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Elysion

 五月の爽やかな風を追い越すように、綾乃が操縦するビッグ・スクーターはニューヨーク州道27号線を走っていた。

 州道といっても、片側三車線の悠々とした高速道路だ。

 マンハッタン島から大西洋に向けて長く伸びるロングアイランド島を、東西にほぼ一直線に横断する長さ百九十キロの道路は、サンライズ・ハイウェイの別名を持つ。


 スクーターのタンデムは初めてだと言って、詩織は不安そうにしていた。だが走り出してみれば、彼女はおとなしくて邪魔にならない同乗者だった。

 ずっとタンデムバーを握りしめているので、疲れたら遠慮なくあたしに抱き着いていいよ、と綾乃は声をかけた。


 ごみごみした下町のブルックリンから、高級住宅街が広がるナッソー郡を過ぎ、サフォーク郡に入ると景色が一気に広くなる。

 やがて道は地面に降りて、対面通行の田舎道になった。


 ロングアイランドの東端は、カニのはさみのようにふたつに割れて、大西洋に突き出している。

 北側の小さな半島はノースフォーク、南側の大きくて長い半島はサウスフォークと呼ばれている。

 モントークは、サウスフォークの先端にあった。

 ひなびた漁港の町だが、洒落たカフェの前にサーフボードを積んだ車が停まっていたりする。ここは、ニューヨーク近郊のサーファーたちのメッカでもあるのだ。


 町はずれの岬にある駐車場に、スクーターを停める。

 ほどよく湿気を含んだシーブリーズが、詩織の髪とキュロットの裾を揺らせて、心地よく吹き抜ける。

 綾乃は、白のダンガリーシャツの袖をまくり上げ、胸のボタンをひとつ外した。黒のスキニージーンズとのコーディネートは、シンプルでボーイッシュだった。


 駐車場から続くゆるやかな坂道を登ると、角張った灯台が見えてきた。

 日本の灯台のように白い円筒ではなく、ブラウンの帯を締めたような六角柱だった。

 青空をバックにしたその輪郭は、くっきりと鮮やかだった。


「どう?」


 綾乃の問いかけに、詩織はゆっくりと首を横に振った。

 絵に描かれた灯台がここであることは、ひと目でわかった。けれど、落胆の色が滲む詩織の表情が、絵の場所はここではないと告げていた。


「この絵は、きっと心象だわ」

「心象?」

「そう、心象風景。だから……」


 詩織が、はっと息を飲む。

『描かれているものが実在するとは限らない』

 彼女はそう言いかけたのだろう。絵画に疎い綾乃でも、それくらいのことはわかる。

 だが、それを言葉にすることは――この旅の目的を失わせ、綾乃の協力をだいなしにするようなことは、詩織にはできなかったにちがいない。

 綾乃は詩織の手を取った。


「ねえ、せっかく来たんだから、灯台に登ってみようよ。きっといい眺めだよ」



 綾乃が言ったとおり、灯台の上からは、果てしなく広がる大西洋が見渡せた。

 青い海面に、白い波濤が立っている。大きな波に挑んだサーファーが、あっという間に飲み込まれる。

 荒々しいが、底抜けに陽気な海だ。


「いい眺めだろう?」


 唐突に間近でした声に二人が振り向くと、そこには雑巾でレンズを磨く初老の男の姿があった。

 声をかけておきながら、老人は黙々と手を動かしている。返答など期待していないかのようだ。

 しかし綾乃は、ええとても、と答えると、海の絵を老人に見せた。


「この絵に描かれた場所って、わかりませんか?」


 そう尋ね、ひまわりを思わせる笑顔を浮かべた。

 詩織には、その笑顔も態度も、とても眩しく見えた。


 老人も同じように感じたのか、その顔がほころんだ。

 だが、その理由は、詩織の予想とは違っていた。老人は絵を手にとると、懐かしむような声で答えた。


「ケンの絵だね」


 詩織は、綾乃を押しのけるようにして、老人に話しかけていた。


「あの人をご存じなんですか。あの人は、ここに来たんですか?」

「ああ。だが……」


 老人は言いよどみ、あんたは、と詩織に問いかけた。


