
こういう展開を予測していた、というか、誘導されたような気がする。そして、その先は綾乃と詩織にゆだねたのだろう。
ほんとうにあの人は、とため息をついたとき、道路沿いのレストランの看板が、綾乃の目に飛び込んできた。
『Sunrise Diner』
その名前、そのロケーションは、そこにあるべくしてあったと思えるほどに、何かを確信させた。
ドアを押して店に入る。
初めて来たはずなのに、綾乃には、その店の雰囲気がどこか懐かしかった。
「いらっしゃい」
カウンターから、元気のいい女性の声がした。
エプロンの胸にキャシーという名札を付けた店員だった。
テーブルにつくと、キャシーは親しみを感じさせる声で、話しかけてきた。
「あなたたち日本人よね?」
「わかるんですか」
「やっぱり。知り合いに、日本人がいるのよ」
綾乃とキャシーのやりとりなど耳に入らないかのように、詩織はじっと窓の外を見つめている。
「それは、ケン・リィアンという画家じゃないですか?」
「ちがうわね、きっと。彼女が絵を描いているのは、見たことないし」
キャシーはメニューを差し出すと、ご注文は、と尋ねた。
「シーフードが美味しいって聞いたんですけど」
「あら、だれかの紹介? そうねぇ、ロブスター・ロールがおすすめかな」
「じゃあ、それ下さい。それと、ロングアイランド・アイスティーって飲み物、ありますか?」
怪訝そうな表情で、キャシーは、あるわよ、とうなずいた。
「それもふたつ、お願いします」
「ダメよ。飲酒運転になっちゃうから。警察に見つかったら、スクーターを没収されちゃうわよ」
綾乃は、えっ、と声をあげた。
「お酒なんですか。『アイスティー』なのに?」
キャシーは、ふふっと笑った。
「やっぱり知らずにオーダーしたのね。紅茶を使わずに、紅茶のような味を出しているの。ロングアイランドの酒場が発祥だと聞いているわ。かなり度数の高いカクテルでね、別名『レディ・キラー』って呼ばれているのよ」
レディ・キラー、と詩織はつぶやく。
思いつめたようなその横顔が、ふっと緩み、まぶたが落ちて琥珀色の瞳を覆い隠した。
「ここでいいのね……」
ささやくような声が、その唇からもれだした。
「あの人は、若いころの過ちで、ひとりの女性を不幸にしてしまったことを、ずっと悔やんでいた。それで人が描けなくなったのだと。でも、この絵だけは……。きっとここで、あの人は希望を見出すことができたのね」
詩織はそう言うと、絵の女性の輪郭を指でそっとなぞった。
「もしかして詩織ちゃん、その画家のこと……」
こくん、とうなずいて、詩織は別の絵を取り出した。
そこには、高校の制服を着た詩織が、ピアノを弾いている姿が描かれていた。
綾乃は、思わず息を飲んだ。
絵画から、これほどの衝撃を受けたことはなかった。
ピアノが聞こえる。
慈しみに満ちた音色が、優しく心に響く。
詩織の息づかいが、身体のやわらかさやぬくもりまでもが、感じられる。
画家が詩織に抱く憧憬と、詩織が画家に向ける思慕の両方がそこにあった。
綾乃はその絵を見て、ずっと抱いていたデジャブの正体に思い至った
海の絵が心象だというのなら、描かれているのは現実の場所ではない。それは、永久に失われたものや、二度と戻れないところへの、狂おしいほどのノスタルジアなのだ。
この画家の絵は、そんなひとの心の奥底にあるものを、優しく激しく揺さぶるのだろう。
こみ上げてくる熱いものを、綾乃はなんとか抑えこんだ。
そして、詩織に目を向ける。
詩織は、気づいていないのかもしれない。けれど、この旅の終点は、もとからそこにあったのではないだろうか。
詩織はキャシーに頭を下げると、海の絵を差し出した。
「この絵を、このお店に飾ってもらえませんか。たぶんあの人も……この絵の画家も、それを望んでいると思います」
ひととき思案したキャシーは、いいわよ、と微笑んだ。
「素敵な絵だし、小さいから目立たないし。なにより、この店から見える海を描いているんだから」
キャシーは、その絵をカウンターの奥の壁にピンでとめた。
「よかったね」
詩織のつぶやきが、綾乃の耳にいつまでも残った。
店を出ると、町には宵闇が落ちていた。
綾乃がスクーターに跨ると、詩織が背中に抱き着いてきた。
「ありがとう……」
耳元に、微風のような囁き声がした。
「あそこが、あの絵の、そしてあの人の場所。だからあそこで、あの海とあのひとを見つめ続けていてほしい。ずっと、いつまでも」
でも、と綾乃は問いかける。
「詩織ちゃんは、それでいいの?」
残酷な問いかもしれない。けれど、それだけは確かめておきたかった。
腰に回された詩織の腕に、ぎゅっと力がこもる。
「私は……それでいい」
詩織の心のなかで何かが壊れる音を、綾乃は聞いたような気がした。
涙も流さず、そして声も上げずに――。
詩織は、泣いていた。
夜空を見上げると、こと座があった。
結局、詩織はオルフェウスと同じ運命をたどったのだ。ほんとうは、画家の魂をここから連れ帰りたかったにちがいない。
それでも綾乃は、この旅が徒労でしかなかったとは思いたくなかった。
「帰ろうか」
綾乃の言葉に、詩織がささやくように答えた。
「うん」
アクセルを捻る。
西の空に傾いた星々が描く、春の大曲線の、その先に向かってスクーターは走り出した。