「あの人のことを、お父さんのように感じていました。あの人も、私を娘のようだと言ってくれました」


 そうか、と答えた老人は、ゆっくりとした口調で話しはじめた。


「ケンは、この灯台の下で、倒れていたんだよ。最初は、警察に突き出すつもりだったんだ。彼は……ドラッグにやられていたからね」


 詩織の顔色が、目に見えて変わった。

 しまった、と綾乃は思った。

 英語が堪能でないとはいえ、今の話の意味は詩織に伝わっただろう。ジョセフの警告がいまさらのように、綾乃を後悔させた。

 老人の話は続く。

 詩織に乞われて、綾乃は通訳するしかなかった。


 ケン・リィアンが麻薬中毒なのは、明らかだったという。

 警察に身柄を引き渡すべきだったが、9.11のテロでひとり息子を亡くしていた老人は、どこか雰囲気が似ていた彼の面倒をみることにした。

 僻地の灯台守に同居人が増えたところで、人が見とがめることも、人の口の端に上ることもなかった。

 ケンの禁断症状は長く続いたが、気分のいい日には、漁師の真似事をしたり、灯台に登って日が暮れるまで海のスケッチをしたりして過ごしていた。

 数か月が過ぎ、回復したケンは、立ち去るときに一枚の絵を差し出した。


「世話になったお礼にと、描いてくれたんだ。ほんとうならあなたの肖像を描きたいが、人を描くことができないから、と言ってね。灯台と海を描いた絵だった。私は絵心なんてないが、その絵には心を動かされたよ。今でも大切に飾ってある。天国まで持っていくつもりだ……」


 綾乃は、ジョセフの言葉を思い出していた。

『ほんとうに彼の絵が好きな人だけが大切にしている』

 そういう絵を描く画家だからこそ、老人は彼を受け入れたのだろう。そして、詩織もまた……。


 そのとき、綾乃は不意に思い至った。

 ジョセフの警告の意味を、あたしは勘違いしているのではないか――と。


「この絵の場所はこの辺りじゃないね。たぶん、ロングビーチのどこかだろう。ケンはあれから、そこで暮らしていたらしいからね」


 老人は、よい旅を、と言い残して、階段を降りて行った。


 ロングビーチ。やはりそういうことか。

 綾乃は確信した。

 この旅は、ここで終わりにするべきだ。でなければ……。


「ねえ、詩織ちゃん」


 そこでいったん言葉を切って、綾乃は詩織の目をまっすぐに見つめた。


「あたしからも訊くけど、絵に描かれた場所を見つけて、それからどうするつもりなの?」

「……」

「あのね、気を悪くしないでほしいんだけど、あたし、このまま見つからないほうがいいように思うんだ。だって、これじゃまるでオルフェウスの旅だよ」


 亡くした妻を取り戻すべく、冥界に赴いたオルフェウス。

 綾乃は思う。冥界の神は禁則を課したのではなく、慈悲を与えたのではないか、と。身も心も冥界の者となってしまった妻の姿を、オルフェウスに見せるのが忍びなかったにちがいない。

 ならばこの旅で、詩織が報われることはないだろう。ロングビーチで詩織を待っているのは、たぶんそういう結末だ。


 頼りにならない幼なじみの顔が思い浮かぶ。

 あいつはいったい、何をしているんだろう。詩織をしっかり捕まえておいてくれれば、こんなことにはならないはずなのに……。


「……大丈夫よ」


 潮風のなかに紛れ込んだその言葉が、綾乃の耳に届いた。


「私はもう大丈夫。ただ、この絵を持っていることに、疲れちゃったの」

「疲れた?」


 うん、とうなずいて、詩織は絵に視線を落とした。


「あの人が亡くなる直前に、この絵を託されたの。好きなようにしてくれてかまわない、そう言ってね。でも、見ているだけで辛いの。なのに、手放すことも、破り捨てることもできなくて。だから、絵に描かれた場所に行けば、どうしたらいいのかがわかるかもしれないと思ったの」

「それが、この旅の目的なの?」


 詩織は答えを返さず、絵からあげた視線を彼方の水平線に向けた。

 黙り込んだ二人の間を、風が吹き抜ける。


 ごめんね、とささやいた詩織の声が、潮風に溶けて消えた。

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